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豊永浩平「藤枝静男『田紳有楽・空気頭』」(文一の本棚)/藤枝静男『田紳有楽』/豊永浩平『月ぬ走いや、馬ぬ走い』

☆mediopos3553(2024.8.11)

「先祖の魂が還ってくる盆の中日、幼い少年と少女の前に、
78年前に死んだ日本兵の亡霊が現れる――。
時空を超えて紡がれる圧巻の「語り」」・・・

『月ぬ走いや、馬ぬ走い』で群像新人文学賞を受賞した
豊永浩平が『群像』2024年9月号の「文一の本棚」で
藤枝静男の『田紳有楽・空気頭』をとりあげている

二十一歳の豊永浩平は
そこになにを読みとろうとしたのだろうか

柄谷行人は『夢の世界————島尾敏雄と庄野潤三』において
「カフカの小説に夢の雰囲気を与えているのは、
事物の詳細な描写と明瞭な現前性である。
カフカは夢を書いたのではない。
ただ、「距離」を奪いとられた現実を書いたのである」
と示唆しているというが

豊永浩平はそこから
「藤枝静男という作家の「距離」を考えてみたい」という

藤枝静男はいわゆる「私小説作家」であるが

「おなじく夢的な私小説を記した「第三の新人」は、
みずからの身辺をキメ細やかに綴り、
景色と眼の「距離」を揺るがせることで、
たゆたう人間の精神的源泉ともいうような地点を捉える」

「ところが藤枝は、この「距離」を
型破りに一ツ飛びしてしま」うのである

藤枝静男は「現実への「距離」を取り払った
嘘偽りない「私」の小説」を書く

「老境が迫った藤枝が記した小説集『虚懐』では
こう表現されている

「自分自身の外との関係は何とかゴマ化し、
或いは忘れ、或いは捨て去ることができるという気がする。」
「しかしただ、自分から生み出されてくる悲劇は
いくら努力しても処理できない。
依然として苦しいばかりだ。」というのである

「外は子細に対象化できても、
内にある悲劇からは逃れられない。
なぜなら、自らの内部と「距離」をとることは、
誰にとっても困難であるから。」

そこに藤枝静男の小説『田紳有楽』が生まれる

「逃れえぬ「私」と、外の精細な自然との閾が
互いに侵され合い、浄土と呼ぶべき地平があらわれ」
「カンカンカン、というあの鉦の響きと、
田紳有楽、という贋物たちの輪唱」の世界・・・

かつて藤枝静男『田紳有楽』を表した
ドイツ文学者で批評家の川村二郎はこう評している

「幻想的表現は通例、現実からの逃避と見なされる」が
「幻想と現実とを単純に二元論に対比することは、
そのどちらに対しても、不当な過小評価に陥る危険がある」

「それならば「私」もまた当然、
両面に相わたる形で探られなくてはならない。」

「現実と幻想の単純な二元論を撤廃して眺め」る試みこそ
「表面からだけでは確認できない「私」を、
裏面から、あるいはその存在の無意識の根底から、
うかがい取ろうとする果敢な企てということになる」

カフカの小説は私小説ではないが
単に「夢」を描いたのではない
「事物の詳細な描写と明瞭な現前性」を有している

ただそこには外的現実と内的現実
現実と幻想などが有している常識的な「距離」が
奪いとられた現実が書かれているのである

■連載書評 文一の本棚
 豊永浩平「藤枝静男『田紳有楽・空気頭』」
 (『群像』2024年9月号)
■藤枝静男『田紳有楽』(講談社文庫 昭和53年11月)
■豊永浩平『月ぬ走いや、馬ぬ走い』(講談社 2024/7)

**(豊永浩平「藤枝静男『田紳有楽・空気頭』」より)

*「少しラフな形容になりますが、「群像」出身のOBといえる柄谷行人さんは『夢の世界————島尾敏雄と庄野潤三』にて、「カフカの小説に夢の雰囲気を与えているのは、事物の詳細な描写と明瞭な現前性である。カフカは夢を書いたのではない。ただ、「距離」を奪いとられた現実を書いたのである。」と指摘しています。ここで柄谷さんはさまざまなテクストに依拠しながら、戦後、いわゆる「第三の新人」と呼ばれた作家について扱っています。ここから、ぼくは、藤枝静男という作家の「距離」を考えてみたい。

