岩宮恵子『思春期心性とサブカルチャー──現代の臨床現場から見えてくるもの』
☆mediopos3628(2024.10.25.)
臨床心理士の岩宮恵子は
スクールカウンセラーが派遣され始めたという一九九五年から
小・中・高校で子どもたちと会う機会をもっているという
本書『思春期心性とサブカルチャー
──現代の臨床現場から見えてくるもの』は
アニメ・SNS・ラノベ・アイドルといったサブカルチャーと
その背景から見えてくる子どもたちの姿を
臨床心理士ならではの視点で読み解こうとしたもの
二〇〇九年から二〇一八年まで連載された原稿に
その後の変化によるズレと思われる部分を加筆訂正
さらに現在の視点からのコメントがつけられている
今や「思春期心性」は思春期の子どもたちだけではなく
全年齢にわたって幅広く見られるようになっているという
激しい社会の変化のなか
かつては人間の一年は犬の七年にあたるということで
ドッグイヤーと言われていたのが
その後マウスの十八年分になるというマウスイヤーや
さらには江戸三百年を二十年で駆け抜けている
という言葉さえも使われるようになっているように
現実に対応しかねているという側面もあるようだが
現代人は思春期を通過できないまま
永遠の思春期を生きているところがあり
その意味では本書は私たちすべてにとっての
臨床的な視点を得るためにも重要な一冊となっている
それはともかくとして
スクールカウンセラー先で会う子どもたちの変化には
「相談の背景にネットの問題が存在する割合が
年々増えてきている」こともあり
それに関連した「神経発達症(発達障害)の傾向」が増え
それに対して「神経症的な悩みを抱えている子の割合」は
減ってきているように感じるのだという
「自分のこころを大きく揺さぶるそのあれこれを
「悩み」として捉えることをしない」で
「自分のなかに溜まった感情の灰汁を、
その場ですぐに吐き出してしまうことだけ」を
必要としたりするのである
「悩み」というかたちにさえならないということだ
その意味で「自分探し」ではすでになく
「推し探し」である「推し活」という言葉が
クローズアップされるようになっている
おそらくどちらもいわば「自我病」的ではあるのだが
「承認欲求」を得ようとする自分」にさえ至らず
「今、ここに生きる「私」はどこまでも拡散」しながら
「定点としての私」が不在になってきているのである
それに対応するように
SNSもまたInstagramやTikTokのような
瞬間を切り取ったような
「文脈や脈絡というものを重視しない」ツールが
主となってきている
「確固とした「私」などもたないように、
その場に合わせてどうにでも振る舞えるようにしているほうが、
適応しやすい」からである
ちなみに「推し活」に関する用語には
なぜか宗教的なネーミングが多いという
本書では現代における宗教性について
釈徹宗の「近景」「中景」「遠景」に分けて考えてみる
という視点が紹介されている
「近景」は自分や家族
「中景」は地域の文化や行為様式
「遠景」は神仏や異界などの聖性につながるものであり
現代は「中景」がとても弱くなっていて
それを代わって担っているのが
サブカルなのではないかという
「推し」のことを周囲の人たちに
紹介していくことを「布教活動」
「推し」の出演場所やロケ地に行くことを「聖地巡礼」
「推し」グッズを収納する棚を「祭壇」
「推し」の歌詞を書き写すことを「写経」
「推し」の出て来るシーンを描いて
投稿するファンアートを「宗教画」
といった宗教用語で表現するのは
「「異界」と「日常」をつなぐ日々の営みのなかで
現代の宗教的情緒を育んでいく行為」でもあるのだろう
さて最初に「思春期心性」が全年齢にわたって
幅広く見られるようになっていることにふれたが
本書の「第16章 季節はずれの思春期」に
興味深い事例がとりあげられている
夏休み明けから学校に行けなくなっていた
中学生のAくんの相談に来た母Bさんが
