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田中泯「時代と添い寝しないカラダ」(現代思想 2013年6月号 特集「フェリックス・ガタリ」)/フェリックス・ガタリ+田中泯『光速と禅炎』

☆mediopos3592(2024.9.19)

これまではドゥルーズ=ガタリの
ドゥルーズのほうに関心をもってきたが
mediopos3585(2024.9.12)でとりあげた
『異界の歩き方』を読んで以来
精神分析家のガタリに注目するようになった

そのなかで偶然のように
現代思想 2013年6月号の
特集「フェリックス・ガタリ」に掲載されている
ガタリについての田中泯へのインタビューを見つけた
(2013年4月19日、中野風月堂で収録)

すでに40年ほどまえのこと
ガタリと田中泯の対談本『光速と禅炎』が刊行されており
(週刊本35 朝日出版社 1985/6)
上記のインタビューはそれをふまえたもの
(ずっと読ま(め)ないまま本棚に並んでいた(苦笑)・・・)

ちなみにその『光速と禅炎』に関する以下の記事が
ユリイカ 2022年2月号の特集「田中泯」に収録されている

村澤真保呂(『異界の歩き方』の著者のひとり)
「「身体のアレンジメント」を読む 田中泯と「分子革命」」

この記事については
あらためてとりあげたいと考えているが
今回は田中泯へのインタビュー
「時代と添い寝しないカラダ」について

田中泯はパリで開催されていた
日本の現代文化を紹介するシリーズにおいて
踊り手として参加していたとき
質疑応答の時間にガタリが次々に質問をしてきたのをきっかけに
ガタリに招かれ84年6月に対談を収録している
(『光速と禅炎』として出版された「身体のアレンジメント」)

ちなみにガタリは1992年に亡くなるまで
フランス北中部にあるラボルド病院に勤務していたが
そこでは患者と治療者の区別をできるだけ取り払い
両者のサークル活動を中心とした独自の
「制度論的精神療法」が展開されている

田中泯は土方巽から踊りを習い
「本来の人間の踊りはどんなふうだったのか」と問うなかで
「必然的にカラダを容器のようにして使う芸能表現に出会う」が

ガタリは対談のなかで
「「集団的アレンジメント」を
単なる人間関係のみならず非人間的過程、
すなわち、動物、植物、鉱物、宇宙的事物、
制度、場のリズムの歴史等々を含むものとしつつ、
およそそうした過程を「管理」するとはどういうことかと問い」
それに対して田中泯は「身体の外側に回帰すること」と答えている

「生命と外自然・外環境との関わりのなかで、
外側にいかに自分の素材(・・・)を見つけていけるか、
それが細胞の仕事」であり
「細胞の世界では、内側なんてなく、外側しか本当はなかったはず」
にもかかわらず
「私たちはいつの間にか外と内のあいだに
不動の区別ができたかのように考えるようになった」・・・

「身体の外側に回帰すること」
つまり田中泯が土方巽から聞いたとしている
「肉体の外に梯子を下ろして降りていく」ことによって

そうした「あるようでない」主体性
つまり「この生命が生まれ落ちてから
どこかで終わりを告げられるまでのあいだ
仮にそう呼ばれている、形式的な意味での主体性ではなく、
本当の意味での主体性」を確立する途上を
生きることができるのではないか・・・

田中泯はそんな問いそのものを
ほんらいの主体性である「無名性」として
踊っているといえるのかもしれない

田中泯はじぶんを
「間違いなく「無名性」を目指している人間」であるといい

私たちは「「それしかないの?」というくらいに、
社会に対するヴィジョンが貧困」で
「有名性」を求め
「テレビで面白おかしくやってくれる、
競技場で頑張ってやってくれる、「代役」ばかり探し」ているが
それは「ものすごく危険」だという

「今「考える」ということが、あまりにも
時代の身体や時代の心に添い寝しすぎて」いる・・・
インタビューの最後にそんな示唆がなされているが

それは「有名」であることを求め
その代償としても日々「代役」にばかり注目することで
「あらゆる可能性を持っていながら、
その可能性の糸を自分で切ってしまっている」ことでもある

昨今の「承認欲求」というのもそれだろう
「有名」であること「承認されること」を求めるあまり
ほんらいの主体性である「無名性」をスポイルしてしまうような
空虚なカラダとココロの火の車を暴走させている・・・

■田中泯「時代と添い寝しないカラダ」
 (現代思想 2013年6月号 特集「フェリックス・ガタリ」)
■フェリックス・ガタリ+田中泯『光速と禅炎』
 (週刊本35 朝日出版社 1985/6)

