金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』/平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』/ベルクソン『時間と自由』『思考と動き』
☆mediopos3446 2024.4.24
わたしたちは「本当は自由」なのに
時間を空間化してしまうことで
「純粋持続」としての時間を生きられなくなっている
時間が空間化されると
時間は計測される「もの」となり
わたしたちは「自分に対して外在的に生き」
「ほとんど行動させられている」ようになる
しかも過去からくる記憶に縛られ
「いまこの瞬間を見ているようで、
実はいまままで何度も見てきたもののようにそれを見、
いままで何度も聴いてきたもののように、
それを聴いている」
そうなるとわたしたちは
「過去の奴隷」になってしまう
しかしほんらいの時間とは
「空間化された時間ではなく」
「瞬間瞬間に産出能力を備えたもの」である
そこに「自由」はある
(金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』)
「ベルクソンの考える自由行為とは、
人格を書き換える変容的な経験」であり
この変容は、「外から定義でき」ず
「予見不可能」な「新しさ」が
「創造性」となってあらわれてくる
「時間こそが創造と選択の担い手」であり
「時間が実在しているということは、
事物のうちに未決定な何かが存在することの証明であり、
時間とはこの未決定性そのもの」ではないかと
ベルクソンは示唆している
「この意味で、世界は時間でできている」といえるのである
(平井靖史『世界は時間でできている』)
自由は定義できないにもかかわらず
「自由を定義しようとすれば、
どんな定義も決定論を正しいとすることになってしまう」
「自由行為は流れた時間のなかではなく、
流れる時間のなかでおこなわれるものである」
しかし「持続」を「拡がり」において見いだそうとしたり
「継起」を「同時性」で解釈しようとしたり
「自由の観念」を「翻訳できない言語で表現」しようとすると
「純粋持続」としての時間は失われてしまうことになる
(ベルクソン『時間と自由』)
わたしたちは時間の「持続の相の下で
思考し知覚することに習熟」することで
「実在的な持続の内部に奥深く入っていく」ことができる
そこには私たちがそこで「生き、動き、在る」
「生命の永遠性」がある
(ベルクソン『思考と動き』)
過去に縛られ
時間を空間化してしまうことで
わたしたちはじぶんが自由な存在であることを
忘却してしまうことになる
持続する時間は計測される水平な空間ではない
真の時間を生きるためには
いわば垂直な奥行きの時間へと入っていかなければならない
過去のそして抽象化された空間の奴隷にならないために
■金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(NHK出版 2003/9)
■平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(青土社 2022/7)
■ベルクソン(中村文郎訳)『時間と自由』(岩波文庫 2001/5)
■アンリ・ベルクソン(原章二訳)『思考と動き』(平凡社 2013/4)
**(金森修『ベルクソン』〜「第二章 押し寄せる過去と、自由の行方」より)
*「たとえば初めて自転車に乗るときにはおっかなびっくりで危なげであった人でも、 何度も乗っているうちに必ずそれに慣れ、自在に乗りこなせるようになる。ある行為が複数回反復されるよき、人はその行為に対する慣れをもつ。慣れたとき、人はその行為に最初の項ほどには注意を払わなくなる。どのように筋肉を緊張させるかなどを意識して行っていたことも、繰り返すうちになかば無意識的に行えるようになる。なにかをなすという意志的行為は、意識的になされるが、それが繰り返されると意識の程度は下がっていく。習慣的行為は「自然に」遂行される。つまり、習慣とは意志と自然の中間に位置するなにかである。しかもその自然は、いわば第二の自然、意志が自ら生み出した自然なのだ。」
「習慣は、人間が自ら背負い込む機械性だった。だがそれは、機械的対処ではカバーできない事件に対応するための生命の知恵だった。事件や偶発性への臨機応変な対応、それは確かに機械的なものではなく、その種の行動のなかに多くの生命的な性格が顕わになる、と考える人は多いに違いない。そこでは当然ながら、どれほど習慣的反応ががっちりできあがっている人でも、必要があればその人は、自分の習慣を離れて習慣的とはいえない予想不可能な行為を行うことができる、という意味が前提になっている。つまり、習慣が生命的な意味をもつのは、その生物がなんらかの意味での自由をもつということが前提になっていなければならないのだ。」
