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ハンス・ブルーメンベルク『世界の読解可能性』/頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』/『正法眼蔵 2』

☆mediopos3379  2024.2.17

「世界」を「読解」するためには
どうすればいいのか

昨日「情報」についてとりあげたが
「情報」を得てそれを解析し
そこから必要な「意味」を得るための
「技術」についてはさまざまに開発されてきている

しかしその際「情報」とされているものは
「世界」の「何」なのか
そのことが問われる必要があるのではないか

つまり「われわれは何を知りたいのか」
あるいは「何を知りうるのか」
という問いである

ある目的をもって「情報」を得ようとするとき
その「情報」はすでに
特定のフィルターを通して記号化されている
そして情報技術によってその記号が解析され
「答え」を得ることになるが

はたしてそのとき得られるものは
「世界」の「何」なのだろうか・・・

「メタファー学」を提唱している
ハンス・ブルーメンベルクは

「人間は一つの世界を持ち、
あるいは自分に一つの世界を与えるとき、
「世界に対する見解」だけに満足し、懐疑心がなくとも
「世界の洞察」を得る見込みはなくなる。
メタファーの研究は、見解を正当に取り扱うために
洞察の手前で立ち止まる。」
という

つまり一般に「情報」とされるものからは
「世界の洞察」を得ることはできないともいえるだろう
それはあくまでも数値化可能な目的に対する一視点に過ぎない

「世界という書物」「自然という書物」
というメタファーがあるが
本書『世界の読解可能性』は
「メタファー学の枠内で書物としての世界の
読解可能性のメタファーの構造上の意味とその変遷を
古代から現代までクロニクルにたどって
分析したものである。」

「物自体」を直接洞察することは
できないというカントの示唆を敷衍すれば
完全に世界を解読することはできない
ともいえるだろうが

問い得ないとされているとしても
その問い得ないとされている根底にあるもの
つまり世界を理解する
ひいては自己を理解するために
「メタファー学」はその「読解」を可能にする

それは直接的に「答え」を得るものではないが
「世界の洞察」の「手前」に
ひとを導き得るものだといえるだろうか

ブルーメンベルクによれば
メタファーには三つの種類があり

「一つは、発言の装飾としてのメタファー」
「二つ目は、概念形成の前野で起こる言語の先取りとしての
不正確な思考形式としてのメタファー」

三つ目が「メタファー学」にとって重要な
「絶対的メタファー」で
「その機能は答えることのできない問いへの答え」
「生の意味に関して、歴史の意味あるいは真理の性格を
目指」すものだとしている

「答えることのできない問いへの答え」
ということでいえば
禅的な問いと答えにも似ているだろうか

たとえば道元『正法眼蔵』の
「山水経」巻「一水四見」では

「人間が水と見るものも、
たとえば魚にとっては宮殿であるし、
餓鬼にとっては膿や血である」
「つまり、主体のあり方が違えば、
それに応じてその意味付けも異なってくる」

さらにはそこには同一の対象としての
「水の本質」も想定できないことが示唆されているように

「水」の「本質」なるものを直接示せないとしても
「答えることのできない問いへの答え」として
メタファーを通じてその「水」を指さすことはできる

「月」を指さすことはできるが
できるのはそこまでであるように
「答えることのできない問い」があり
そのための「答え」の方法がある

そのひとつが
「メタファー学」だといえるのではないだろうか

■ハンス・ブルーメンベルク(山本尤・伊藤秀一訳)『世界の読解可能性』
 (新装版 叢書・ウニベルシタス 831  法政大学出版局 2023/11)
■頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』
 (シリーズ・哲学のエッセンス  NHK出版 2005/11)
■道元(水野弥穂子校注)『正法眼蔵 2』(岩波文庫 1990/12)

*(ハンス・ブルーメンベルク『世界の読解可能性』〜「本書について」より)

「「われわれは何を知りたかったのか」。カントの『純粋理性批判』以降のこの二百年間、「われわれは何を知りうるのか」とのカントの根本的な問いに取って代わったのはこの問いなのかもしれない。」

「要求を上回る結果などは歴史においてなかったからといって、われわれが知りたいと思っていたものとはいったい何だったのか、という問いを差し控える必要はない。期待はずれだったものにも研究の価値はあると想われる。不確定性も、諦念から世界憎悪にいたる段階の歴史的な基本感情の一要素だからである。知が与えてくれるように思えたもの、約束として提示したものとは、いった何だったのだろうか。世界をどう考えたらよいのかはっきりしなくても不安を覚えないとしたら、世界はどのような現れ方をせねばならないのだろうか。

 このように次から次へと出てくる疑問は、われわれがほとんど忘れてしまっていた何かのような気がする。こうした疑問は、知りうること、知るべきことといったすべての基準に反するものであり。科学がここまで突き進んできた以上もはや問い直すことができないものとして、その成果のすべての奥底に沈殿している。「メタファー学(Metaphorologie)」とは、そのような願望や要求の痕跡を見つけ出そうとする作業である。」