*「つい先日、無期限の休業に陥ってしまい、いまたただカラになり寂れた店舗を残しているのみのカフェ。高台に位置しており、壁一面が硝子張りになっているそこからは、米軍駐屯地のキャンプ・フォスターときらびやかな北谷のアメリカンビレッジを鳥瞰することができます。そして、街並みを貫く58号線から続く道すじを南下してゆけば、戦跡が生々しく、寂寞とした本島の果てに辿り着く。そのような場所で、ぼくは『田紳有楽・空気頭』を読み、藤枝静男、という一風変わった作家に触れたのでした。骨董屋の庭の池へと放られた贋物の陶器たち、グイ呑みは出目金と番い、孕ませ、柿の蔕は人に化けて出歩き、丹波の丼鉢は空を飛び、弥勒菩薩の化身がいずれ衆生を救うまで、どうにか愉しくやっていこう、と願う。あるいは、藤枝自身であろう語り手が、上林暁や小島信夫をおもわせるように死せる妻の肖像を淡く描く。かとおもいきや、ムードは一変し、とつぜん「人工気頭装置」なる性欲減退システムをつかえどもなお収まらない淫奔の記録にドギツク筆致が進んでいく。私小説作家、というふれこみからはおおいく逸脱していて、ぼくは途方に暮れたのでした。おなじく夢的な私小説を記した「第三の新人」は、みずからの身辺をキメ細やかに綴り、景色と眼の「距離」を揺るがせることで、たゆたう人間の精神的源泉ともいうような地点を捉える。ところが藤枝は、この「距離」を型破りに一ツ飛びしてしまいます。」

*「自身の小説について、作中、藤枝は瀧井孝作との思い出に併せて記しています。それ曰く、二十代のおわり頃に瀧井を訪問してみると、二、三百枚の原稿用紙を眼のまえに堆く積まれ、これに小説を書いてみよ、といわれたとのこと。「小説というものは、自分のことをありのままに、少しも歪めずに書けばそれでよい。嘘なんか必要ない」。このことばに対して、藤枝は、書くべき「自分」など当時何処にもなかったから、書きようがなかった、と応えています。しかし、彼の中に萌していた私小説の種は、いわば一種忌み子じみた迫力でもって日本文学の系譜の花開くこととなる。現実への「距離」を取り払った嘘偽りない「私」の小説。では、この「距離」はどのようにして失効されるのか。老境が迫った藤枝が記した小説集『虚懐』から、示唆に富む文言を引用してみます。

  私自身は、大雑把に謂えば自分自身の外との関係は何とかゴマ化し、或いは忘れ、或いは捨て去ることができるという気がする。それを薄めて忘れることができると思う、しかしただ、自分から生み出されてくる悲劇はいくら努力しても処理できない。依然として苦しいばかりだ。(『みんな泡』)

*「外即ち自然を見るという一点について、彼のその瞳の光彩陸離ぶりは、一読すれば余りにもあきらかです。ところが、外は子細に対象化できても、内にある悲劇からは逃れられない。なぜなら、自らの内部と「距離」をとることは、誰にとっても困難であるから。ここに藤枝静男の小説が発生します。逃れえぬ「私」と、外の精細な自然との閾が互いに侵され合い、浄土と呼ぶべき地平があらわれる。それこそがまさにカンカンカン、というあの鉦の響きと、田紳有楽、という贋物たちの輪唱なのです。」

**(藤枝静男『田紳有楽』〜川村二郎「解説」より)

*「一般に私小説家と呼ばれる人たちは、おおよそ自分、「私」という存在を、感覚的に信頼し切っている。そこの確乎不動の信頼は、安定した強い表現を達成することも稀ではないが、また、時としてすごぶる楽天的な、無反省というより反省に対して拒否的な、自己満足のように見えもする。藤枝氏は、自己満足に安住するには、認識への篤実な欲求を持ち合わせすぎている。「私」のことを書く、それにしても「私」とは何か。その捉えがたさを、程よい美的な妥協に委ねることなく、律儀に野暮に追求しようとする。その過程において、幻想奇譚風な要素が、必然的な追求手段として選び取られたのだ、と考えることができる。作者の側がそうである以上、読者の側も、ただ心のどかな散策を楽しむというわけには行かないのである。

 眼に快くなじみやすい風景の代わりに、この道を歩いた時読者に恵まれるのは、奇妙に均斉を欠き、無骨で荒けすりでグロテスクな、しかしまさしくそれ故に、「私」という捉えがたい景物の正体に即しているとしか思われぬ、奥行きの深い内部風景の眺めである。

 幻想的表現は通例、現実からの逃避と見なされる。そして事実、苛烈な現実世界から逃れて一時の夢に慰めを求める、という性質の、文字通りの夢物語も文学の世界に多いことは否定できない。しかしそれにしても、幻想と現実とを単純に二元論に対比することは、そのどちらに対しても、不当な過小評価に陥る危険がある。というのも、日常の中で生きるための営みに励むのも人間だが、その営みから身を背けて夢に沈もうと願うのも人間であり、その両面をひっくるめて人間の現実というものの総体が成り立っているはずだからである。それならば「私」もまた当然、両面に相わたる形で探られなくてはならない。典型的な私小説を書いている作者が、表向きは一変して、奇々怪々な付喪神(器物の変化)のマンダラ図絵を描き出すのに熱中する。表向きだけを見れば、あれをしたりこれをしたり、作者の本意はどこにあるのか、といぶかられかねまい。しかし現実と幻想の単純な二元論を撤廃して眺めれば、その試みこそ、表面からだけでは確認できない「私」を、裏面から、あるいはその存在の無意識の根底から、うかがい取ろうとする果敢な企てということになるだろう。律儀といったのは、そのような、対象をまるごとつかもうとする意欲の一貫性のことである。」

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