「ひとりの男として生きていきたいと言って、
夫が家を出ていきました」と語る話である
家を出て行ったといっても「仕事には休まずに行き、
二〜三週間に一度くらいの頻度で突然、
家に帰ってきてはBさんが作った夕飯を食べたり、
洗濯物を置いていったりする」
おそらくそれは
「遅まきながら母性的なものからの離脱と自立という
思春期テーマが生まれてきたのではないだろうか」と
岩宮恵子は示唆しているが
そこまで極端な例ではないとしても
長年職場などで観察してきた経験からも
結婚し子どももち精力的に働いているにもかかわらず
ほとんど「母性的なものからの離脱と自立」のないまま
子どものままで生きている人は珍しくない
「思春期」の通過はいぜんから
私たちの多くにとっての課題となっているからだ
ちなみに神秘学的な視点でいえば
現代人は二十歳頃にはそのままでは魂の成長が止まり
その後は自由においてみずからを成長させないかぎり
成長することはできなくなるという
男性はまず「母性的なものからの離脱と自立」を経て
はじめて「成人」後を生きられるようになる
ということでもあるだろう
そうしたことを敷衍していえば
「承認欲求」という自我の病も同様の課題だといえそうだ
■岩宮恵子『思春期心性とサブカルチャー──現代の臨床現場から見えてくるもの』
(遠見書房 2024/10)
**(「はじめに」より)
*「スクールカウンセラーが派遣され始めた一九九五年から、学校現場で子どもたちと会う機会をもらってきた。当時、中学生として学校で会っていたクライエントと、思春期の子どもの親として再会することもある。あの思春期だった子が、もう思春期の親になっているのか?と驚く。
そのような時間の流れのなか、スクールカウンセラー先で会う子どもたちに、変化があるのか・・・・・・と考えると、まず、相談の背景にネットの問題が存在する割合が年々増えてきていることが挙げられるだろう。今は、ほとんどの相談の裏側にはネットの問題が潜んでいるといってもいいくらいだ。また神経発達症(発達障害)の傾向があるのかどうか、その場合の支援と理解の方向性について考えることが圧倒的に増えてきた。
そしていわゆる神経症的な悩みを抱えている子の割合が減ってきたように感じる。いや、そうは言っても家族のことや友人関係で悩み、自己嫌悪に苛まれ、自分のことをどう考えていいのかわからなかったり、実際にそれで症状が出てきたり・・・・・・という子どもたちも、もちろんいる。そういういわゆるじっくり気持ちを聴くことが重要になっている子どもたちも変わらず存在しているが、それ以外の対応を求められることが増えてきているから、悩みをしっかり語る子の割合が減っているように感じるのだろう。」
「その場その場での感情は動くものの、その感情についてあとで振り返ることができにくく、面接で継続的に積み上げていくようなプロセスが難しくなっている子も増えてきているのは確かだろう。客観的に見ると苦しい状況だと思うのに、本人は悩む気配もなかったり、たとえ困っていても何にこまっているのかまったく言語化できなかったりする子も多い。」
「自分のこころを大きく揺さぶるそのあれこれを「悩み」として捉えることをしないのだ。自分のなかに溜まった感情の灰汁を、その場ですぐに吐き出してしまうことだけがその子にとっては必要なのである。出してしまったらもう振り返らない。新たな灰汁はすぐに溜まるが、それをまた悪口として吐き出して終わる・・・・・・ということをくり返している子もけっこういう。また反対に、言葉にして誰かに救いを求めることなどできず、身を潜めている子もいる。このようなことの背景には、深刻な家庭環境が窺えることもある。
このような状況が増えてきているからこそ、面接室のなかでじっくりと話を聴くことよりも、環境整備など現実への働きかけが重視されるようになっているのだろうし、コンサルテーションに時間をかけた方がいいという流れが中心になってきている理由もよくわかる。」