*「僕ら人間は、しょせんは自分の過去の奴隷にすぎないのだろうか。
『時間と自由』第三章は、決定論の問題、またはその反対に自由の問題を主に扱っている。そこでのベルクソンの分析を読んでみると、この問いかけに対する彼の答え方は、ある種の二面性を帯びているということが分かる。だが、その二面性というか、歯切れの悪さというか、それは、彼の純粋持続論が持っていた性格をそのまま映し出したものだといえる。
つまり、こういうことだ。
純粋持続という、僕らの内面奥底に潜んでいる非空間的な時間は、ふだんは日常生活の必要性に駆られて〈空間的なかさぶた〉に覆われ、ほとんど見えなくなっている。その意味では、日常の大部分において、純粋持続は冬眠しているような状態なのだ。だが、だからといって、純粋持続がないわけではない。純粋持続は確実に存在し、しかも注意すれば。それはところどころに顔を出しているということがわかる。
実は、これと同じ論理構造が、自由の場合にも存在している。その説明をまずは『時間と持続』に即して行うと、こうなる。
僕らは、本当は自由なのだ。だが、僕らはふだん、社会生活のなかで他人と交わり、空間化された時間を処理しながら純粋持続を軽視している。僕らは、いわば自分に対して外在的に生きている。行動する、というよりは、ほとんど行動させられているとさえいえる。だが、そんな日常生活の喧噪のなかでも、ある種の精神集中を行い、自分の心の奥底の声を聞き取る労を厭わないなら、そこからは必ず純粋持続のつぶやきが聞こえてくる。ふだんは死んだようになっている純粋持続が、比較的明瞭に奔出する瞬間、それこそが、僕らは本当の意味で自由な時なのだ。
内容はほとんど同じことなのだが、これを今度は『物質と記憶』と『創造的進化』的な説明に即して論じてみると、次のようになる。
確かに、僕らの近くはその背後からどんどん湧き出してくる記憶の圧力に押され続けている。僕らは、いまこの瞬間を見ているようで、実はいまままで何度も見てきたもののようにそれを見、いままで何度も聴いてきたもののように、それを聴いている。その意味で、僕らは事実上、自分の過去の奴隷のようなものだ。しかし、それは絶対にそうでなければならない、というわけではない。なぜなら、空間化された時間ではなく、本当の時間とは、瞬間瞬間に産出能力を備えたものだからだ。
なにか本当に新しいものが生まれるという可能性が、まったく排除されているような時間の流れはない。ちょうど、生物進化をひっぱっていく生命の力が、〈生命の弾み〉(èlan de vie)であったように。弾みは、榴散弾のように、ほぼ計算不可能な弾道を描く。予想できないということ、どうなるかわからないということ、それは生命も成り行きであり、同時に自由の発言そのものでもある。
まとめよう。
僕らは、めったに自由な状態にいることはない。にもかからず、僕らは本当は、存在の奥底から完全に自由なのだ。僕らは自分の過去の奴隷などではない。」
**(平井靖史『世界は時間でできている』〜「第7章 時間と自由」より)
*「決定論・非決定論が共通して採用している分岐モデルのまずい点は、まとめると次のようになる。出来合いの判断基準から答えを割り出すのではなく、判断基準そのものの抜本的な再検討を要求されるようなケースが、人生にはある。見直されるのが幸福・愛・生といった私の人となりを特徴づけるグローバルな価値であるため、そこにはどうしても当人の過去全体が関与してくる。人格とは、過去の経験(その現象面を含む)が一定の仕方で編成された多様体に他ならないからである。その意味で、ベルクソンの考える自由行為とは、人格を書き換える変容的な経験である。この変容は、その時点での過去全体の参照を要求するため事前に定義できず、現象質の力学を要求するため外から定義できない。以上から、「予見不可能」な「新しさ」が帰結する。ベルクソンが「創造性」と呼んでいるのはこれのことである。
「時間の空間化」という批判がどういう趣旨のものであるかが、こうしてようやく具体的に理解されるだろう。それは単に「図を使っているから」という話ではない(図ならベルクソンも使っている)。また、あらゆる時間表象について向けられる批判でもない。それが批判されるのは、対象を特徴づけている固有な条件————問題の変容が時間的内部を要求する変容であり、そこで起こる相互作用はその現場である未完了相現在から持ち出せないという事実————に無頓着で、当該の問題の理解を致命的な仕方でミスリードするためである。
時間によって心が作られるというテーゼが絡んでくるのはここである。私という人格は、絶えず更新されていく現在のシステムに汲み尽くされるものではない。運動記憶が作る水路網はもちろん不可欠だが、いわば器でしかなく、そこを流れ満たす水、つまり現象的な質を「生み出す」ものではない。人格質の具体的な織りなされ方を決めるのは、習慣という水路である。ただしこの水路は形成途上だけ水を要し、完成と同時に干上がってしまう特殊な水路だ。その意味で出来上がったフロンティアを開拓できるのは水だけなのである。」
