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小島瓔禮『蛇の神』/吉野裕子『十二支』

☆mediopos3696(2025.1.1.)

今年の干支は
十二支でいえば「巳(み)」であり
十干と十二支の最小公倍数としての周期としての
六十干支でいえば「乙巳(きのと・み)」である

その「乙巳」については
mediopos3670(2024.12.6.)においてすでにとりあげた

前回の「乙巳」は昭和四〇年のことだが
たとえば歴史上でいえば
大化の改新もその「乙巳」にあたる

その周期においては
「在来の因習的生活にけりをつけて、雄々しくやってゆく」
そうした時期にあたる

さて今回は年のはじめにあたり
十二支の「巳(み)」そして「蛇」について

「蛇信仰とその源泉」については
折良く小島瓔禮『蛇の神』が文庫化されている

エリアーデは『永劫回帰の神話』において
蛇をめぐる宇宙観を大系づけているが
それによると
「蛇はカオス、形のなきものを象徴」している
蛇を統御することで
形なきカオスから形あるコスモスを創造することができる

そうした象徴としての蛇は西ユーラシアの文明においては
『旧約聖書』の「創世記」
アダムとエバの物語に描かれているように
蛇は人間の「偉大なる他者」となり
カオス(渾沌)や「無」への忌避が一般的となる

しかし日本をはじめとした地域では
「蛇」に対する信仰は姿をかえながら今に伝わっている

そこにはおそらくカオス(渾沌)に対する
世界観の位置づけの違いがあるように思われる
一神教におけるカオス(渾沌)や「無」への
タブーのようなものなのだろう

さてここからは吉野裕子『十二支』の「巳」の章から
今年の干支である「巳」についてとりあげる

「巳」が「蛇」であるのは
「巳」の字は蛇が曲がって尾を垂れた姿に象るからであり
五行では「火」の始めとされている

これはいうまでもなく
古代中国における陰陽五行説がその背景にある

古代日本においても顕著な「蛇信仰」があり
縄文時代においては祖霊にまで高められていたが
弥生時代になると「鼠の天敵としての蛇対する
新たな「稲の守護神、穀物神の神格」」が付与され
縄文時代におけるような直接的な蛇の表現ではなく
蛇に相似のものを祖神に見立てる「見立て」がはじまる

「見立て」によるその信仰の究極にあるのは
三輪の神に代表される円錐型の山「神奈備山」であり

さらにそうした原始蛇信仰が
古代中国哲学の五行思想における「巳」が
「火」にあたるということから
「△(三角形)の火の象をもつ山は、
人間を生み出す「神の火の山」」ということになる

つまり原始蛇信仰が「巳」と習合することで
現在十二支の干支である「巳」が成立しているのである

「巳」は「植物の発生・繁茂・伏蔵の輪廻」において
「已む」という
「万物が繁盛の極になった状態」を表していて
五行では「火」の始めである

そして六十干支では「乙巳(きのと・み)」の
「乙(きのと)」は万物の栄枯盛衰の象において
「軋る」という「草木の幼芽のまだ伸長し得ず、
屈曲の状態」を表している

はじめにその「乙巳」の周期においては
「在来の因習的生活にけりをつけて、雄々しくやってゆく」
時期にあたるとしたが

「乙巳」はこれまで根強く引きずってきた因習が
次々と混乱状態になるなかかで
いわば新たなものが始まっていく時期になりそうである

おそらくその前哨戦ともなっていたのが
二〇二四年に起こった象徴的な事件だろう
アメリカ大統領選挙におけるトランプの勝利
兵庫県知事選挙における「オールドメディア」の凋落など

現在ではまだ「オールドメディア」も学者や知識人など
いわば因習と紐づけで辛うじて存在している人たちも
今年からはさまざまな混乱状態を迎えることになりそうだ

混乱が新たな良き始まりへの布石でありますように

■小島瓔禮(編著)『蛇の神 蛇信仰とその源泉』 (角川ソフィア文庫2024/11)
■吉野裕子『十二支/易・五行と日本の民俗』(人文書院 1994/7)

