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全卓樹「人間社会を科学で理解できるか?」・平川克美「お金で買えないものはあるのか?」(現代思想2024.1)/八木雄二『古代哲学への招待』/稲垣良典『神とは何か』

☆mediopos3441  2024.4.19

科学が信仰になるとき
科学的に説明される世界だけが
現実の世界だと信じられるようになり
それ以外のものは実在しないとみなされるようになるが
それは「お金」が信仰になる世界と似ている

科学で説明できないものはなく
(いまはまだ科学的には説明できていないが・・・とも)
お金で買えないものはない

その二つの信仰がむすびつくことで
科学もお金もそのほんらいの役割が錯誤される

いうまでもないが
科学は対象化できるものを知る方法だが
対象化できないものを知ることはできない

そしてお金で買えないものはいくらでもあるし
お金で買ってはいけないものもいくらでもある

しかしふたつの信仰のタッグは
「知る」ということ
「生きる」ということを
強迫的かつ黒魔術的な仕方で
「人間社会」や「自然」を支配しようとする
盲目的な衝動へと向かわせ

「知る」ことにおいては「自己知」が
「生きる」ことにおいては「贈与交換」が
除外されてしまう

しかしほんらいその両者は
知ることと生きることの根底で
ひとを支えてくれている

ソクラテスが刑死せざるをえなかったのも
資本主義で経済成長という病が蔓延したことも
それぞれが等閑にされたことから起こったのだろう

現代はその二つの信仰のタッグの袋小路へと向かい
レミングの大移動のような様相を呈しているが
逆にいえばそうした現実に直面しなければ
「知る」ことも「生きる」ことも
そのほんらいに気づくことが
できなくなっているということだろう
そこに反面教師から学ぶという課題がある

そこにはおそらく現代の最重要テーマである
「自我」が深く関わっている

ひとはじぶんをもてあまし
その力をどのように使えばいいか
わからなくなっている

じぶんを知ることが
どういうことなのかわからないため
知識を溜め込んで誇ったり
ひとや社会の承認を得ようとしたりすることで
「自己実現」なるものを図ろうとする
マインドフルネスなるものさえ
多くの場合そのなかのひとつの手段と化す

そして「自我」は幻の現実をさまよい続け
魂の平安や歓びからはますます遠ざかってしまう

ひとはじぶんからは決して離れられないにもかかわらず
じぶんから離れようとして生きている

その矛盾にどのように気づき
その幻から自由になるか
それはおそらくひとにとって最大の
「ビッグ・クエスチョン」だといえるのではないか

■全卓樹「人間社会を科学で理解できるか?」
■平川克美「お金で買えないものはあるのか?」
 (現代思想2024年1月号 特集 ビッグ・クエスチョン)
■八木雄二『古代哲学への招待 パルメニデスとソクラテスから始めよう』
 (平凡社新書 2002/10)
■稲垣良典『神とは何か 哲学としてのキリスト教』
(講談社現代新書 2019/2)

**(全卓樹「人間社会を科学で理解できるか?」より)

*「何故か我々は、自分たちの作る社会について、彼方の星々が作る銀河について程の知識も持ち合わせてない。」

*「「私」を考えるのが人文学、「状況」を考えるのが自然科学だとすれば、社会科学は「私のいる状況」を考える学問であろう。

 ここで「私」が二重の意味で再帰的であることに注意を促したい。「自由に意思し能動的行動をおこなう私」の前に、「観察され分析される私」が立っている。さらには「状況」の中には「他者」が居て、それは外から見た「私」に他ならない。

 社会科学が難しいのは、なにか知見が得られるとそれが「私」の行動変容をもたらし、「状況」が変化してしまう点である。

 「状況」を「客体宇宙」として分析する自然科学では、このようなことは起こらないと通常は思われるかもしれない。しかし実は自然記述の根本をなす量子力学では、客体の状態が私の観測で変化する。自然科学で「状況」を調べるそもそもの目的が、状況を救い私の自由意思を増大し、私を救うためであることを考え合わせれば、社会科学と自然科学に、なにか根本的な区別がわるわけでもない。

 社会科学において「私の再帰性」の一番厄介な点は、「人生は芸術を模倣する」という「オスカー・ワイルド効果」とでも称すべきものの存在である。たとえば著名な社会学者ダロン・アセモグルが「ウクライナ敗北すべからず。もし負けたなら、英米流自由民主主義が最善の制度だという私の理論が破綻してしまう」と言ったとしてみよう。これに呼応して学者や実務家、政策担当者が注力を重ね、自由民主主義のさらなる制度改善に努め、その結果アセモグル理論通り最善の制度として磨きがかかるかもしれない。