*「ベルクソンは、伝統的な心身問題と自由の問題のどちらに対しても、対立する二項間を段階的移行によって架橋するという戦略をとっている。曰く、自由には程度があり、世界は物理的必然から始まるが、逸れていくレールの要領で、なだらかに自由へと移行する。また曰く、量と質、物質と精神は持続のリズムの程度によってつながっており、量的な物質のあり方と質的な心のあり方は、同じくなだらかなカーブを描いて接続している————。」
*「彼の着眼のオリジナリティは、通常ただの尺度と見なされがちな時間を、運動の相互作用に立ち返って捉え直し、システムに内在的な時間スケールにおいて捉えた点にある(持続の田元論)。そして、システムの時間構造そのものを徐々に変形させることで自然が意識や自由を達成したというアイデアを、具体事象に即して練り上げていった点にある。その全ては遅延から始まる。
時間は何をなし得るだろうか。素朴な良識はこう答えた。時間は。すべてが一挙に与えられるのを妨げるものだ、と。時間は遅延させる————いやむしろ時間とは遅延のことだ。それゆえ時間は、練り上げの仕事(èlaboration)でなければならない。とすれば、時間こそが創造と選択の担い手ではないか。時間が実在しているということは、事物のうちに未決定な何かが存在することの証明であり、時間とはこの未決定性そのものではないだろうか。(『思考と動き』)
この意味で、世界は時間でできている。
はるか宇宙のどこかで、いくつかの相互作用の束にわずかな遅延が生じ、凝縮が引き起こされた。そこから先は、二種類の記憶、すなわち〈拡張〉と〈水路づけ〉という二つの時間的変形がお互いを追いかけあうようにして、段階的な発生を紡いでいったのだろう。反復される運動は水路を引き、凝縮は新たな質次元を開発し、可変粒度のイメージを制御する知性が出現し、一回性を愛し了解する意識が眼を開く。各階層における創発はどれ一つとして以前の反復ではなく、いつも新しい。自由は、その成果にして精華なのである。」
**(ベルクソン『時間と自由』〜「第3章 意識の諸状態の有機的一体化について————自由/自由の問題の起原」より)
*「自由と呼ばれているのは、具体的自我とそれがおこなう行為との関係である。この関係は、まさに私たちが自由であるが故に、定義できない。実際、ひとが分析しているのは、物であって、進行ではない。また、ひとが解体しているのは、拡がりであって、持続ではない。あるいは、それでも分析に固執しようとすれば、知らぬ間に進行を物に、持続を拡がりに変えてしまうだけである。具体的時間を分解しようとするただそれだけで、ひとはその諸瞬間を等質的な空間のうちに繰り広げてしまう。おこなわれつつある事実がすでにおこなわれた事実に取り替えられてしまう。そして、自我の活動性を言わば凝固させることから始めたものだから、自発性が惰性に、自由が必然性に変化していくのを目の当たりに見ることになる。————このため、自由を定義しようとすれば、どんな定義も決定論を正しいとすることになってしまうであろう。」
*「自由に関しては、その解明を要求するすべての問題は、それを気づかれることのないまま、「時間は空間によって十全に表されうるか」という問題に帰着する。————これに対して、私たちはこう答えよう。流れた時間が問題なのであれば、然り、である。流れつつある時間が話題になっているのであれば、否、である。ところで、自由行為は流れた時間のなかではなく、流れる時間のなかでおこなわれるものである。したがって、自由とは一つの事実であり、確認される諸事実のなかでも、これほど明瞭なものはない。この問題のもつすべての困難さは、また問題そのものも、持続に、拡がりの場合と同じ属性を見いだそうとしたり、継起を同時性によって解釈したり、自由の観念を明らかにそれを翻訳できない言語で表現しようとすることから生まれてくるのである。」
**(ベルクソン『思考と動き』〜「Ⅴ 変化の知覚 第二講演」より)
*「実際、私たちがすべてのものを持続の相の下で思考し知覚することに習熟すればするほど、私たちは実在的な持続の内部に奥深く入っていくのです。そしてそこに奥深く入っていけばいくほど、私たちは始原の方向へ復帰するのです。それは超越的な始原ですが、しかし私たちはみなその始原を分有しており、その始原の永遠性は動かない永遠性ではなく、生命の永遠性であるにちがいありません。さもなければどうして、私たちはそのなかで生き、動くことができるのでしょうか。私たちはそこに生き、動き、在るのです。」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?