**(吉野裕子『十二支』〜「巳」より)

*「動物・・・・・・蛇
 意義・・・・・・「四月陽気、已に出、陰気已に蔵(かく)れ、万物見(あらわ)れ文章を成す」(『説文』)
 四月は陽気一色で、陰気は全くかくれ、万物が表面に現れ出るとき、蛇が地中から外に現れ出るときで。
「巳」の字は、蛇が曲がって尾を垂れた姿に象るとする。」

*「十二支の「巳」は、五行では「火」の始めで、動物では「蛇」が配当されている。

 「火」と「蛇」、この二つは日本人にとって、まことに深い因縁をもつ。深い因縁とは何故か。

 日本人は「山」に対して異常なまでの信仰心を持つが、火と蛇両者間の深い因縁の推理こそ、その解明につまがり、ひいては日本人の古代以来、現代に至るまでの心象風景の謎解きにも及ぶと思われるので、まず日本の原始信仰について次に記す。」

・1 原始蛇信仰とその推移

*「世界各原始民族は蛇を祖先神として崇拝した。そのもっとも根源的な理由を私は次の三点にしぼって考えて来た。

 1 外形が男根相似(生命の源)
 2 脱皮による生命の更新(永遠の生命体)
 3 一撃にして的を倒す毒の強さ(無敵の強さ)

 エジプトにおこるといわれるこの蛇信仰は東西に延びて東はインド、極東、太平洋諸島を経て、アメリカ大陸に達し、この伝播の道程に日本列島も含まれるから、日本に蛇信仰が顕著なのは当然のことである。

 即ち日本の縄文中期祭祀土器は、生々しく活気に満ちた蛇の造形で満ち溢れ、土偶の女性神の頭部にはマムシそのものさえ、巻きつけられていて、ここにみられるのは、まさにむき出しの蛇信仰である。

 これに対し次の弥生人の土器には、躍動する蛇の造形はここにはすでにみられない。しかし前述のように祖霊にまで高められている蛇が、この頃になった急にその神聖性を失ったとは思われないのである。私見よれば、弥生時代の蛇信仰は次に用に変化する。つまり、その第一は、祖霊の神格は保持しながらも、その一方、鼠の天敵としての蛇対する新たな「稲の守護神、穀物神の神格」の付与である。

 その第二は縄文人における直接的な蛇の表現は避けられ、蛇に相似のものを祖神に見立てる「見立て」ということの始まりである。」

・2 「見立て」について

*「弥生人はトグロを巻く蛇の姿を円錐形の山容に感じ、直立する樹木の姿には手足のない一本棒の蛇の形を連想し、ウネウネとはう草木の蔓には、伸び縮みする蛇の姿を重ね合わせた、つまり縄文のむき出しの祖神の表現から、「見立て」という、ある意味では間接的であっても、よりいっそう、自由闊達な想像の世界にその表現は以降していったのである。

 「見立て」による彼らの信仰の究極にあるものは、前述のように円錐型の山、即ち神奈備山であった。これらの山の神はほとんど例外なく蛇神であり、その代表は三輪の神である。」

・神奈備山考————原始蛇信仰と「巳」の習合

*「縄文時代の日本原始信仰では蛇は祖霊として信仰された。次の弥生の稲作時代になると、蛇は稲田や穀物倉を荒らす鼠の天敵故に、田の神、穀倉び神となる。そこで蛇神の「ウカ」が「倉稲魂命」即ち倉の稲を守る神と記されるに至るが、田の神、穀倉の神とは要するに穀物神ということである。また水の上も陸と同様に行く蛇は水の神としても崇められた。

 祖霊にして且つ穀物神で水の神であもる蛇。これが縄文時代の蛇信仰の上に、新たに付加された蛇神の姿であり、神格であった。

 こうして連想好き、擬き好き、見立て好きの彼らは、その回りを取り巻く自然の中に祖神の姿を求めて、これを信仰の対象とした。

 しかしアジア大陸の東の果てに位置する列島には耐えず海波からの夥しい渡来人の受け入れが運命づけられていた。中でも当時の先進国中国の文物制度・思想哲学はその文字と共に恐らく六世紀には大量に列島内に導入されていたと思われる。それによって列島の諸般の事情は大きく様変わりし、素朴な蛇信仰も例外ではなく、変改をとげたに相違ない。

