高橋巖・笠井叡 対話 『戦略としての人智学』
☆mediopos-2540 2021.10.30
高橋巖と笠井叡の三回にわたる貴重な対話
『戦略としての人智学』は
二〇〇九年の暮れから二〇一〇年の初めにかけてのもの
最初の「Ⅰ」(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの対話がある)では
「ヨアキム主義」と関連した「個体主義」
「物質」と「物質性」の違い
哲学と神秘学の違い
意識と物質の関係
二通りある死のプロセス
といったことについて
高橋巖・笠井叡の両氏の間でしか
語られないだろう刺激的な対話となっている
自然科学的な発想は
外に現実があって
その現実に受け身で対するのに対し
「ヨアキム主義を生きる」ということはその逆で
「自分の中に神を見つける」こと
つまり「能動的な態度」をとることである
たとえば自然科学では赤色を
光学的な意味で客観的に説明するが
「赤色を見ているという体験」には入り込めない
つまり自然科学わたしたち一人ひとりの
生きた体験とはなりえないのだ
「原因がみんな外にあって、その外の進化の過程で、
内があとで生み出されたと考える」のが自然科学だが
神秘学はまず「内」があって
「その内の「思い」が熱となった外に流出すると、
そこから物質世界が生み出されると考え」るように
「内と外の関係」が逆になっている
その神秘学の根底には哲学があるけれど
「哲学は体験がなくても哲学に」なるが
「体験のない哲学は神秘学には」ならない
対話では語られてはいないが
ノヴァーリスが学問は哲学になったあとポエジーになる
というのもポエジーは神秘学を生む種ともなるからである
さてこの対話で最も興味深いのは
物質と物質性の違いについてのところだろう
自然科学ではたとえば
「人間の中の鉄分と山の中の鉄分は同じだ」
ととらえるけれど
錬金術では「物質」と「物質性」という概念を
明確に分けている
自然科学では「物質性」を問題にしないのだ
それを意識との関係でとらえると
「体の中にある鉄分は意識と結びつくが、
山の中にある鉄分の中には意識は入り込めない」
ということになる
笠井叡はこの物質性に関連して
舞踏の体験から「自分が物質に対して、
物質の内部から関われる存在なのだという視点」
そして「物質の内部に入る」いうことは
「無限空間に入る」ことだという視点を得る
わたしたちの「内面」はその意味で
体があるからこそ獲得できるものなのだ
さらに重要な視点は秘儀にも関連した
二通りある「死のプロセス」である
死はただ体から意識が離れていくプロセスではなく
(古代の秘儀も体から意識を離すものだった)
キリストの磔刑と復活に示されているように
「体の中に意識がさらに深く入る」プロセスともなり得る
なぜ私たちは体をもっているのか
もたなければならないのか
そのことの深い意味がそこから開かれてくる
■高橋巖・笠井叡 対話
『戦略としての人智学』
(現代思潮新社 2021/10)
(「戦略としての人智学 Ⅰ/二〇〇九年十一月五日」より)
「笠井/高橋さんが「ヨアキム主義」と関連して、「個体主義」という言葉を最初に言われたのが『神秘学序説』(イザラ書房、一九七五年)の中だったと思いますが、この言葉は当時の日本ではまだそれほど言われていませんでした。また「ヨアキム主義」も当時の日本では、まだそれほど知られていませんでした。私がヨアキム主義と個体主義について読んだのは、この時が初めてでした。
私の感じではあの思想は、七〇年代という時代に個体主義というものを、生きた形でひとりひとりの人間の中に降ろすというよりも、まだ個体主義の在り方そのものを模索していたように思います。しかし今の時代は、個体主義そのものが本当に生かされないと、歴史も生きない感じがします。
高橋/そうですね。今の笠井さんの言葉を言い換えると、七〇年代・八〇年代はまだ「神話」が生きていたとも言えると思います。今の時代では、神話に対するある種の期待とか信頼とか、あるいは信仰が消えてしまっているような感じがするのですが。
(・・・)
笠井/ある意味で、政治思想も、イデオロギーではもう駄目なのかもしれません。おそらくイデオロギーではなくて、決定的な意識の変革が重要になってくる気がします。その変革もマスではなく、ひとりひとりの個人の中における意識の在りようというものが、もう一度完全に根底から見直されていった時に、何かが出てくるという感じがあるのですが。平たい言い方をすれば。神話がなくなったということは、信仰を中心とする宗教ではもう何も始まらないということです。
では、宗教で何も始まらなくなった時に、自然科学で何が始まるかと言えば、今、自然科学は全て情報化の方向に行ってしまいました。情報化された生命科学とか、情報化された人間学です。しかし、そのなかに何かイデオロギーに変わる、ある新しいものが見出せるか、という問題が出てきます。(・・・)
高橋/そうですね。私の感じでは「ヨアキム主義を生きる」ということは、自分の中に神を見つけるということだと思います。しかし自分の中に出会える神が、自然科学的な考え方や合理主義的な考え方では全くありえないので、一言で言うと「能動的な態度をどこまでとれるか?」ということに尽きるような気がするのです。