「人間は一つの世界を持ち、あるいは自分に一つの世界を与えるとき、「世界に対する見解」だけに満足し、懐疑心がなくとも「世界の洞察」を得る見込みはなくなる。メタファーの研究は、見解を正当に取り扱うために洞察の手前で立ち止まる。」

*(ハンス・ブルーメンベルク『世界の読解可能性』〜「2 書物世界と世界書物」より)

「書物と現実の間にはある種の敵対関係がある。書かれたものは現実が占めている場所に進み出て、現実を最終的に分類されたもの、確定されたものとして余計なものにしてしまう機能をもっている。書き留められた伝統、結局は印刷に付された伝統は、繰り返し経験の信憑性を弱めてきた。書物には傲慢ともいえるものがあって、書き留める文化がある程度存続したことによって蓄積されたその莫大な量を前にしただけで、もう書物に載っていないものはないにちがいない。ただでさえあまりに短い人生の時間を費やして、すでに一度認識され記録されたことをもう一度見つめ。捉え直すのは無意味である、との圧倒的な印象を与えるからである。」

「それだけに書物が自然そのもののメタファーになりえたということは驚くべきことなのである。自然は書物の対極にある敵であり、書物は自然を非現実化するものであるように思われていたからである。それだけに書物と自然のこの結びつきを作り出した原動力は、強大で強制的なものにちがいない。」

「時を経て、歴史的な地平においてのみ、共通の一義的でいちどきには存在しえず手に入れられないものが実現される。言語化のメタファーは、科学的客観性の理想に対抗する「存在」構想に全面的に役立つものなのである。」

*(ハンス・ブルーメンベルク『世界の読解可能性』〜山本尤「訳者あとがき」より)

「ブルーメンベルクはテクストではないとされているすべてのもの、直接にテクストとして現存している世界よりも無限に大きな残りの部分、「世界という書物」に興味を持つ。有用なメタファーとしてである。われわれは記号の間に住んでいて、周辺世界をテクストのように読むことができるはずなのである。「世界という書物(Buch der Welt)」、あるいは「自然という書物(Buch der Natur)」というメタファーは、ヨーロッパでは長い伝統を持って人間の世界了解の地平の一翼を担っていて、中世以来、世界を神の偉大な「著書」に喩え、その解読法をめぐって試行錯誤が繰り返されてきている。この「書物としての世界」、「書物としての自然」はどのように読まれるのか、どのような言語で書かれ、どのような文法によっているのか。それはメタファーの形姿で表現領域にまで打ち込まれている基本的モデル表象で読み取れるのであろうか。近代の初頭、啓蒙の時代には席の全的な読解が可能と考えられ、百科全書ですべての世界を記述し尽くそうとした。これは危険な妄想であっただけでなく、世界に対する精神的暴行とも言えるものであった。理性が古い語りに対して勝利を収めると、メタファーの力は失われ、脱魔術化された世界の中で、世界という書物の中身は空っぽになって、その時間も解釈されないままのものになっている。世界という書物には新しい存在のメタファーが書き込まれなければならないのであろうか。いわばシミュレーションされる原本としてである。

 本書は、メタファー学の枠内で書物としての世界の読解可能性のメタファーの構造上の意味とその変遷を古代から現代までクロニクルにたどって分析したものである。」

「ブルーメンベルクによると、メタファーには三つの種類があるという。一つは、発言の装飾としてのメタファー、ギリシャ古代のレトリックの意味で説得と確信のために具象的な形姿に転義されたもので発言の効果を高めようとするもの。二つ目は、概念形成の前野で起こる言語の先取りとしての不正確な思考形式としてのメタファー、そこに内包されている独自の意味は、後に学問や哲学によって概念的に捉えられ、概念性によって解くことのできるもの。三つ目がブルーメンベルクの理論にとって本質的なもので、絶対的メタファーと呼ばれ、その発言に含まれる独自の意味は概念性によっては解くことができず、本来的なものへ、論理性へ連れ戻されない形に転義されたものである。その機能は答えることのできない問いへの答えなのであって、自分の言ったことの中に言いえないものをしっかり把握し、理論の限界を打ち破り、「空白の中に飛び込んで、理論的に満たされないもののタブラ・ラサに自らの輪郭を描く」ものである。(・・・)それが重要なのは、われわれがその問いを立てるのではなく、存在の基盤に立てられたものであるゆえに排除できないからであって、全体地平を目指すあの問い、つまり生の意味に関して、歴史の意味あるいは真理の性格を目指していて、これはわれわれの意識の歴史に属する努力を代表しているのだと言う。」

「文字の意味に解釈されうる単なる表現の装飾ではなく、論理性に以降されえない思考の本質的構成要素、つまり絶対的メタファーが出現するのはどこでなのか、文字で表現できないものをこのメタファーで救い出さねばならぬものとは何か、この問いをブルーメンベルクは哲学の概念史と並行して示しながら、変化していく存在メタファーと世界のメタファーから歴史的な意味の地平と知のモデルの発展のあとをたどり、人間の自己理解、世界理解にとってのメタファーの機能、メタファーの果たす役割を追求し、新しい規模、新しい深みのある修史の可能性を開こうとする。」

