南原 実『極性と超越―ヤコブ・ベーメによる錬金術的考察』
☆mediopos-2472 2021.8.23
哲学に関心があるならば
さらには神秘主義に関心があるならば
ヤコブ・ベーメの名を知らないことはないだろうが
その著作は日本ではいまではもう
ほとんど読まれていないのかもしれない
個人的にいえば
ヤコブ・ベーメに関心を持つようになったのは
ノヴァーリスの影響が大きいが
今回ヤコブ・ベーメにふれてみることにしたのは
むしろ南原実というドイツ文学者への関心からである
先日古書店で『牧神』という
一九七〇年代中頃に刊行されていた
文藝評論誌のなかに「神秘主義」の特集を見つけたが
(1976年の暮れに刊行された第七号)
そこに(なんと)高橋巌によるシュタイナーの講演
「血はまったく特製のジュースだ」が訳されていた!
そしてそこに南原実の著作
『ヤコブ・ベーメ―開けゆく次元』のために執筆したものの
掲載できなかった原稿も掲載されていたのだ
一九七〇年代中頃のじぶんはといえば
やっと哲学の「てにをは」を囓り始めたころで
シュタイナーやベーメを知るようになるまでには
その後10年ほどの歳月を要することになる
とはいえ南原実の名は
その当時使っていたドイツ語辞典『現代独和辞典』の
編集者のひとりとしてすでに知っていたのけれど・・・
その南原実にはヤコブ・ベーメについての訳・著作があるが
今回あらためて再認識したのは
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』や
『クレーの日記』の訳者でもあるということだ
南原実は2013年にすでに亡くなってはいるが
今回は遅まきながら
南原実への感謝と敬意を込めてとりあげてみた
さてさいごに神秘主義について少しだけ
科学なるものは神秘主義を忌み嫌うが
神的存在をみずからの内面で
直接体験しようとする宗教的な在り方は
対象認識においては経験され得ないため
科学が求める客観性からは排される世界だからだ
しかもそれは組織的宗教においては
多くの場合異端として排されもする
科学(主義)と宗教(団体)とは
その点よく似たスタンスをとる
実際科学は宗教から派生してきたものでもあるからだ
宗教は教義に基づいて信仰を管理し
科学は実証に基づいて現実を管理しようとする
描く世界は異なっていてもどちらも
世界認識を特定の在り方へと方向づけようとするのだ
そしてそこには「自由」は存在し得ない
神秘主義もまた「自由」に向かって
開かれているとは言いがたいのだが
(自我を否定する受動を基本とするからだ)
自我が自我を超えていくありようを
受動と能動のあいだで求めてゆくことは
むしろ必要となってくるのではないだろうか
科学的でありながら科学を超え(拡張し)
宗教性を持ちながら宗教を超え(拡張し)て
「自由」へと開かれた世界認識へと向かうために
■『文学季刊 牧神7 特集●神秘主義について』(牧神社 1976/11)
■南原 実『極性と超越―ヤコブ・ベーメによる錬金術的考察』
(新思索社 2007/7)
■南原 実『ヤコブ・ベーメ―開けゆく次元』(哲学書房 1991/4)
■ヤコブ ベーメ (南原実訳)
『ヤコブ・ベーメ キリスト教神秘主義著作集 <13> 』(教文館 1989/11)
■パウル・クレー(南原実訳)『クレーの日記』(新潮社 (1961/10))
(南原 実『極性と超越―ヤコブ・ベーメによる錬金術的考察』より)
「まぼろしのヤコブ・ベーメ−−−−
ヤコブ・ベーメについては、とくにヘーゲルの言葉が有名である−−−−
「ベーメこそドイツはじめての哲学者であり、その哲学内容は真にドイツ的である。」
ヘーゲルの『哲学史講義』のベーメの章をひらいてみると、「絶対至上の対立」「否定にひそむ魔力」「弁証法」「体系的構想」など、ヘーゲルをヘーゲルたらしめている魅力あるテーマは、すでにベーメの問題だったことを知り、シェリングが、「人類の歴史における奇蹟の現象」とベーメを讃美したのも、ふしぎではない。
その名が近代ドイツの哲学者たちのあいだに知られはじめるまで、ベーメの死後百五十年近くのときがすぎた。彼は、町の牧師に迫害され、プロテスタント教会から異端視、迫害された。そのことばの魅力にとりつかれた人たちが、かれを支援し、作品を書き写し、その名をひろめ、ベーメ自身家業(靴屋)をやめて哲学者(錬金術師)になる期待をひそかにいだき、また預言者として平和の神の国の到来をその目で見る期待をいだいたが、失意のうちにその一生を終えた。」
「ドイツでは無視されつづけたベーメの哲学は、外国へひろがった。もしも、オランダの豪商ベイエルラントがいなかったら、いまほとんど完全に残されたベーメの作品は、おそらく私たちに伝わらなかったにちがいない。かれは、三十年戦争の戦火のあいまをぬってベーメの自筆本、写本、手紙の類を買い集め、国にもちかえり、オランダ語に翻訳した。そしてその資料をもとに編集された最初のドイツ語版のベーメ全集はmオランダの町アルンヘムの前市長の援助をうけて、アムステルダムで刊行された(・・・)。オランダからイギリスにかけて、十七・十八世紀にベーメを熱狂的に崇拝するグループは数多く、その時代の宗教心情にベーメが大きな影響を与えたことはよく知られているが、ベーメの思想はまたロシアへ流れ込んだ。一六八九年の四月、ベーミストのクールマンが、未来の神の国を夢見てロシアにたどりついたとき、モスクワでは、ベーメに心酔する一派がかれを迎えた。そしてその年の十月、クールマンはノルダーマンとともに異端のそしりを受け、火あぶりの刑に処せられたが、その後ロシア人のあいだにはベーメの教えがひろまり、十八世紀のはじめにはベーメの作品の教会スラブ語への翻訳、さらに十八世紀のおわりにかけてのおびただしいロシア語への翻訳−−−−こうした事実は、ベーメがロシア人にとってどんなに魅力的な人物だったかを証明してあまりある。