*「こちらがいろいろと関心があることとか、好きなことやものについて質問をしても、無理矢理、面接室に送り込まれてくる子たちは、「わかんない」「さあ・・・・・・別に」「いろいろ」というような単発の言葉しか出てこないことも多い。関心のあるものについての話をさまざまな角度から具体的に質問していっても、一問一答での会話に終始し、火消しツボに言葉を投げ入れていくような広がりのない時間を積み重ねていくしかないこともある。でも、こちらがいろいろ聞いていくことを嫌がっているというよりも、どちらかと言うと、嬉しそうにしている様子からは、他者とちゃんと向かい合って話をする体験自体が少なかったのだろうなと感じる。この子のそばには、この子の話に耳を傾けようとする大人がいなかったのかもしれないなと思うこともある。
そんなコンクリートを耕すような臨床を繰り返すなかで、ほんのちょっとずと生み出されてくる共有のイメージを追い求めていくことに全力をあげていると、やがて彼や彼女たちのなかに「興味あるもの」「関心を強く引きつけられるもの」が芽生えてきて、そのことについて面接室で語られるようになることがある。自分が興味をもっていることについて初めて言葉にして伝えてくれた時の感動たるや・・・・・・!」
「昨今は「推し活」という言葉が人口に膾炙し、「自分探し」よりも「推し探し」という様相を呈している。面接でも「推しはいる?」という問いかけをすると、スムーズに答えてくれることも多い。そして『サブカルチャーのこころ————オタクなカウンセラーがまじめに語ってみた』(笹倉・荒井編、二〇二三)など、面接場面で語られるアニメ、ゲーム、漫画などについて、臨床の視点から幅広く紹介している、すばらしく役立つ著作も出てきている。」
*「この本の原稿の元になってものは二〇〇九年から二〇一八年まで遠見書房の『子どものこころと学校臨床』で連載されたものと、金子書房の『児童心理』に掲載された文章も加えている。当時の「今」を書いたものなので、先の『サブカルチャーのこころ』に比べると、話題が古くなっているのは否めないし、今の感覚からすると、少しズレているのかも・・・・・・と思われる部分もある。
でも、思春期臨床の根っこの部分は時間がたっても共通しているからと、遠見書房の塩澤さんと山内さんに励まされ、必要に応じて加筆訂正を行い、その後も考え続けていたことや、何か付け加えた説明が必要な章の最後には、現在の視点からのコメントをつけ、掲載当時と「今」を少しでも結びつけるようにした。」
**(「第7章 心を閉ざしている良い子」より)
*「人はどんなときに心を閉ざすのだろう。いや、その前に、そもそもひとが心を開くとうのはどういうことなのだろうか。
心を開くというのは、ほんとうに無防備になることだ。無防備になっても大丈夫な相手との場が自分にはあると実感できるとき、人はもっともリラックスし、幸せを感じる。だからこそ、無防備に信頼し心を開いていた相手に裏切られたときほど、深く傷つくことはない。」
*「心を閉ざしている子どもというと、どのような子どものことが思われるだろうか。」
「親や先生の言うことをよく聞く努力家で、はきはきとものを言い、何か問えば大きなリアクションで返してくれるような親切で明るい良い子が、実は心をぴたりと閉じているということはある。」
*「そういえば、最近は「ありのままの自分で生きたい」というような言葉は臨床場面でほとんど聴かなくなった。」
**(「第9章 鏡の中の思春期 その二」より)
*「写メという言葉も死語になった。今は、写真とか画像というのが一般的だろう。自撮りを鏡の変わりにしている人たちも多い。
写真の加工はどんどん進化(というかサイボーグ化?)し、本人なのかどうかもわからないような大きな目や尖ったアゴにしているものを見せてもらうことが増えた。そのようにして加工しいぇ極限まで盛った、素の自分とはかけ離れた「カワイイ」をSNSで共有できる仲間とシェアすることは何より大事になっている一群のひとたちがいる。」