情報科学を含めて、自然科学的な発想は、ある現実があって、その外にある現実に自分自身の精神を適応させることで認識が開けてくる、と考えます。だからいつでもその場合の個体は、外から来る刺戟に対して受け身で、それをどこまで客観的に受け取れるか、という作業になります。その認識作業の中で、ある自然科学的・客観的な真実と自分が出会っていると思えれば、安心感が持てます。これも典型的な神話的思考のひとつだと思うのですが、しかし顕在的にしろ、潜在的にしろ、そういう受け身の態度で生き甲斐が見出せるのかという根本的な疑問が出て来ているようです。
笠井/自然科学では、例えば赤色というものを光学的な意味での振動で、客観的に説明することができます。しかし、その振動を人間は一度も知覚したことはないのです。(・・・)人間の「赤色を見ているという体験」の中には、科学は入り込めません。つまり、科学は外側にとどまるのです。これは色だけでなく、あらゆる自然科学的な見方は、私たちの感覚的な表象の内側までには入り込めません。
(・・・)
高橋/私が個体主義と出会って、救われたように感じたのも、この問題に意識的になれたからだと思います。(・・・)
それでよく思うのですが、今、笠井さんがおっしゃった個体主義の問題の一番のポイントは、「内と外の関係」にあると思います。普通の発想は、宇宙論でもそうですけれども、ビッグバン以来、原因がみんな外にあって、その外の進化の過程で、内があとで生み出されたと考えるのですけれども、神秘学の一番基本的な考え方は、まず内があって、その内の「思い」が熱となった外に流出すると、そこから物質世界が生み出されると考えます。ですから最初に内があるのです。
赤い色の内なる思いを受けとるのです。この神秘学の観点に従うと「内が外」になるのですが、しかし一般の常識は外の世界が先ずあって、それが個人を取り巻いている、という発想です。しかしこの受け身の発想が常識になっている限りは、今の時代のいちばん根本的な矛盾や疑問に応じられないと思うのです。」
「笠井/高橋さんがどこかでおっしゃったことだと思いますが、哲学と神秘学はたった一つの違いしかない。哲学は知の学であって、知識の方向へ行きます。それに対して神秘学は哲学が根底にあるけれど、その哲学を体験の方向へ持っていく点が唯一の違いです。哲学は体験がなくても哲学になりますが、体験のない哲学は神秘学にはなりません。」
「笠井/意識の問題に入るにあたって、先ほどのヨアキム主義のところに戻させていただきます。これは私の捉え方ですが、歴史を神話の歴史、自然哲学および錬金術的な歴史、自然科学的な歴史の三つに分けた場合、それぞれの意識の在りようは異なります。
神話的な世界では意識のリアリティーしかないのです。(・・・)
自然科学はそこかたイマジネーションを抜いてしまって、物質だけの関わりにしてしまいました。そのなかにおいては、私たちの意識が関わることは、まったくできなくなってしまいます。私たちは「物質」という言い方はしますが、「物質性」という言い方はしません。ところが錬金術では「物質」と「物質性」という概念を明確に分けています。例えば山の中にある鉄分と血液の中にある鉄分とでは、「物質」は々だけど、「物質性」はまったく違うという分け方をするのです。あるいは植物の中にある炭素と鉱物の中にある炭素では「物質」は同じでも「物質性」は違うという分け方です。しかし自然科学では「物質性」を抜いてしまいました。ですから「人間の中の鉄分と山の中の鉄分は同じだ」で済んでしまうのです。(・・・)
その「物質性」の違いは「体の中にある鉄分は意識と結びつくが、山の中にある鉄分の中には意識は入り込めない」ということなのです。この考え方は自我や意識を考える上で大切な観点です。
なぜ私たちは意識を捉えられなくなったかというと、ひとつには物質を見るときに「物質性」の違いを考慮しなくなったからだと思います。」
「笠井/私は三十五歳から四十一歳までドイツにいて、その時に体験したことなのですが、自分が物質の中にいるという体験をはっきりもったのです。自我が物質の中にいるということを摑んだというよりも、分かったのです。つまり自分が自分の体の中にいるということです。
この体というのは炭素や窒素や、諸栄養素といった、体を構成している諸物質で、その物質の内部に自分がいるということをはっきり体験したのです。この時に私は物を見るときの、ある視点を獲得した感じがしたのでした。それは自分が物質に対して、物質の内部から関われる存在なのだという視点です。そして確実にわかったことは、内部空間というものが無限空間ということで、有限空間ではないということです。内部空間に入った時に有限が生まれたら、これは外部になってしまいます。つまり外部であるということは、有限なのです。物質の内部に入るということは、内部空間に入るということであって、無限空間に入るということなのです。そして過去、現在、未来のすべてに行くことができます。現在にしか生きられない有限性であれば、それは内部ではないのです。(・・・)
高橋/すごい体験ですね。いわば物質という舞台がないと内面は自由に自分を表現することができないのですね?