ドイツからオランダ、オランダからイギリス、イギリスからアメリカ大陸、そしてまたフランス、あるいはまた、ドイツからウクライナ、ロシアへと二百年をかけてわたりあるいたベーメは、故国へもどってきて、バーダー、シェリング、ヘーゲル、フォイエルバッハ、ショーペンハウアーなど、ドイツの哲学者のあいだにもその思想が知られはじめたが、とくにドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスは、ベーメに心を奪われ、ロマン派の人々の興味をさそった。フランスでは、私はベーメの靴紐をとくにも価しない、といったサン=マルタンが有名である。最近のベーメ主義者といえば、ソロヴィヨフ、ブルガーコフ、ベルジャーエフなどのロシア人であることはよく知られているが、ベーメの名は、たとえばまたアメリカの作家ヘンリー・ミラーの書くものに突然出てきて、私たちをおどろかす。」
「新プラトン主義、カバラ、ヘルメスの神話がキリスト教の信仰と精神のなかに再生したヤコブ・ベーメの錬金術は、シュールレアリズムを思わせる絵画的、詩的なことばに包まれ、天上の高みから地獄の底まで、底なしの底から天上界にわたる雄大なヴィジョンを描く。人間のからだのすみずみにまではりめぐらされた神経回路にも似て、人間、宇宙、カミすべてに及ぶその奇蹟は、暗黒の闇の底から立ち上がり、私の魂を苦くしめつけ、甘美にゆさぶり、不安の輪に巻き込んではげしく回転する。稲妻は魂の闇夜を走り、炸裂して飛び散る光の粉が、色とりどりのひびきとなって流れ出るその壮大な光景は、知の女神ソフィアのよろこびの王国へと手品のようにかわる−−−−この真実は私を圧倒した。なぜまたこれらすべてがあり得たのか。理解を超えた非日常の世界を、私は偉大な錬金術師に手をひかれてめぐり歩いた。太陽名赤く大きく西のかなたに沈んだ。そして、月はいつものように何事もなかったかのように静かに東の空に浮かんだ。」
(『文学季刊 牧神7 特集●神秘主義について』〜萩原準一郎(編集人)「あとがき」より)
「●「人間が、キリストの道をあゆみ、古いアダムを克服し、新しい人間となるとき、自然は救われる。新しい人間は、受動性によって誕生する。受動性とはエゴの欲望の否定である。・・・・・・それぞれが対等の場にある関係は、愛である。たがいに相手の場を認めるとき愛することができる。愛が生まれるときに、自然を発見できる。作為なくエゴなく自然との関係に立てる。・・・・・・エゴを立てるとは、自分に与えられた場に満足せず、「はね上がる」ことである。自分の場を認めるとは相手の場を認めることである。エゴを捨てることは、それぞれの相手の場を認めることによって、自分の場が立つ。ありのままの位置を認め合う。ありのままの位置は、その底ないし中間にある空間、ないそ無によって定められている。自分の位置をありのまま認め、満足するとき、この無に近づく。無心となる。無は、万物を成り立たせている根源である。万物は、無から出て、無の中にあり、無の中へと帰る。万物は滅びるのである。はじめに帰ることができる。」
引用は長くなったけれども、これは『ヤコブ・ベーメ―開けゆく次元』(南原実著)の一節である。(・・・)
●受動性とは、受苦的存在としての人間の原初であり、再び帰ってくるところであると共に、人間の本質的な力であるはずで、神を見失い、愛(=神)を愛さず、たがいの欲望とエゴを追求する世界が忘れた、人間の根源的な重大事であろう。こうした精神の危機をいち早く敏感に予感し打ち克とうとするのが芸術家であるなら、その一人パウル・クレーもまたそうであり、『クレーの日記』(南原実訳)には次にような箇所がある。
「ファウスト的なものは、いまや私とは縁もゆかりもない。私は、俗界を去り、本源そのものへと向かう。虚界を遠く脱したここにこそ「創造」の根源がひそんでいるのだ。」「ただ無限の可能性がある、無限の可能性への信仰が、心のなかに、創造にはげむべく生き生きと脈打っている。私の体から発するものは、熱であろう? 冷気であろうか? 白熱を超えた彼岸では、一切の問いは黙す。」「芸術は天地創造のようなものだ。はじめに芸術があり、また万物終末の日にも、芸術はある。」
●自我脱却による創造、創造の自己実現へ向けてのクレーは、精力的である。そのよってきたる根源には、神秘主義思想へ通じる存在論的意志が感じられるのだが、それと同時に、孤独に一人汗を流しつづけるクレーの姿が目に視えるようで、神秘主義思想にいつもつきまとう肉体の問題、普遍と特殊の問題、そして救済の問題が浮かび上がってくる。相対化される「私」の契機はどこでもころがっているのだが、いつからかエネルギーを喪失している。
●相対化されるのは人間だけではなく現実もまた相対化されるのだが、不感症とも不能ともいえる精神の兆候に対して、神秘主義思想は極めて根源的であると言っていいかも知れない。特殊が普遍に到達する仕方が、つねに普遍に向けての志向をもち、普遍性を通してしか成立しない、というのであればこれにはかなりのエネルギーの創出と更なる肉体の行使が必要になってくるだろうという予感が離れない。
最後に、今回掲載していただいた高橋巌氏のルドルフ・シュタイナーの講演訳「血はまったく特製のジュースだ」は、重要な問題を提起していることを指摘しておきたい。」