「SNSが日常になった今、鏡(自撮り?)の中の思春期をめぐるトラブルも多様化している・・・・・・・」
**(「第13章 時間に追われる子どもたち─クロノスとカイロス─」より)
*「私たちは、クロノスとカイロスというふたつの時間を生きている・」
「あまりに子どものころからクロノスに負われるような時間を過ごしていると、「命と運命の時間」であるカイロスが来ているのを見過ごしてしまう危険もあるのではないだろうか。カイロスという「時」は因果では説明のできないターニングポイントをひとにもたらす。ひとの心が育ったり癒やされたりすることを考えるとき、今、これをしておかないと将来困るとか、休んだらその分遅れるとうクロノスからの焦りから、少しだけ自由になってカイロスというもうひとつの時を想うことも必要なのではないだろうか。」
**(「第14章 人間関係の失敗に敏感すぎる子どもたち」より)
*「「別に全員に好かれなくてもいい」という言葉は、よく耳にする。それは、無理をしてまで良いひとをしなくていいとか、全員に好かれるような人はいないという意味で使われることがほとんどだろう。ところが、今の子どもたちがこの言葉を口にするとき、「自分の好きな人以外は傷つけてもかまわない」という意味で使われることがある。」
「あまりに狭い人間関係に縛られ、そのなかで汲々としている子どもの心を支えるのは、その苦しさの背景を知ったうえで、その苦しさゆえにさまざまな誤作動を起こしてしまったことを一緒に悲しんだり、時には怒ったりと、一緒に心を揺らしてくれる大人の存在以外にありえない。
**(「第10章 協調と競合のアイドル─嵐は思春期を変えうるか?─」より)
*「ジャニーズ帝国というアイドルの光の国の影がどれほど濃いものだったのかを知ることの衝撃は、さまざまな形で思春期の子たちに影響があったが、二十代から六十代に至る、長年のファンのほうが、年月の厚みも加わってこの件ではかなりの心的なエネルギーを消費せざるを得なくなっていたように感じる。子どものことで相談に来ている方が、この件について深いダメージを受けて、このことをきっかけに自分自身の思春期について突っ込んだ話を始められることもあった。」
**(「第16章 季節はずれの思春期─ミタさん的家族の成長─」より)
*「いったい、いくつになったら、大人になったといえるのだろうか。いや、今の時代、いくつになっても思春期心性はどこかでずっと残っているのかもしれない。」
*「「ひとりの男として生きていきたいと言って、夫が家を出ていきました」と中学生のAくんの母Bさんは、深いため息をつかれた。
Aくんは夏休み明けからぱたりと学校に行けなくなっていた。そのため、Bさんは相談に来ておられたのだ。」
「Bさんの家は、体調を崩して弱ってきているため気持ちが不安定になっている夫の母もおり、Bさんは家族内での調整に全力を尽くしておられた。そんななか、Aくんの父親は家を出ていったのである。
出ていった先は、Facebookで知り合った女性の家だった。父親は、仕事には休まずに行き、二〜三週間に一度くらいの頻度で突然、家に帰ってきてはBさんが作った夕飯を食べたり、洗濯物を置いていったりするのだった。」
「仕事も真面目にし、結婚し子どもにも恵まれるというように社会的な立場では一人前の男としての立ち位置をしっかりと持っているのに、心理的には、大人としての責任を継続して持ち続けることに、人知れず違和感をもっている男性は、かなりの割合でいるのではないだろうか。しかし、こころのなかではさまざまな嵐が吹き荒れようとも、そこで踏みとどまって大人としての責任をなんとか遂行しようとしているひとのほうが圧倒的に多いのは確かだ。でも、子どもの思春期に刺激されて、表の社会化された態度の裏側に潜んでいた思春期男子が、表面に出張ってきて暴れてしまうこともあるように思う。」