**(田中泯「時代と添い寝しないカラダ」より)

・細胞のアレンジメント

*「—— 田中さんはガタリと「身体のアレンジメント」という対談を行い(『光速と禅炎』朝日出版社、一九八五年)、またガタリがジャン・ウリらとともに共同運営していたラボルド病院で踊られた経験もお持ちです。ガタリは晩年、主観性(主体性)をして自らの再創造へと駆り立てる媒体として、芸術家への期待をよく語るようになるのですが、ここではそれが現在さまざまな悪弊をもたらしている資本主義的な「主観性の生産様式」とは別の様式の探求であったと解釈しつつ、まさにそんな「芸術家」の一人であった田中さんから、いろいろご示唆をいただければと思っています。

 田中/この頃は僕の言葉の出方もますます極端になって、結局のところ、詩や俳句、あるいは短歌のように書くしか方法がないのではないかとさえ思っています。そしてそういう世界のほうが僕のカラダに合っている。そういえば、ガタリも僕に宛てた詩のなかで「俳句」なんて書いていましたね。

 —— 件の対談本に掲載されている「オマージュ1984」の、「リズムの不可逆な生成と俳句的事態の小楽章」という部分ですね。そもそもこの対談が実現したきっかけは何だったのですか?

 田中/パリで日本の現代文化を紹介するシリーズが開催されていたのですが、その一環として、当時やっていたグループの何人かを連れて踊り手として参加しました。踊り終わって、観客と質疑応答の時間になったのですが、真ん中の席にいた男が先頭を切って質問をしてくるわけです。ほとんど彼の質問だけで、他の人が質問できないような状況でした。(・・・)終わってからその人がガタリという人だと聞いたのですが、彼から「すぐ会って話をしたい」と言われました。
 (・・・)
 『光速と禅炎』で二人で話したのは八四年六月でしたか。当時オデオンにあった彼の家で収録しました。八〇年代当時はよくパリで踊ったのですが、彼がパリにいれば、必ず踊りを見に来てくれました。」

*「田中/僕は土方(巽)から踊りを習っています。彼の踊りを見ることが即学習だった。それと同時にいわゆる伝統的な踊り、つまり本来の人間の踊りはどんなふうだったのかということを勉強していけば、必然的にカラダを容器のようにして使う芸能表現に出会うわけです。

 ——ガタリは『光速と禅炎』のなかで「集団的アレンジメント」を単なる人間関係のみならず非人間的過程、すなわち、動物、植物、鉱物、宇宙的事物、制度、場のリズムの歴史等々を含むものとしつつ、およそそうした過程を「管理」するとはどういうことかと問います。それに対して田中さんは、「身体の外側に回帰すること」と答えられている。

 田中/「肉体のなかに梯子を下ろして降りていく」と土方は言ったということになっているのですが、僕は彼から「肉体の外に梯子を下ろして降りていく」と聞いたような気がしているのです。錯覚がどうかわからないのだけれど、僕はどうしてもそう聞こえてしまったし、「そうだよ!」と納得もした。肉体の内側は実はないんです。基本的には全部外側です。これについては土方だけでなく稲垣足穂も、最近の生命科学もはっきりとそう言っている。例えば、内側に入り込んでいるけれどあくまでも外側である皮膚とか。とすればあとは肉しかない。私たちは肉体。あるいは「肉人」であって。水でびしょびしょになったつくりものなんです。

 一方で、私たちのカラダではそれこそ六〇兆からなる細胞がたくさんの「組合」をつくって、実に上手に組織をしてくれているわけです。そして「私」の居場所がないくらいに、連中は忙しい(笑)。そういうものと無縁であるかのように僕たちは「私」として自体がつねに世界を反映しながら進化し、変化してきたということなのでしょう。細胞の世界では、内側なんてなく、外側しか本当はなかったはずなんです。生命と外自然・外環境との関わりのなかで、外側にいかに自分の素材——食うための、あるいは自分を成り立たせるための——を見つけていけるか、それが細胞の仕事でした。そしてそうした細胞は、動物だろうが植物だろうが鉱物だろうが、ありとあらゆる生物・無生物と何らかの共通関係を持っています。外世界を私たちと同質なものとして扱うということは言葉のレベルでは大昔から普通に続いてきたことですが、私たちはいつの間にか外と内のあいだに不動の区別ができたかのように考えるようになった。しかしあるとき気づいたら、眼に外側がはりついているようなことが起こりうるのではないかとも思っているのです」

・主体性の謎

*「—— 田中さんが八七年にラボルド病院で踊られている映像の一部をアンジェラ・メリトプロスとマウリツィオ・ラッツァラートによるドキュメンタリー、“ Assemblages”で見ることができました。」