笠井/そうなんです。物質があるから内面が獲得できるのです。ただし私にそれを可能にさせたものは、物質性の違いというものを、自然界の私の体を通して感じることができたからです。
(・・・)
笠井/これは論証できる体験ではないのですが、ただ自我というものは物質の内部から関われる力なのだと思います。
高橋/そうしますと、意識が生きられるためには物質性が必要だということですね。その物質性は逆に言うと、内部にいる意識によって、空間的・時間的にいかようにも変わることができる。そして物質性が変われば、またそこに新しい意識が住まわせてもらえますから、意識も変わる。」
「高橋/死のプロセスに二通りあるんですね。意識がどんどん離れて失われていく死と、意識がどんどん集中して、それが最高に達した時に生じる死と。(・・・)
笠井/私はこのこととキリスト教の成立は無関係ではないと思うのです。イエス・キリストが十字架に架かるということは、けしてイエス・キリストに肉体的な苦痛を与えたという意味ではなく、そのことによってある意識が人間の体の隅々まで浸透していったという意味だと思います。意識が完璧に体を満たすのは。けっしてサディスティックな意味での苦痛を与えることによってではなく、自我の力で意識が体を満たすことだと思います。(・・・)」
「笠井/たとえばバプテスマのヨハネがヨルダン川でキリストの洗礼を行なったというのは、古代的なやり方ですが、意識を抜こうとしましや。それは溺死する寸前まで体を水につけておくという方法です。(・・・)息を一定時間止めておきますと、苦しさの中に、人生の中で一番大きな力が生じます。つまり死というのは。人生の中で一番大きな力が生じる瞬間です。
この力は二通りの方向を持っています。ひとつは体から意識が抜き出す力、もうひとつは意識がさらに体を摑もうとする力です。バプテスマのヨハネの方法は、体を摑もうとする方向ではなく、意識を体から抜く方向だと思います。しかし、ヨアキム思想における個体主義で捉える死は、古代的な意味での意識が体から離れることではなくて、ひとり一人の人間が体を意識で完全に満たし、錬金術でいうよころの、体の物質性を最高度にまで高めるところまで育成することです。(・・・)
まずやらなくてはならないのは、死や物質の概念を改めて考えなおすことです。そのためには物質は物質であるだけではダメで、物質性というものは何なにかを考えなくてはいけません。そのことによって、私たちの体の中に意識がさらに深く入ることができます。すると、意識が体から分離していくという意味での古代的な死ではなく。ヨアキム主義的な死、つまり物質という壁に跳ね返される意識ではなく、物質が消滅するくらいにまで意識が内部に入っていき、そこで、本来の意識のあり方を掴めるのではないでしょうか。ですからヨアキム主義的な死というのは、死と同時に復活なのです。これが、私がドイツで体験したヴィジョンなのです。」
「笠井/先ほどお話しした「第二の死」、つまり霊界参入の方向の死ではなくて、物質の奥の方に入ることによって生じる死があるならば、この場合の体の捉え方というのはまさに無限であって、ここまでは物質であるというのではなく、無限に物質の中に入っていくという感じがあるのです。そしてその中で、次第に体が消えていくという実感があるとはいえ、これは、体というものを元にしているから成り立つものですよね。
高橋/だから体は、今の瞬間において絶対にあるんですね。
笠井/そうですね。
高橋/一〇年先、二〇年先の体ではなく、今この一瞬の体に懸ける生き方というのは、非常に具体的だし、それしかないような気がします。」
(「註」〜「ヨアキム主義」)
「十二世紀、イタリアの思想家ヨアキムのフィオーレにより生じる。キリスト教を、父の時代・子の時代・聖霊の時代の、三つの大きなアイオーンでとらえ、父の時代、子の時代のあとに終末が来るのではなくて、第三の時代である「聖霊の時代」に、人間の本質である自我の力が真に開花し、一切の宗教的権威、信仰をこえて人間そのものの神性が現れ出る、と予言した。」