 つまり我々自身の社会を研究する営みにあっては、「学問」と「プロパガンダ」との区別をつけるのが、多くの場合困難なのである。これは決して社会の研究を貶めるものではなく、むしろこれこそが実践的学問のあるべき姿だという見方もできる。いずれにせよ、プロパガンダであれ学問であれ、それが有効であるためには数理化、厳密科学化による予言制度の向上が欠かせないだろう。

 翻ってみれば、自然科学にしても、学問とプロパガンダとの混淆と全く無縁というわけではない。(・・・)

 知の再帰性に起因する学問の社会性から目を背けるのではなく、それを正しく認識した上で自覚を持って事に当たるのが、我々にできる唯一のことであろう。

 社会科学の数理化の追求、また社会科学と自然科学の融合は、実践的学問をさらに実践的にするための現代の喫緊の課題である(・・・)。」

**(平川克美「お金で買えないものはあるのか?」より)

*「金で買えないもの、金で買ってはならないものがある。しかし、現実にはそれが売買されているのを目にする。」

*「私は、これまで何度か「金で買えないものはあるのか」と問われたことがあった。その答えはいつもシンプルなものだった。金で買えないものなどいくらでも考えつくからである。第一に、愛情や尊敬といった心的な領域に属する形のないものは、当然のことながら金では買えない。いや、それどころか、寿命や、才能、生まれながらの容姿といったものも金では買えない。せいぜいのところ、それらをサポートする薬や、施術サービスや、医療設備を金で買うことができるだけである。第二に、自然界に属している全てのものも金では買えない。空気や水や、太陽熱といった自然の贈与、そこに人間そのものを付け加えても良い、歴史上、人間が奴隷として売買されたことがあったのは事実だが、それこそ人類史的な過誤だったと、今では誰もが考えている。そして、第三に社会共通資本というものがある。道路。交通機関、上下水道、社会共通制度資本である教育、医療など、これらのものは、歴史上、金で支配されることがあったかもしれないが、原則的には金で買えないものである。正確には、金で売買してはいけないものだというべきだろう。

 いや、それらのすべては実際に金で売買されているではないかという反論があるかもしれない。しかし、実際にそれが行われていることと、それが理にかなった正しいことであることとは別のことだ。

(・・・)

 だからこそ、「金で買えないものはあるのか」と繰り返し問う必要があるのだ。」

*「贈与的な交換が支配的な場所では、経済発展はありえない。ゲルマン民族の大移動から始まる中世社会は、発展のないまま一〇〇〇年間続いたのである。私たちが生きている世界は、贈与交換という基盤の上に、貨幣交換の仕組みが乗っかっていると言って良いと思う。

 貨幣交換は、絶えざる関係の断絶、つまりは無縁を作り出すことで、促進され、発展してきたということだ。貨幣交換を加速するためには、古くなった服も、車も廃棄されて、新しいものに買い換えられなければならない。成長の止まった会社は、清算して新たに別の会社に作り直されねばならない。役に立たなくなったものが捨てられるように、社会効率の落ちた年寄りには退場して貰う必要がある。絶えざる断絶を作り出さなければ、貨幣交換を続けてゆくことはできない。成長かそれとも死か。こうした考え方は、あらゆる交換の基盤である贈与交換の重要性を見失ったものが行き着いた世界に蔓延する。かれらの眼いんは、家族関係、共同体内部の相互扶助、国家による救済は、関係の絶えざる断絶を阻害しているように映るだろう。関係の絶えざる断絶が、貨幣交換に拍車をかけ、経済成長を保証する。私はまったくそのようには考えないが、成長のためにはそれしかないと考える者たちがいる。公害も、地球温暖化も、そうした考え方が支配的になった結果だろう。経済協力開発機構OECDはかつて「経済成長はすべての問題を解決する」と言っていたが、近ごろは「持続可能性に必要なこと」についてアナウンスしている。しかし、先に経済成長の果実で満腹になったものたちの言葉は、発展途上の人々に届くのだろうかと思う。貨幣交換が蒔いた種は、行くところまで行かないと後戻りすることは難しい。経済成長は人類史的に見れば僥倖ではなく。病であったのかもしれない。」

**(八木雄二『古代哲学への招待』〜「その一 パルメニデスとソクラテス」より)

*「ソクラテスの言うことは、なぜそれほどの困難さをもつのだろか。それはただ、「自己を知る」ことが困難だからである。人は多くの場合。自己を知ることを、自己以外の対象を知ることと類似のことであると考えがちである。知の対象を他者から自己に向ければ、それで済むことであると考えてしまう。ところが、現実はそのように機械的にはいかない。実際、近代以降、科学は著しく進歩した。それは他者の認識に関する技術的進歩があったからだということは、だれもが承認するであろう。宇宙に関して、そしてもろもろの構造物について、わたしたちの知見は間違いなく進歩しているのである。ところが、同じだけの進歩が自己認識に関して近代以降にやはりあったと考える人はだれもいない。