「Bさんの夫は、Bさんとの十五年に渡る「母と息子」関係を基盤にして、遅まきながら母性的なおのからの離脱と自立という思春期テーマが生まれてきたのではないだろうか。そのため、彼にとっての母性の代表としてのBさんとの距離の取り方が混乱しているように思う。だからまるで思春期の男子の無断外泊のようにして家を出たのに、たまには家に着替えを取りに帰ったり、自分の洗濯物を母親(Bさん)に洗わせることは当然のことだと思っていたりするのであろう。」
**(「第17章 今、ここに生きる「私」はどこまでも拡散していく─SNS時代の青春─」より)
*「旧Twitter(現X)、LINE、Facebookが思春期のSNSの三種の神器だった時期はあっという間に過ぎてしまった。思春期の年代にはFacebookはまだまだ有力なツールだが、思春期の関心がInstagramとTikTokというビジュアル投稿に完全に移行している。mixiやブログという長めの文章をアップするツールは、自分の気持ちや考えなどをひとつの筋を折って語るような表現方法だった、しかし今は、感覚や感情や思考についての短文のつぶやきや、スタンプという感情表現のイラストや、写真とそれに添えられたキャプションのように、瞬間を切り取った形で表現し、その場ですぐに伝えるツールを利用する人が圧倒的に多くなってきた。視覚的なインパクトが強く、感情はとても動かされるものの、文脈や脈絡というものを重視しないコミュニケーションがどんどん増えてきている。」
「このようなツールが当たり前にあるなかで育っている現代の子どもたちの能力は、大げさに言うと、今まで人類が発達させてこなかった脳の一部を飛躍的に伸ばしている部分もあるんじゃないかな・・・・・・と感凝るほどだ。
その一方で、仲間うちでの悪ノリ(や、いじめの様子)をネットに上げたため公的相伴を受けることになったり、うっかりしてしまったバカなことが、生涯、デジタルタトゥーとして消えずに刻まれたり、文脈が読み取れないないなかでインパクトのある言葉やイラストが感情の誤読を生んで、思いもかけないトラブルになったり・・・・・・と、ネットのリスクをリスクとして認知できないと、とんでもない結果を招くことにもなっている。」
*「旧Twitter(現X)で刹那の感覚を表現し、LINEでもグループが違えば、まったく違うキャラで会話をすることが当たり前になっているような状況のなかで生きている現代の思春期の子どもたちのなかに、「定点としての私」を見出すことは、とても難しい。(・・・)「定点としての私」を希求した瞬間に、それは承認してほしいという承認欲求も強くなり、それだけ苦しみが深くなるのだから、そんな「私」は拡散させておいたほうがいいと考えている子もいる。確固とした「私」などもたないように、その場に合わせてどうにでも振る舞えるようにしているほうが、適応しやすいのである。
デジタルタトゥーとして、消えない「私」が刻まれる一方で、今、ここに生きる「私」はどこまでも拡散していく・・・・・・。イマドキの思春期の子どもたちが生きている世界は、決して甘いものではない。」
**(「第21章 心のつらさはどのようにしてやわらぐのか」より)
*「心のつらさは目に見えない。」
「心のつらさは、それを「ないこと」にしたり「そんなことを感じるのは弱いから」などという判断をせず、何とか感じとろうと気持ちを向けてくれる人の存在なくしてはやわらいでいかない。」
*「子どもが気持ちをうまく伝えられるようになるために何よりも必要なことは、まず子どもと関わる大人が自分自身の気持ちの動きに自覚的になることである。自分自身の気持ちの動きに対して感度のいい大人は、子どもの気持ちの動きにも敏感だ。そのような大人が、子どもの話に静かに耳を傾けるとき、子どもは人に気持ちをわかってもらう深い喜びを感じ、心のつらさがすっと溶けていく。そのような体験を子どもに与えることこそが、何よりも重要なことだろう。」
