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大森 荘蔵『新視覚新論』

☆mediopos-2494  2021.9.14

私がここにいて
世界を見ている

とらえるとき
私と世界は
切り離されている

見ている私
見られている世界
から
「立ち現れている」世界へ

ここでいう「世界」は
「物」や「風景」だけではない
「私のからだ」もそうだが
「心」もそこに含まれる

痛みや気分・悲しみや喜び
記憶や希望・空想・そして意志
そうした「心の中」もまた
「立ち現れている」

その「立ち現れている」世界は
「四次元の全宇宙世界の立ち現われ」に他ならない

これは禅的認識のプロセスにも似ている

素朴な認識では
山は山であり川は川というように
山も川もそれぞれの「本質」を表す
対象として存在するものとして
私のまえに現れている

しかしそうしたマーヤが解体されたあとでは
山も川もその「本質」を
いわば「抹殺」されたものとして現れる

だが大森荘蔵的な表現でいえば
新たな認識を獲得することで
いちど「抹殺」された山と川は「復元」されて
「立ち現れ」ることになる

プレ(以前)においても
ポスト(以後)においても
山は山であり川は川なのだが
プレにおいては
私と山・私と川は切り離されているのに対し
ポストにおいては
私と山・私と川は切り離されないまま
「立ち現れている」のだ
山は山であり川は川でありながら
そこにその「本質」は失われている
その山と川は「心の中」でもある

大森荘蔵の表現するように
「私」の「抹殺」と「復元」は
少しばかり過激にも感じられる表現だが

「私」という現象そして「世界」という現象を
唯物論的な世界観から
「四次元」的に(神秘学的にいえば霊的認識に)
拡張してとらえれば

対象認識に固定されてとらえられているあり方を「抹殺」し
「立ち現れている」あり方へと「復元」される
ということにほかならないだろう

■大森 荘蔵(野家 啓一 解説)
 『新視覚新論』
  (講談社学術文庫 2021/9)
※原本は『新視覚新論』(東京大学出版会、1982年)

「物と表象という二重構造の否認は本書全体のテーマの一つである。しかし私はそれを知覚の場面だけにとどまらず、記憶、感情、意志など、心または心の働きと呼ばれる一切におよぶものと考える。つまり、外なる世界と内なる心、という分別は誤りだと思うのである。
 そして更に、この物心一如の唯一の世界に対しての「私」、客観世界に対する主題としての「私」なるものもない、というのが本書のいま一つのテーマである。それはいわば世界に対するものとしての「私」の抹殺である。しかしそれは同時に物心一如の世界の中に私がおのずから復元することに他ならないのである。しかしその世界の中の一項目としてではなく、その世界のあり方そのものとして復元するのである。風景画にその風景の視点を描きこむことはできないがその風景のあり方そのものがその視点であるようにである。
 結局、私が本書で試みたことを一言でいえば、世界とその対極としての「私」、という二極二元的な構図を。世界のあり方としての私、という構図に組み変えることである。
 この作業はまず、ものが「見える」という状況を、「私」が「物」を「見る」という三極構造としてみるのは事実の誤認ではないか、という模索から始まる。そこには「見る」という動詞的状況はなく、「物」とその見られた表象という、「実物--コピー」の剥離は誤解であり、「物」はじかに裸で「立ち現れる」。ここで、海や空はその表象や像を通してではなく風景の中にいわばじかに露出しているということを表現するために、「立ち現れ」という言葉を使ったのである。そして立ち現れるのは、風景の中に、であって、「私」に、ではない。そのような風景のあり方、海や机がじかに前方に立ち現れているというそのこと、それが「私がここにいて、そちらを向いている」ということそのものだ、と思うのである。このことを的確に表現することは難しい。しかし、未熟なもどかしい表現ではあるが、あえてそれを繰り返した。そのことを何度でも確認したかったからである。これが世界の余りもの、余計ものとしての「私」の抹殺であり、同時に世界のあり方そのものとしての私の復元なのである。
 当然それは同時にまた、「私の心」の抹殺と復元でもある。極度に整合的な二元論者(例えば脳生理学者)を除いては、見たり聞いたりする知覚の風景が自分の「心の中」にある心象風景だと感じる人はまずいないだろう。しかし、痛みや気分、悲喜の感情、思い出や希望、空想や妄想、そして意志といわれるもの、これらはまぎれもなく自分の「心の中」のものだ、と人は感じている。しかしこれこそ、私を含めて人が抱く最も根本的な事実誤認だと思うのである。」
「私はいわば「心」という袋をひっくり返しにして「心の中」を世界の立ち現れに吐き出したのである。時空四次元の世界にである。世界そのものが悲しく喜ばしく恐ろしく、世界そのものが意志的であり、回想や希望は心の秘め事ではなく外部四次元世界の立ち現れである、というのである。特に記憶や回想については。現在の視覚風景そのものが既に過去の透視に他ならないということから、知覚と記憶との連続性が確かめられた。」
「一方、この世界が意志的であるということは、立ち現れそれ自体が意志的であるということである。これから割るつもりのスイカ、これから射つつもりの標的、引くつもりの引き金、その行動自体がまた意志的行動なのであって、行動の外に立ってその行動を引き起こす「意志」なるものはこれまは誤解である。覚めた行動それ自体が、箸のあげおろしに至るまですべて意志的行動であって、ここでも「意志」なるものは余りものなのである。そしてその意志的行動は崖から墜落中の手足のバタつかせに至るまですべて自由な行動なのである。自由でない行動とは麻痺と舞踏病しかない。この麻痺に対しての自由こそ、他のすべての自由概念の基礎であると考える。それを私は「動作の自由」と呼んだ。しかしこの動作の自由は量子論のような非決定論劇に物理理論の前提の下でしか意味を持ち得ないことを承認せざるを得ない。」

【目次】
1 見ることと触れること
2 見えている
3 何が見えるのか
4 「表象」の空転
5 鏡像論
6 過去透視と脳透視
7 空間の時間性
8 自由と「重ね描き」
9 言い現わし、立ち現われ
10 心

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