米田彰男『イエスは四度笑った』/『『ユダ福音書』の謎を解く』/若松英輔「「笑い」が開く境域」(『群像』)ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
☆mediopos3530 2024.7.17
昨日(mediopos3529(2024.7.16)は
「愛と笑い」についてふれ
「「愛」を説いたイエスには
「笑い」はなかったのだろうか」
と問いかけてみたが
米田彰男『イエスは四度笑った』は
マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネの
四つの正典福音書のなかでは一度も笑っていないイエスが
「大いに笑った」ことを読みとろうとする試みである
その試みの前置きとして
一九七〇年代に発見された『ユダの福音書』のなかでは
イエスが四度笑っていることが紹介されている
『ユダの福音書』は
グノーシス的な視点から記述されていて
その四度の笑いは
造物主へ祈ることを笑うように
生きたイエスの笑いとは言い難いようだ
そのようなグノーシス的な視点からの笑いではなく
「歴史の中に生きたイエスが、
いわばユーモアの塊であったればこそ、
絶望のどん底にある人々が自ら近づいて来たのであり、
子供らも、あるいは当時男性と気軽に対話をすることが
許されなかった女性らも、無心に咲く花の周りを蝶が舞う如く、
近づいてきたのである」という
そして「イエスの用いる比喩の面白さは尋常ではな」く
「逆説の響きとユーモアの匂いが漂ってくる」ことから
著者は正典福音書のなかに描かれている
有名な次の四つのエピソードをとりあげて
そこでイエスが大いに笑ったであろうことを検証している
(それぞれのエピソードについては引用部分で)
「よきサマリア人の譬え話」
「フェニキアの女の機知」
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」
「腹の中に入り、厠に出る」
さて『群像』(8月号)にも
「笑い」のテーマで
釈徹宗×若松英輔の往復書簡「宗教の本質とは」第8回
若松英輔「「笑い」が開く境域」が掲載されている
そのなかでも「イエスは笑ったのかという問い」に対し
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』における
主人公のアレクセイとゾシマ長老の話から
「イエスはもちろん笑った、それだけなく、
人々との時間を大いに楽しみさえした」こと
さらに「笑い」について
河合隼雄が「「笑い」というのものは、
常に「開く」ことに通じる」ことを
示唆していることが語られている
そして「深いところから笑う」ことでそれは
「ときに、世界とのつながりを根源的に変え」るものともなり
また「自分が想像もできなかった深い安堵を経験するときも
人は、笑っているのではない」かと示唆されている
「笑い」によって開かれる世界から
射し込んでくるであろう光とともに生きられますように・・・
■米田彰男『イエスは四度笑った』(筑摩選書 筑摩書房 2024/5)
■エレーヌ・ペイゲルス/カレン・L・キング(山形孝夫訳)
『『ユダ福音書』の謎を解く』(河出書房新社 2013/10)
■釈徹宗×若松英輔 往復書簡「宗教の本質とは8/若松英輔「笑い」が開く境域」
(『群像』2024年8月号)
■ドストエフスキー(原卓也訳)『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫 (1978/7)
**(米田彰男『イエスは四度笑った』〜「はじめに」より)
*「聖書のどこにも、イエスの笑いは出てこない。新約聖書、徳にイエスの生涯の言動を描いた福音書、今日キリスト教において正典とされる四つの福音書、〈書かれた順に〉マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネによる福音書のどこにも、イエスの笑いは出てこない。「史的イエス」、すなわち歴史の中に生きたイエスは、本当に笑わなかったのか? 聖書におけるイエスの笑いの不在は、二千年に亘る一つの謎である。」
「一九七〇年代に発見された『ユダの福音書』、約千六百年間ナイル川流域の土の中に埋もれていたこの福音書においては、イエスは四度笑っている。一人のグノーシス主義者によって書かれた、イスカリオテのユダの福音書における、イエスの四度の笑いは、いったい何を意味するのか? また、確かに『ユダの福音書』においてイエスは四度笑っているが、その笑いは歴史の現場で本当にイエス自らが笑ったものなのか? そうではなく、『ユダの福音書』の著者が自己の主張を正当化するため、イエスを著者自身が笑わせたに過ぎないのか?
マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネの正典福音書には、イエスの怒り、イエスの苦しみや悲しみ、イエスの喜びは、ギリシャ語の言語においても明記され表現されている。
しかし、ギリシャ語の言語自体においても、イエスの笑いは不在であり欠如している。」
*「本書は(・・・)正典福音書の中で一度も笑っていないイエスを、もう一度イエスが生きた歴史の現場に戻し、「イエスは笑った。四度ならず、大いに笑った」ことを、無力ながらも力の限り追求した一つの試みである。」
**(米田彰男『イエスは四度笑った』〜「第二章 イエスを四度笑わせた『ユダの福音書』」より)
*「第一の笑いは、端的に言うとエウカリスチア(ギリシャ語で「感謝の祭儀」、後にカトリックでは「ミサ」と呼ばれる)に対する笑いである。『ユダの福音書』の冒頭で、「信仰の儀式」(・・・)を弟子たちがしており、パンに感謝の祈りを唱え、食事を分け合い、食べ物を与えてくださった創造主に感謝を捧げている。その創造主をグノーシス派はサクラスと呼ぶ。ところで『ユダの福音書』におけるイエスの神は、この世の創造主ではない。一方旧約聖書の神、すなわちユダヤ教も正統派キリスト教も万物の造り主こそが神である。だからグノーシス派のイエス、すなわち『ユダの福音書』のイエスは笑っているのだ。劣位の神に過ぎないサクラスを、今弟子たちは讃美している。その姿を、グノーシス・キリスト教のイエスは笑っているのだ。正統派キリスト教にとって最も重要な儀式であるエウカリスチアを嘲笑している。これは形成され、拡大しつつある正統派キリスト教会にとって、断固として看過できない事態である。」
*「第二の笑いは、(・・・)弟子たちがイエスの出自に関し無知であるが故の笑いである。神の王国(バルベーロー)についての、弟子たちの知識の欠如を笑っているのだ。」
*「第三番目の笑いは(・・・)ユダやイエスに自分以外の弟子たちの幻の話を聞くだけでなく、今度は自分が見た大いなる幻について聞いて欲しいとせがみ、そこでイエスは笑っている。どうして笑ったのか。
一つの可能性は、他の弟子たちに負けまいとして語りたがるユダの熱狂ぶりをイエスが面白がった笑いである。ここには、滅びゆく「人間の諸世代」に属する他の弟子たちと異なり、今は不完全ではあるが永遠に輝く「あの世代」に属するユダへの共感を伴った、いわば喚起の笑いがある。(・・・)
しかし、もう一つの可能性もある。それは他の多くのグノーシス文書に見られる、この世の闇の勢力や物質世界に対する。イエスの絶対優位性、優越感からくる笑いである。」
*「第4番目の笑いは『ユダの福音書』の最後の部分で登場する。(・・・)世界の終末についてイエスが語っている。」
「第四の笑いは明らかに、他のグノーシス文書(・・・)にも確認されるように、グノーシス派特有のイエスの笑いである。すなわち、劣位の神サクラスによって創造されたこの世界、そこに存在するあまたの無知や邪悪、下界を支配する闇の支配者と、言語を絶する知られざる高次の神との無限の隔たり、そこから来るイエスの霊性優位性、その優越感がもたらす、いわばイエスの高処からの笑いである。」
*「『ユダの福音書』の中に登場する、イエスの四度の笑い(・・・)は、本書の目的である、史的イエスの笑いではない。それは明らかに、グノーシス思想の枠内で、人為的に「笑わされた」イエスの笑いである。しかしそれは無意味な笑いではなく、イエスの死後、百年、二百年、三百年の中で、歴史の闇の中に葬り去られた笑いである。そしてまた、それは正当派教会との論争の中で、事実ナイル川流域に埋没された笑いである。
**(『『ユダ福音書』の謎を解く』〜「第四章 正典福音書におけるイエスの〈ユーモア〉」より)
*「歴史の中に生きたイエスが、いわばユーモアの塊であったればこそ、絶望のどん底にある人々が自ら近づいて来たのであり、子供らも、あるいは当時男性と気軽に対話をすることが許されなかった女性らも、無心に咲く花の周りを蝶が舞う如く、近づいてきたのである。」
*「イエスの用いる比喩の面白さは尋常ではない。そこには強烈な印象を記憶に留めながら、逆説の響きとユーモアの匂いが漂ってくる。」
・新しい布、新しい葡萄酒
・目の塵と梁
・蚋と駱駝
・金持ちと駱駝
**(『『ユダ福音書』の謎を解く』〜「第五章 正典福音書におけるイエスの〈笑い〉」より)
*「新約聖書における一つの謎は、一度もイエスの「笑い」が登場しないということだ。本書の最大の目的は、正典福音書において笑っていないイエスを笑わせる試みである。」