 その結果、偶然というか、当然の成り行きというか、それは判然としないが、山に対する信仰においても両者はまったく自然に溶け合ったのである。つまり山を祖霊として信仰することにおいて、両者は完全に一致するが、その習合の経緯を私は次のように考える。

 ①見立てを好む弥生人によって円錐型の山は祖神がトグロを巻く姿そのものとして信仰された。

 ②円錐形とは三角形である。

 この世の事物事象のすべてを、木火土金水の五元素に還元・配当する古代中国哲学の五行思想が導入されると、三角形の円錐型の山に対し、新たな視点が加えられることになる。

 ③五元素の一つ。「火」とは「炎」であり。この炎は三角形を以て表現される。

 ④ここにおいてトグロを巻く祖神の姿として捉えられてきた円錐型の山は、同時に炎を象る「火の山」として眺められることにもなった。

 ⑤十二支の「巳」は動物では「蛇」。「巳」はまた火の方局の始め、火の始めである。

 ⑥円錐型の山は原始蛇信仰の祖神の蛇山であると同時に、火の始めを象る五行の「火の山」であり、また「巳山(みせん)」でもあった。

 ⑦五行において「土気」の最大のものは「山」であるが、同時に「火気」を象る最大のものは、三角形、即ち円錐型の山である。

 ⑧五行の配当によれば、人間は土気。土気の中でも至高の存在が人間である。

 ⑨五行の相生の法則の一つに「火生土」がある。土気を生み出すものは「火」。「火」は「土」の母である。即ちこの法則によれば人間の祖(おや)は火ということになる。

 ⑩人間の祖は神である。円錐型の山が地上最大の「火」を象るものであり、土気の人間を生み出す祖であるならば、その山は当然、「神の火の山」ということになろう。くり返せば、△(三角形)の火の象をもつ山は、人間を生み出す「神の火の山」ということになる。

 ⑪この「神の火の山」は、「神奈備山」などと宛字されるが、「カンナビ」の「ナ」は、格助詞の「ノ」が転訛した「ナ」であって、神奈備山の原意は、従って「神火山(カミノヒノヤマ)」である。

 ⑫原始蛇信仰においてトグロを巻く祖神の姿として信仰された円錐型の山は、五行導入後においても、前述の理由によって人間の祖霊として捉え直され、十二支においても「巳山(みせん)」といって信仰され直す。」

**(小島瓔禮(編著)『蛇の神』〜「はじめに」より)

*「人類と蛇との交渉の歴史は古くて深い、世界の諸民族には、蛇に関するいろいろな民俗が知られている。日本にも豊富にある。しかし、家畜や狩猟の対象になる動物とちがって、自然ままの蛇の利用はそれほど多様ではない。大部分は人類が文芸や宗教のなかにえがきあげてきた蛇である。そこにいるのは、「自然としての蛇」をとおして人間がさまざまな価値を与えた、「文化としての蛇」である。」

*「人間と蛇を二項対立的にとらえる方法は、西ユーラシアの文明ではつとに『旧約聖書』で論理化されている。「創世記」のアダムとエバの物語で、蛇にそそのかされた二人が善悪の智恵の樹の実を食べたことを知ったヤハウェ神は、蛇と女の子孫とのあいだに敵対関係を置くと告げている。人間が、産まれ、働き、死ぬという運命を背負ったのも、この蛇が原因である。すでにここで、蛇は人間の「偉大なる他者」であった。」

*「宗教学者ミルチャ・エリアーデは、『永劫回帰の神話』のなかで、蛇をめぐる宇宙観を大系づけている。蛇はカオス、形のなきものを象徴する。蛇を統御することは形なきものから形あるものへと転移する創造のわざである。形あるものとはコスモスであり秩序である。すなわちカオス(渾沌)を自然とし、蛇の世界であるとすれば、コスモス(秩序)は文化であり、人間の世界である。

 人間の精神文化に映し出された蛇が、一つの論理だけで成り立っているとはおもえない。民俗学では、このばあい、事実を一つ一つことこまかに比較して、民俗を支えている自然観照の原理を明らかにしなければならない。ただ、そうした細かい問題の差異を越えて、全体を大きく一つにまとめた、蛇にたいする観念の基本の構造のようなものもありそうに思える。今、私は、この蛇のカオスとコスモスの論理が、この蛇の民俗自然誌の根底の原理ではないかと考えている。」

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