**(「第22章 人格の着ぐるみ─ゆるくないキャラで学校を生きる─」より)
*「現実生活のなかでの「キャラ」を演じることに倦んでいる子どもたちのなかには、現実はもうそこそこにしておいて、ネットのなかの理想的な自分のキャラで、達成感のあるもうひとつの人生を生きて行こうとしていることも多いように思う。着ぐるみとしての理想的な自分のキャラが、ネットのなかでどんどん生き生きとしていくのと平行して、現実での等身大の自分を見つめていくことは、より難しくなっていく。その乖離のなかで、何とか社会とコネクトしていくためのキャラ探しに余計に苦しむことになるのだろう・・・・・・。」
**(「第24章 思春期と喪失─『海のトリトン』から考える─」より)
*「思春期は、喪失の時期でもある。
中年期ならば老人になっていくということに向き合わねばならないから、喪失感と向かい合う時期だということはわかるけれど、どうしてどんどん得るものが多い成長の最中の思春期に喪失?と思われた方もあるかもしれない。しかし「成長する」とか「進歩する」ということも含め、変化するということは、言い方を変えるとそれまでの状態が終わるということである。「終わる」ということは、失うことであり、象徴的な意味で「死」を迎えるということなのだ。」
**(「おわりに」より)
*「本文のなかでも繰り返し触れてきたように、今、この「思春期心性」が全年齢に幅広く見られるようになっている。だから、この本は思春期ど真ん中の人たちのことについて記しているように見えながらも、現代を生きるすべての年代の人たちのこころのなかに幅広く存在している可能性があるこころの特性について、思春期という切り口から論じる試みにもなっている。
その背景には、あまりにも社会の変化が激しいということが考えられる。IT関係の発展について、犬の一年は、人間の七年に当たるということから、七倍の速さで進むとしてドッグイヤーと言われていた。その後、犬に輪をかけて速い時間感覚で生きているネズミになぞらえて、一年が十八年分になるマウスイヤーという言葉も、江戸三百年を二十年で駆け抜けているという言葉も耳にしたことがある。
このような表現に示されるように、常に激しい変化のなかで今を生きている私たちのこころは、「思春期」という内的にも外的にも激しい変化を生きている時期のこころの特性とシンクロする部分があるのではないだろうか。私たちは、思春期を終えた挙げ句の大人という到達点が見えないなかで、永遠の思春期を生きている部分があるように思う。
「思春期」は、この変化の激しさゆえに、さまざまな精神的な不調の好発期にもなっている。そういうマイナス面も、全年代に広がってきている一方で、好きなものに夢中になるという思春期の傾向も全年代に広がってきているのだと思う。それは、本文のなかで扱っているようなさまざまなサブカルチャーに対する関心や「推し活」として活性化しているのだろう。
また、社会の変化のなかで、「場」によって規定される共同体が弱くなっていることについても触れたが、それと地域の伝統行事やお祭りや、家庭でのお盆やお正月の行事などという、「場」を中心とした宗教的な情緒に触れる体験が少なくなってきていることと、サブカルチャーや「推し活」の隆盛とは関係が深いと思う。」
*「釈徹宗著『落語に花咲く仏教』(朝日選書、二〇一七年)では、現代における宗教性について、「近景」「中景」「遠景」に分けて考えてみるという視点が示されている。「近景」の問題は自分や家族の問題で、「中景」が地域の文化や行為様式、「遠景」が神仏や異界などの聖性につながるものと考えてはどうだろうかと提示している。
そして、地域の文化や行為様式である「中景」がとても今は弱くなっているため、「近景」(自分の問題)と「遠景」(神仏や異界)が直結しやすくなってしまうのではないかという指摘があった。このことかた、自分の個人的な問題が世界の存亡に関わるとか、自分の心のゆれがそのまま世界の崩壊につながるみたいな「セカイ系」と言われるようなマンガやアニメは、「近景」と「遠景」が直結してしまう感じを表現しているのだろうな、と思う。