*「本当にイエスは笑わなかったのか。正統派キリスト教が認識するように、イエスは「真の神」であり、「真の人間」であるならば、イエスは笑ったはずである。そうでなければインカルナチオ(受肉)の意味はない。人間は笑う。それならばイエスも笑う。イエスは大いに笑った。人一倍笑った。澄み渡る魂から溢れ出る喜び、人間の悲しみや苦しみを経験し尽くした包容力から生まれるユーモア、こうした喜びやユーモアは自ずから笑いを生じさせるはずである。」
*社会的構造悪に対する逆説的笑い
・よきサマリア人の譬え話
「多くの掟で人々が縛られていた当時、数々の掟の中で最も重要な掟は何か、律法の専門家はイエスを試そうとした問い質した。先生、何をしたら永遠の命を自分のものとして受けることができるでしょうか」と。イエスは「律法には何と書いてあるか、あなたはどう読んでいるか」と問い返す、律法学者は当時の常識である二つの重要な掟、いわゆる《愛の二戒》を答える。すなわち、「心を尽くし、生命を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を大切にし、あなたの隣人を自分の如く大切にしなさい」と。律法学者はいとも簡単に、しかも得意げにユダヤ教のお題目を唱える。
まさにその時、イエスの逆説的響きを込めた笑いが聞こえてくる。「よく知ってるじゃないですか。それを実行してみてくださいよ。そうすればいとも簡単に永遠の命が得られるでしょうに。」
「イエスは喧嘩を吹っかられた律法の専門家に問いかける。「さて祭司、レビ人、サマリア人の三のうち、誰が強盗に襲われ半死半生の目にあった人の隣人になったと思うか」と。律法学者は答える。「その人を助けた人です」と。そこでイエスは「行って、あなたも同じようにしないさ」と言う。」
・フェニキアの女の機知
*「フェニキア地方生まれのギリシャ人の女がいた。その娘は悪霊に取り憑かれていて、娘から汚れた霊を取り除いて欲しいと常日頃願っていた。ある時イエスがフェニキア方面にやって来た。イエスは旅の疲れもあって、人に知られることを欲さず、休息したいと思っていた。イエスが家に居ることを聞きつけた女は、イエスの所にやって来て、足元にひれ伏し、どうか娘から悪霊を追い出してほしいと頼んだ。
イエスは女に言う、「まず子供らが満足するよう食べさせよ。子供らのパンを採って子犬らに投げてやるのはよくない」と。女は答える、「はい、主よ。食卓の下に居る子犬らも、子供らのパンくずを食べます」と。
マルコが伝えるこの記事から、マタイは子供はユダヤ人、子犬は異邦人の比喩だと解釈し、編集上、次の言葉をイエスの口に乗せてしまう。「私はイスラエル人の家の失われた羊の所にしか使わされていない」(マタイ一五の二四)。
マルコにはマタイのような、あるいはルカのような民族意識はない。マルコにとって大事なのはオクロスすなわち「名も無き民衆」である。マルコにとってラオスすなわち「国民あるいは選民イスラエル」は重要ではない。(・・・)
以上を踏まえると、フェニキアの女との対話は、もっと素朴な、もっと愉快な話になる。
イエスは長旅の疲れで「休息」したかった。自分は今、休息を必要としている。必要としているこの休息を奪ってはいけないよと、女に言う。その女の応答が実に機知に富んでいた。その休息の必要を奪う熱心さで、娘の病気の回復を切に願う。そこにはイエスへの揺るぎない絶対的信頼があっら。しかもイエスの言葉をみごとにユーモアと機知で一蹴した。
イエスは笑った。聖書には書かれていないが、確かにイエスは笑った。この女、やるな、一本取られた、と明るく微笑んだに違いない。イエスは快く女の願いを聞き入れ、「もう大丈夫、娘さんは回復するよ、家に帰りなさい」と優しく語りかけた。心温まる物語である。
・カエサルのものはカエサルに、神のものは神に・・・・・・
*「民族主義、ユダヤ主義の問いかけに、もしイエスが帝国への人頭税を「払え」と答えたなら、お前は神を蔑ろにしていると、いちゃもんをつけて糾弾するであろう。」
「イエスはこうした、彼らの腹黒い偽善を見抜き、怒りを込めてこの野郎と思いつつ、次のように言う、「なぜ私を試すのか、デナリ貨幣を持って来て見せなさい」と。彼らが持ってくると、イエスは「これは誰の肖像か、誰の銘か?」と尋ねる。彼らは「皇帝のものです」と答える、
イエスの笑いの可能性はこの時である、笑いつつ、イエスは問題の言葉を放つ。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。」
・腹の中に入り、厠に出る
*「イエスの時代、庶民は余りにも多くの戒律で縛られていたが、その中でも食事は毎日のことであるから切実な問題である。」
「そうした宗教的圧迫に対し、イエスの次の言葉は実に壮快で笑ってしまう。「・・・・・・外から人の中に入ってきて、人を汚すことのできるものなぞ何もない。人の中から出てくるものが人を汚す」」この言葉の意味が弟子たちにはわからなかった。群衆を離れて家に入った時、弟子たちはイエスに尋ねる。その応えこそ、社会的構造悪に対するイエスの一喝であり、イエスの笑いが聞こえてくる。