 あるいは、科学研究では天才的な人が、では自己について天才的に知る人かというと、そういうことは決してない。すぐれた研究を世界に認められながら、自己については、知りたいと望むだけに終わってしまう人間ばかりなのである。

 これらの事実が明らかにしているのは、自己以外の対象を研究するに際してすぐれているからといって自己の研究ができるとはかぎらない、ということである。だから他者の研究で天才であっても、それは自己の研究で天才であることを意味しない。世の中にはきわめて多くの天才が輩出しているが、そのだれもが、実は自己以外の対象についての研究で天才なのである。それに対してソクラテスは、自己を知ることにおいて天才であった古来まれなる人なのである。

 自己を知るといっても、それは人間を心理を一般的に理解することをいうのではない。なぜなら、自己知というのは、人間一般の知ではないからである。たしかに自己は人間の一員である。しかし、人間一般を分析することは。自己の本質的分析には届かない。というのも、自己は対象に関わろうとする主体であり、そのかぎり、対象化をまぬがれて存在するからである。(・・・)

 だから本来、対象化をまぬがれる自己を知ることは、特殊な知の活動なのである。多くの人は、世に哲学者と呼ばれる人は多かれ少なかれそのような知をもつと考えるかもしれないが、それは誤解である。(・・・)

 人間が己の主体を主体のままに認識することは、「自覚」と言われる。この自覚をもつことができる者は、案外に少数の人間にすぎない。たとえば仏教の伝統では、それは「仏陀」となることを意味する。それほど得難い知なのである。ソクラテスはそのまれにみる人間のうちの一人だったのである。」

**(稲垣良典『神とは何か』〜「まえがき」より)

*「人間の「知る」という働きは正確に言えば科学的に知ることだ、少なくともそのことを目指すべきだ、という立場をとる人々————恐らく「知識人」とか「科学的な考え方をする人」の大半がそうだと思われるが————にとっては「神とは何か」という問いは知識の領域に属するものとは見做されない、

 ところで(科学的)知識の領域に含まれないということは、科学的に説明される現実の世界には存在しないということであり、科学的に説明される世界のみが現実の世界だと信じる者にとっては、そのような(科学的知識の領域に含まれない)ものは実在しないに等しいことになる。」

*「「神とは何か」という問いは、「自己とは何か」という問いの探求の深まりが必然的に呼び起こし、考察せざるをえなくなる問いであると同時に、「自己とは何か」という「人間精神の自己への立ち返り」である問いを真剣に問うことによってのみ生まれてくる問いである。」

*「「自己」を知る、すなわち「自己」という精神的存在を知的に理解するために第一に必要なのは、自己を「どこに」見出すかである、それは目に見える物体のように「ここ・あそこ」に在るのではなく、「時」のうちに在るものとしてまず見出される。時のうちに在るということは自己という存在には始まりがあって、終わりに向かって進んでいくることを意味する。古今、東西を問わず、昔から自己を振り返ることを学んだ者が第一に問うのは「私はどこから来て、どこへ行くのか」であるのがその証しである。

**(稲垣良典『神とは何か』〜「第一章 なぜ形而上学か」より)

*「「知る」は慥かに日常の平凡な事実であり、そして「知る」ことにおいて「知る者」は「知られるもの」と何らかの仕方で一つになる(それが「知る」ということだ)ということも万人周知の「判りきったこと」である。だがわれわれがこの「わかりきったこと」に大きな驚きを覚え、それはどのようなことであるかを探求し始めると、それがじつは計り知れない神秘であることに気付く。「知る者」は何ら通常の意味での変化を蒙ることなしにいかにして「知られるもの」と一つになりうるのか。それは科学的な方法では決して解明できない、つまり「問題」ではなく「神秘」であって、この神秘に接近する方法が形而上学的探求なのである。」

*「われわれが現に日常生活のなかで思考・認識・理解など一連の知的活動を行っている「場」は「形而上」的なのであるから、形而上学は決して日常生活から遊離した世界に関わっているのではない。むしろその反対で、思考・認識・理解などの知的活動を行っている私自身・自己へと完全に立ち返り、自己の本質を認識することから初めて、自己すなわち知的存在・精神である私が認識する固有の対象である「在るもの(エンス)」の考察を根元的・徹底的に行うのが形而上学にほかならない。」

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