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納富信留「挑発としての「世界哲学」/今哲学を共に始めるのは」 (『未来哲学・第四号』より)

☆mediopos2819  2022.8.6

ぷねうま舎からでている『未来哲学』の第四号に
納富信留「挑発としての「世界哲学」」という
叫びのような論考が載っている

これは先日「mediopos2813(2022.7.31)」で
とりあげた納富信留「つくる哲学に向けて」と
基本的に同じ趣旨の「叫び」だろう

今回は「つくる哲学に向けて」をさらに進めて
「哲学ははじまっていない」という
哲学者といわれる者としての懺悔であり
同時に勇気ある宣言ともなっている

いまや学生はこんな言葉さえ
「キョトンとして理解できない」という

「哲学はまさに哲学することであって、
哲学研究ではない」
「『・・・・・・における』などと付けて語るのは、
哲学ではない」

たしかにすでに「哲学」という理念は
それそのものがただの「学問」に
なってしまって久しいのかもしれない

すでに亡くなって久しい池田晶子は
みずからを「哲学者」だとはみなさず
「文筆家」と称していた
ましてや学者でも先生でもなかく
いわばNOBODYだった

mediopos2813でもふれたが
かつてノヴァーリスは
学問は哲学になったあと
ポエジーにならねばならないと言った
「哲学」はさらにそれを超えた
創造性に向かわなければならないということだ

学問になって
哲学研究するだけの哲学は
すでに哲学から後退している

「哲学は貧困の極にあり、
おそらくその名に値するものは
ほとんど存在していない」
というのは著者のきわめて誠実な嘆きだろう

「哲学はまだ始まっていない」から
著者はまだ見ぬそれを
なんとか始めようとしている
まるでイザヤ書の
「荒野に呼ばわる者の声」のようだ

しかし「未来」は
そんな「荒野に呼ばわる者の声」からしか
はじまらないのではないか
そんなことを思わざるをえない昨今である

■納富信留「挑発としての「世界哲学」/今哲学を共に始めるのは」
 (『未来哲学 第四号』未来哲学研究所 ぷねうま舎 2022/7 所収)

(「哲学ははじまっていない」より)

「今に始まったことではないが、哲学は貧困の極にあり、おそらくその名に値するものはほとんど存在していない。もしそうではないと言い立てる人がいたら、ぜひ示してもらいたい。優れた哲学的直観を駆使するとか、明晰な論理で問題を整理するとか、人を驚かすようなアイデアを出すとか、重厚で壮大な理論を提示するとか、私はそういったものはそれだけでは哲学だとは見なさない。哲学はまだ始まっていない。

プラトンがソクラテスの死の意味を問うてこの理念を立ち上げた時、自身と師への反省をこめて論じた「ソフィスト」という批判は、現在では語られることさえない。おそらくその批判に値する対抗者さえ存在しないからだろう。哲学は危険だという力さえ感じさせないのかもしれない。言いがかりをつけているのではない。この批判がまっさきに、そして最後まで向けられるのは私自身なのだから。哲学ははじまっていない。つまり、私は哲学を始められていない。

私が学生だった頃には、「哲学はまさに哲学することであって、哲学研究ではない」とか、「『・・・・・・における』などと付けて語るのは、哲学ではない」といった厳しい言葉を日々聞いていたが、最近は私がそういった話をしても学生はキョトンとして理解できない。おそらく「哲学」という言葉が死んでいるから、あるいは生きた哲学を見たことがないからであろう。私たちの責任である。」

(「哲学という闘技場(アリーナ)」より)

「「世界哲学」という、お世辞にも美しいとは言えない言葉を掲げて現状を変えようと、仲間たちと言いだした二〇一八年に、いろいろな理屈を考えた。「世界」という日本語に豊かな意義を見据える時間の拡がりや、日常生活や芸術やそういったあらゆるものを包摂する越境を、その理念を求めようとした。それは凝り固まってテコでも動きそうにない現状への憤りであり挑発であり、破壊すら意図した問題提起のつもりだった。「世界哲学」という違和感だらけの醜い旗印は、それに冷たい目を向けて安住する私たちを揺さぶり変えるための言葉である。「哲学」という称号をめぐる権力争いなどでなく、今初めて哲学を実現するには私たち自身が変わるしかないという表白である。だが、「世界哲学」も社会で受け入れられると、当初の尖った異議申し立てや心穏やかでない異質感が薄れてしまう。それはもはや私が望んだ「世界哲学」ではない。

私は、西洋、もう少し限定してドイツやフランスやイギリスやアメリカに「哲学」が存在している、だからそれを学び真似るべきだ、などとは微塵も思っていない。また「日本に哲学がない」などと思ったこともかつて一度もない。どちらにも共に哲学を求めてきたし、これからも競って求めていくしかない。それはアゴーンである。世界哲学が誰もが参戦できるアリーナだとしたら、いばって横綱ぶっている奴を蹴たぐりでひっくり返せばよい。だが、勝ちを求めているわけでもない。この取り組みは不死なる神への奉納なのだから、有限な人間には、今この時の一つの勝ちには何ほどの勝ちもない。しかし、ここには命をかけれ競う場がある。「哲学」という理念はその土俵であり、誰もが参戦でじる、生きる権利であり自由である。」d

(「何度でも再び挑む」より)

「私が今哲学を始めるには、どうすればよいのか。考えるべき問題はおそらくあまりに多くあまりに複雑で、どこから手をつけて良いかさえわからない。人生のこの限られた時間で何ができるか見通せないばかりでなく、何かをやっているつもりで、それはまったく思い込みに過ぎないという陥穽さえ存在する。私たちは慎重にかつ大胆に、どこから始めなければならないかを考えるべきである。未来への哲学を。私たちは今きちんと準備し、挑まなければならない。

みっともなくしくじるとしても、私は恥をかいて、立ち上がって再び挑む。「恥ずかしくないのか」というソクラテスの声を聞くのも悪くない。いや、聞きたい。失うものは最初から何もないわけだし、哲学はまったく挑みがいのある麗しい人間の営みである。私が生きているこの今、まだ何も実現しておらず存在さえしていない以上、戦うしかない。「世界哲学」がこの現状を揺さぶりきれないとしたら、別の何かを掲げて挑戦する。だが、諦めるのはまだ早い。世界哲学という声に応答してくださり、そこで一緒に考えようと言ってくださっている仲間がいるのだから。これを語るのは私の責務である。今、一緒に哲学を始めましょう。」

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