「あなたたちまでも他の者と同じにものわかりが悪いのか。外から人の中に入ってくるもので人を汚すものなぞ有り得ないことがわからないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、厠に出て行くだけである。」
**(若松英輔「「笑い」が開く境域」」より)
・イエスは笑ったのか
*「「宗教と「笑い」」という問題と向き合おうとするとき、見過ごせない、と感じるのはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』です。(・・・)イエスは笑ったのかという問いに関してもふれられています。この作家は、イエスはもちろん笑った、それだけなく、人々との時間を大いに楽しみさえしたと考えています。
この小説の主人公アレクセイは、カラマーゾフ家の三男、そして見習修道士でもあります。彼の夢に出てきた彼の師でもあった長老ゾシマはそうしたイエスの姿をめぐってこう語っています。
愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。(原卓也訳)」
*「読者はこの大小説のページをめくるとじつにさまざまな「笑い」の表現に遭遇します。
大笑いや薄笑い、あるいは嘲笑、苦笑いくらいなら格別な注意は必要ありません。しかしこの作家は、人には「皮肉な笑い」もあり、「悪意のある笑い」や「憎しみに近い笑い」を表情に浮かべることもあるというのです。人はときに「笑い」によって人を傷つけようとする、というのです。
世に言う笑いは、この作家によると「善良そうな快活な笑い」と表現されます。こうした笑いは、笑いの一部に過ぎない。この小説には「青ざめた笑い」という文言すらあるのです。この作家は「笑い」と歓喜を簡単に結びつけてはなたないと警鐘を鳴らしているようにさえ感じられます。
この作家が言うように人は確かに顔を青くしながら笑うことがある。むしろ、笑うことで危機を切り抜けようとする、といってもよいかもしれません。笑うことでどうにかして閉塞感から心理的に脱出しようとするのです。「「笑い」というのものは、常に「開く」ことに通じる」(『こころの処方箋』)と河合隼雄がいうのは正鵠を射ています。」
「ある種の「笑い」は、心の動きの表象ではなく、さらに深い場所にある河合が「たましい」と呼んだものとつながりがあるように思われます。」
・深い笑い
*「笑いはときに、世界とのつながりを根源的に変える。人は、大声で笑うこともできますが、深いところから笑うこともできるのではないでしょうか。こうしたことは私たちの日常でも起こっています。しかし、現代人は「笑い」を精妙に感じることができなくなっているかもしtれません。
・安堵の微笑
*「最後に、師であるゾシマが亡くなり、大きな悲痛と苦しみを感じていたアレクセイが予期せぬところから湧き上がる癒しを経験する場面にふれたいと思います。
さまざまの断片的な考えが心の中にちらとうかで、小さな星のように燃えては、すぐに消え、ほかの考えに代わっていったが、その代わり、心の中を支配しているのは何か完全な、確固とした、悲しみを癒やしてくれるようなものだった。
ここには「笑い」という言葉は出てきません。しかし読者の胸に去来するアレクセイの表情には安堵の微笑があるように思われるのです。
楽しみ、喜ぶときも人は笑います。もちろん。悪意ある笑いもある。しかし、自分が想像もできなかった深い安堵を経験するときも人は、笑っているのではないでしょうか。確かな安堵、これを人はときに「救い」とさえ呼ぶことがある。」
□米田彰男『イエスは四度笑った』【目次】
はじめに
第一章 イスカリオテのユダと『ユダの福音書』
1 イスカリオテのユダ
2 正典福音書の成立から『ユダの福音書』発見まで
3 グノーシス主義キリスト教と正統派キリスト教
4 『ユダの福音書』の中のイスカリオテのユダ
第二章 イエスを四度笑わせた『ユダの福音書』
1 『ユダの福音書』の中の四度の笑い
2 正統派教会のエウカリスチア(ミサ)を一撃した最初の笑い
第三章 正典福音書におけるイエスの〈怒り・苦しみ・悲しみ・喜び〉
1 共観福音書(マルコ・マタイ・ルカ)とヨハネ福音書の成立
2 イエスの怒り1
3 新約聖書の写本
4 イエスの怒り2
5 イエスの苦しみ・悲しみ・喜び
第四章 正典福音書におけるイエスの〈ユーモア〉
1 「ユーモア」という言葉
2 放蕩息子の譬え話
3 「比喩」の面白さ
第五章 正典福音書におけるイエスの〈笑い〉
1 イエスの笑いの欠如
2 椎名麟三の疑問
3 社会的構造悪に対する逆説的笑い
4 社会的弱者への共感に基づく笑い
5 快活で晴朗な笑い――イエスの食卓
追記1 聖夜を前に聖書ひもといて
追記2 ガザの「壁」
おわりに