「田中/僕は日本の精神病院の経験は随分とあったのですが、ラボルドはあまりに違うので驚きました。かつて碧水荘事件があった病院は後に長谷川病院と名を変えるのですが、そこでインストラクターとして二年間働いていたのです。主に薬漬けの患者さんが社会復帰できるようになるためのリハビリを担当していたのですが、「レク」と称して「引退」前の人たちを散歩に連れて行ったり、バスで日帰りの旅行に行ったりしていました。いつも逃げられていましたけど(笑)。

 とにかく閉鎖病棟の様子も凄かったり、患者さんの自殺もよくあって、精神病院については一定のイメージができあがっていた。それに自分のなかで分裂病とはこういうものなのかなといろいろ考えもしました。そのときカラダに記憶されたものと、精神病の人たちの取る行動については、いまだにはっきり憶えていることがたくさんあります・そしてそれは踊りに出てきたりするのですが、とにかくそういう下地はあったのです。

 —— ラボルドでは、患者さんと医療者、看護師の非対称的かつ硬直的な関係を取り払い、横断的な、動的な関係性のための場の構築が目指されたと言われます。

 田中/日本の場合は完全に分けられていましたからね。閉鎖病棟と開放病棟、閉鎖病棟でも完全に檻のなかのような状態もあれば、部屋から出て来られるけれど他の軽度の人たちとは絶対に交わらないように区切られているとか。患者さんと何かのテーマについて対話をするなんて、もってのほかでした。

 ラボルドではどこに仕分けをするものがあるのかわからないくらい、みんな入り混じっていました。あのときも踊りが終わり、入院している人たちに囲まれて、ガタリが司会などして僕とやりとりをしていたのですが、興味を持ってすぐ近くまで来るのだけどずっと俯いたままの人とか、どんどん質問してくる人とか、なんとか自分の知識を述べなければならないと思っている人とか、いろいろな人がいましたね。とても幸せな時間でしたよ。」

*「—— 統合失調症の患者さんによる特異な、自分の分子的な部分——「細胞」と言い換えてもよいでしょうね——との付き合い方があるとして、それが田中さんの踊りや思考をつくり上げるプロセスに反映されているとしたら、どのようなことでしょうか。

 田中/人間は幼年期の「無意識の時代」から始まって、自分の近くにいる人の言葉や行動、あるいは道徳などを真似し始めますね。それから社会性を持ったところに認識や思考が移っていく。そういう過程と主体の在処について、ガタリは研究していたのでしょうかね。

 私たちが「主体」と呼んでいるものの本質のところで、一体何が語られてきたのか、僕は興味があります。ひょっとしたら今生きている「私」のこの現在は、本当の意味での主体性を確立する途上なのではないかという感じがしてしょうがないのです。この生命が生まれ落ちてからどこかで終わりを告げられるまでのあいだ仮にそう呼ばれている、形式的な意味での主体性ではなく。本当の意味での主体性は何を意味するのか・・・・・・。

 —— その途の先にあるであろう主体性も、総合された堅固な主体性というより、むしろそこで他なるものに浸食されていたり、外へはみ出てしまったり、子供じみていたり、つねに道程そのものを壊していくようなイメージのものですね。

 田中/主体というのはあるようでないのではないか、という気がします。竹を例に取ればとよいと思うのですが、あれなどは一連の地下茎から始まって、地上に出てきた連中はそれぞれ実に特異的なんです。それも同じ条件下でも同じようには反応しない。あの主体性は一体どこにあるのでしょう。僕らが彼ら一本一本の竹のような主体性を持つと面白いだろうなと思うことがあります。」

・立つ動物=人間

*「—— 植物の他に動物も彼の重要なモチーフの一つでした。つまり「動物になること」ですが、これについてガタリは先の対談で、田中さんが地を這うこと、地に横たわることとの類縁性を問うています。人間的な座標系の外へと移行するためのモメントを見込んでのことと思うのですが、しかし田中さんはおよそ「動物になる」では中心や序列ができてしまうから満足できない、と返されています。これはかえってガタリのアイデアの核心をついているようにも思えます。

 田中/動物の進化の構造に興味を持っても、踊りを語るときにはあまり大きな収穫はなさそうな予感があります。それよりは、動物としての人間が立ち上がったとき、どうして前と後ろに執着してしまったのかということのほうが遙かに大きな好奇心を喚起します。ガタリとよく話していた頃にこの話ができなかったことがすごく心残りです。人間はどうして裏をつくってしまったのか。どうして表をつくってしまったのか。歩くにしてもどうして前にしかうまく歩けないのか。