「思考の下部構造へ、体系的結晶化の基盤へ、その培養液へ切り込んでいく姿勢は一貫している。それにしても、言われることが言われねばならないことではないという経験をもとに言語が「満たされない意図の地平」にあることをテーマ化するのは、解釈学上のボーダーラインにある。ヴィトゲンシュタインは言語化されない経験について述べ、世界について語る命題や論理的形式について語る命題、哲学的命題すらも、「語りえず、示されるのみ」であって、それをあえて語ろうとしたところに伝統的哲学の誤謬があるとしたが、ブルーメンベルクはヴィトゲンシュタインの跡を追って、言語化されないものをメタファーでもって言語的に救い出したものに的を絞っていると言えるのではなかろうか。ベンヤミンの言う「伝達の不可能性」、スーザン・ソンタグの言う「沈黙」、ピエール・マシェレーの「不在性」、ロラン・バルトの「言語の前記号状態」、クリステヴァの「記号的なもの」、デリダの「非−場所ないし非−知の様態の体系化」などの発言はさまざまな動機からなされたものであるが、ブルーメンベルクがそうしたさまざまな立場以前に「言語の意味論的奉仕価値の拒否」に向けての解釈学的基盤を作っているとも言えよう。」

「意味の喪失している現代、意味を希求し意味を与えようとする誘惑は常に大きい。ブルーメンベルクはこうした願望や要求の痕跡を見つけ出そうとする。その痕跡を探れば、願望が根づいた場所に行き着き、そこからそれぞれの伝統にくるまれてそれが変形されてきたことを知ることになるからである。到達できないでいるものに手探りで近づくための指針となるのが人間のイマジネーションの可能性を開くメタファー、ブルーメンベルクの言う背景メタファー、メタファーの暗黙に使用ということなのであろう。」

*(頼住光子『道元』〜「第二章 言葉と空」より)

「「山流」にしても、「青山常運歩」にしても、世界の異なった様相を語る言葉は、私たちの視点を相対化するための言葉なのであり、さらにいえば、日常的な意味付けの枠組みから私たちを解き放つための言葉であった。

 このことについて、同じく「山水経」巻の「一水四見」を手がかりとして、さらに考えてみよう。「一水四見」とは、仏教でよく使われるたとえで、人間世界に住む者にとっては水と見えるものも、天人は瑠璃(七宝の一つで深い青色の宝石)でできた大地として見、餓鬼(生前の貪欲の報いで飢餓に苦しむ亡者)は濃血の充満した河として見、魚は自分の住処として見るということである。

 仏教では、物事に対する執着を断つために、すべての存在は固定的な本質を持たないものであり、存在をとらえる側のとらえ方によって、その存在のありようも変わってくると説く。「一水四見」とは、見る側の心を離れて存在はないということを説明するためのたとえである。」

「道元は「一水四見」をふまえながら、みずからの考え方を展開している。

 まず、道元は、人間が水と見るものも、たとえば魚にとっては宮殿であるし、餓鬼にとっては膿や血であるということを挙げる。つまり、主体のあり方が違えば、それに応じてその意味付けも異なってくるということである。

 私たちが水と見ているものは、私たちが日常生活の中でそれを飲用する。洗浄などに使うなどという必要から意味付けされた水である。つまり水の意味は、飲用であり洗浄等である。それに対して。水に住む魚にとっては、それは宮殿であり。その意味は居住である。それぞれの主体は、自分の生存の必要に応じて世界を区切り、区切ったそれぞれを意味付け名前を与える。つまり、主体は世界を自己の視点から分節化するのである。

 さらに、道元は、「一つの同一の対象」があって、それに対して、水といったり。宮殿といったり、濃血といったりしているのかどうかという疑問である。

 この疑問に対する道元の考え方を端的に示すのは。「諸類の水たとひおほしといへども、水なきがごとし」という言葉である。「水なきがごとし」といわれているように。本質を想定しないという考え方をあてはめて、上述の疑問についても答えられるというのである。」

「水の本質というものがないのと同様に、人間が水と見、魚が宮殿と見、餓鬼が濃血と見るものについても、何らの原型というようなものはない。「諸類」にとっては、それは宮殿であったり濃血であったりするのであるが、それらの原型となる何らかの存在(「本質」にあたるもの)があるわけではない。水にしても宮殿にしても濃血にしても、それぞれの主観の構図から眺められてはじめて、そのものとして存在する。主観の構図を離れては何者も存在しない。たとえ原型になる何らかの存在を立てたとしても、それ自体すでに何らかの主観の構図から見られていることにかわりない。みずからの生の様式に根ざした主観の構図をはなれて、存在そのものというものはないのである。」

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