そして釈(二〇一七)は、現代ではサブカルがこの「中景」を担っているのではないかという重要な指摘もしている。つまりマンガヤアニメから発展したオタク文化やサブカルは、現代から失われている「中景」、つまり地域の文化や行為様式を担おうとするムーヴメントでもあるのではないかということだ。この指摘には抜けるほど膝を打った。」
*「「推し活」のことを現す用語には、なぜか宗教的なネーミングが多い。これも、「遠景」(神仏や異界)と「近景」をつなぐ「中景」として「推し活」が存在していると考えると、納得がいく。「推し」を応援するために、「推し」のことを周囲の人たちに紹介していくことは「布教活動」だし、「推し」が出演した場所や、作品のモデルになったロケ地に行くことは「聖地巡礼」である。また「推し」のグッズを収納する棚のことは「祭壇」だし、「推し」の歌詞を書き写すことは「写経」である。また「推し」の出て来る特定のシーンを、自分のイメージで描いてネットに投稿するファンアートを「宗教画」と言うこともあるらしい。
自分自身が目に見えるこの日常だけではなく、「異界」を含んだ世界との関係性とのなかに含まれて生きているという実感を得るためには、このような宗教的情緒の存在が不可欠であり。だからこのような宗教的なニュアンスがサブカルやエンターテイメントの推し活のなかで必要になっているのではないだろうか。
「推し」はアイドルなどの芸能関係や二次元や三次元動画であるなど、どんなに身近に感じていたとしても、ある意味、「異界」の存在である。「推し」との恋愛関係を望むことが基本的にはないのも(・・・)、引退して「ただの人」になったら推すことができないのも、存在感が日常的な関係性のみになると何かが違ってしまうからなのだと考えると、納得できる。
そして「推し」という自分にとって特別感のある「異界」の存在のありようを、日々、想像力を駆使して解釈したり、その存在を感じたりすることがこの世界で自分が生きているという実感を得ることになっていく場合もある。こう考えると「推し活」をすることは、「異界」と「日常」をつなぐ日々の営みのなかで現代の宗教的情緒を育んでいく行為だと言えるのではないだろうか。」
【目次】
はじめに
第1章 魔法少女の破壊力─誰かの幸せを祈ったはずなのに、誰かを呪わずにいられない─
第2章 残酷だけど、泣ける─ひぐらしのなく頃に─
第3章 十歳前後の草食・肉食期?─『けいおん!』のキャラと関係性─
第4章 思春期の恋バナ
第5章 恋バナ・BL・関係性─フツーの子の腐女子化とその変容─
第6章 子どものこころに寄り添う
第7章 心を閉ざしている良い子
第8章 鏡の中の思春期 その一─『ハウルの動く城』の美と醜─
第9章 鏡の中の思春期 その二
第10章 協調と競合のアイドル─嵐は思春期を変えうるか?─
第11章 推しメンができるという社会性の獲得─AKB48の枠組と臨床的効果─
第12章 女子から見た「暴力」の魅力─不良系男子と優等生系女子─
第13章 時間に追われる子どもたち─クロノスとカイロス─
第14章 人間関係の失敗に敏感すぎる子どもたち
第15章 壇蜜とマツコ・デラックス─彼女たちの共通項─
第16章 季節はずれの思春期─ミタさん的家族の成長─
第17章 今、ここに生きる「私」はどこまでも拡散していく─SNS時代の青春─
第18章 「秘密」と「うそ」の裏側にあるもの
第19章 異界とムスビ」─新海誠『君の名は。』にはまる─
第20章 異性装のイメージ喚起力─欅坂のてちとマツコ・デラックス─
第21章 心のつらさはどのようにしてやわらぐのか
第22章 人格の着ぐるみ─ゆるくないキャラで学校を生きる─
第23章 マスクをすれば自分の部屋にいるような─『輪るピングドラム』の生存戦略─
第24章 思春期と喪失─『海のトリトン』から考える─
おわりに