 —— 前回のインタビューでの印象的なパッセージ、「踊りはスピンを始める」ということにお関わりますでしょうか(本誌二〇一一年一一月号)。人間が二本足で立ち上がることによって獲得してしまった前後ろ——あるいは裏表——を、スピンによってあえて動物のほうへ「退行」することによって、特異化のプロセスを別の仕方でやり直すための可能性の条件を確保しようとする。これなどはまさにガタリの「主観性の再創造」というアイデアに身体(論)的な表現を与え返すものであるように思いました。

 田中/ここのところ畑仕事をしながらいつも考えているのは、僕は時代に生まれてきたのだろうか、ということです。時代があって個があるのか、それとも個が時代を認識して始めて自分が何に管理されるべきかを決めていくのか。何々の時代に生まれたからこの人がこういうふうに存在している、というものの見方は、どうも違うのではないかと思うのです。

 生命体として、周囲の環境を分析しつつ自分を見据えていくある種の生命活動がまず先にないと、時代に最初からパッケージされた活動しかできなくなります。そして時代状況がこうまで深刻になってくると、もはや「風土」と呼べないようなものが世界を覆ってしまいます。キリスト教から発した文明があれほど風土を切り捨ててしまった結果が、今のような状況を招いていると思うし、資本主義などまさにそうですよね。「グローバル」なんて、すごく怪しい。風土は時代を超越したものだと思うけれど、その風土すら虚しい要素になりかかってきている。」

・危険な肉体、時代と添い寝しない思想

*「田中/僕の生まれてからの時代は、「それしかないの?」というくらいに、社会に対するヴィジョンが貧困です。人間そのものが、どうしてもっと面白くなろうとしないのでしょう? テレビで面白おかしくやってくれる、競技場で頑張ってやってくれる、「代役」ばかり探している。こんなに「有名性」に頼るようになると、ものすごく危険です。「有名性」がだんだん無限大になってきていて、「どのくらい知られたら満足なの?」と質問したいくらいです。ではこのとき、「無名」とは何なのか。僕は間違いなく「無名性」を目指している人間です。「このまま行くと世界の動きが止まるぞ」という感じがしています。常識も法律も変わり続けて初めて、僕は地球上に生きていることを自覚できるのだろうと思います。それがあって初めて時代が生きてくる。

 とにかく生命に対する大きな矛盾を、思想が持ちすぎたのではないでしょうか。生命はもっと破れ目だらけだろし、細胞そのものもきっとそうだと思います。だからこんなに次々と新しい病気が現れてきたりもするのです。」

*「田中/やっぱり人間が立ち上がったことについて、ガタリととことん話したかったですね。何らかのきっかけがあったにせよ、立つのは必然だったと思いますが、立った後の人間性というか、人間が立った後に考えてきたことは一体何だったのか・・・・・・。

 例えば眼が見えないと、感覚器官の活動は通常とは随分違いますよね。でも眼が見えないことで浮上してくる物事がいっぱいある。それを体験しても、眼が開いた途端にまた元の木阿弥というか、その浮上してきたものが「私」にはあるのだということを継続して持ちつづけられないという不器用さを、私たちは細胞的に持っているわけです。何と言っても、「私」がそれを許さない。これは大欠陥だと思います。実際に眼の見えない人に気を遣うということの根拠は、「気の毒だ」とかそういう気持ちではなく、実はその感覚を「私」ももっていますよということなのだろうと思います。眼の見えない人はその感覚をさらに研ぎ澄ませていくわけですが、しかし基本的にはこちらにも同じ感覚性が備わっているはずなんです。

 恐ろしいくらいに私たちは、あらゆる可能性を持っていながら、その可能性の糸を自分で切ってしまっている。そういう生きものだと思います。そしてその可能性に気づく社会ではないのですね

 —— 気づいてしまったらとても穏やかではいられない。

 田中/土方が出現した当時、三島由紀夫は早速「危険な肉体である」、「凶器だ」と言い出した。別に刃物のような動きをしていたわけではありませんが、しかし「危険な肉体」だと。三島の直感は絶対に当たっていたと思います。

 —— 「危険な肉体」、「凶器」、すなわち既存の座標系の外で、規格外の動作をする何ものかが出現したとき、遅れつつもそれを言葉へと持ち来たらす作業と、そうした出現の可能性の条件を下支えするような論理を構築することが、「思想」の仕事なのかもしれません。

 田中/今「考える」ということが、あまりにも時代の身体や時代の心に添い寝しすぎていますからね。」

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