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ミヒャエル・エンデ/ヨーゼフ・ボイス『芸術と政治をめぐる対話』

☆mediopos2609  2022.1.7

ほんとうに久しぶりに
エンデとボイスの対談を読み返す

この対談は
一九八五年二月八日から十日にかけて行われ
一九九二年十一月に邦訳刊行された

エンデとボイスの背景には
ルドルフ・シュタイナーの
とくにこの対談においては
「社会有機体三分節化」という考えがある

エンデは芸術と精神にフォーカスし
ボイスはそれを
「社会彫刻」のほうにフォーカスしようとする
その食い違いは一貫してあるが
互いを批判・否定することはなく
それぞれの芸術家・作家としての
視点を確認しあっていて興味深い

ちなみにこの対談から一年も経たないうちに
ボイスが亡くなってしまったのもあり
ドイツで公刊されたのは一九八九年のことだ

邦訳を最初に読んでから
こうして三十年近くたって読み返すと
当時は見えてこなかったところも
少しながら理解できるようになっているようだ
当時はボイスのことをよく知らずにいたこともある

さて両者とも芸術を
啓蒙(お説教)の手段にすることに対しては
きわめて批判的だ

啓蒙(お説教)に使われる芸術は
現代でもたくさんあるし
作品の目的や作者の意図なるものをつくって
啓蒙(お説教)に使う教師や批評家もいるが
そういう態度はとりあえず論外としておきたい

重要なのは「世界の変革」にほかならない
その「変革」は社会運動でも教育・啓蒙でもなく
世界の知覚・認識
さらにいえば存在的な変革・変容である

エンデとボイスに考え方のちがいがあるのは
その働き方にある

ボイスは芸術の「作用」を
いわば目に見えるもの等の直接的なものとみなすが
エンデはそれが存在するということだけで
「世界は別のものに」なり
「ちがった世界」を出現させるという

極論をいえば
ボイスにとって芸術は
いわば社会へ仕掛ける爆薬のような作用を伴うものだが
(それが「社会彫刻」ということでもあるが)
エンデは芸術そのものの存在が
見えないところかもしれないが
(木を植えて森をつくるという比喩もある)
確実に精神に影響を与えていくととらえている

個人的にいえばエンデの視点に親近感を覚えるが
たしかにボイスのような視点も欠くことはできない
キリストの十字架上の事件が
社会彫刻ならぬ世界彫刻として働いたところがあるように

しかしたとえだれにも知られないとしても
「新しい知覚」「新しい意識」において
芸術的な営為ないし意識がもたらされたとき
人類はその一点から波紋が静かに広がるように
変容する可能性を得るのではないかと思っている

■ミヒャエル・エンデ/ヨーゼフ・ボイス(丘沢静也訳)
 『芸術と政治をめぐる対話』
 (岩波書店 1992/11)

「エンデ/自分自身を変革しないで、社会を変革するという企ては、もちろん、ちょっとあやふやですね。
ボイス/けれどもさ、もちろんそれは、そういうつもりでもあるわけだよ。
エンデ/どんなことでも、意図をもちすぎてやるべきではないと思いますね。ものごとには、その価値が、まさに意図のないところにある、というケースもあるわけですから。なぜなら価値が、そのものごと自身のなかにあるからです。人生には、それ自体に価値があるものがたくさんあります。経験というものは、なにか他のことに役立つから重要なのではなくて、たんに存在しているだけで、重要なんです。

ボイス/「それ自体に価値があるから」ってのは、とても適切で、いい表現だ。

エンデ/たとえば、芸術の価値というのも、私にとってはそういうことなんです。なにか他のものに役に立つからすばらしい、というんじゃなくて、ここにあるから、この世にあるから、手もとにあるから、すばらしいのです。なぜかっていうと、それが存在するだけで、すでに世界は変わっているからです。木を植えことができるように、詩を書くこともできる、と言えるでしょう。こんにちではすでに、環境破壊のことばかりが注目されています。しかし、ほとんど無視されている現象があります。心の荒廃です。環境の荒廃とおなじように切迫していて、おなじように危険なものです。そしてこの心の荒廃に対抗するのに、心のなかに木を植える試みが考えられる。たとえば、いい詩を書こうとする。心に植える木というわけですね。木を植えるのは、リンゴがほしいからというだけではない。ただ美しいからという理由だけで植えることもある。なにかの役に立つから、というだけでなく、存在しているということが大切なんです。そうやって多くの作家が、いや多くはないが、何人かの作家や芸術家は、ここに存在して人類共通の財産になりうるなにかを、つくろうとしているわけです。----存在していることがいい、というだけの理由で。このことは、永遠に重要なことだと思えるのですが……。あのですね。私はブレヒトでひどく苦労したんです。何年間かは。新米のころ私は、なんといっても彼の議論の網にかかっていたんですから。最初は、すっかり彼の理論にひっかかって、すべてを真に受けて、実際、ブレヒト自身もそうなんだ、なんて思っていたんです。ずいぶん長いあいだ、しっかり考えてから、ようやく私も、彼自身ほとんど自分の理論を信じていなかった、と気づいたのです。そもそも自分を正当化するために、ああいうものを書いたにすぎなかった。しかしブレヒト流のアジテーションのコンセプトによって、文学論争のあらゆる場面にもちこまれたものがある。宣教師の立場です。いっぱい災いをもたらしましたよね。その立場によれば、結局のところ、どんな演劇も、どんな文学も、読者や観客に教義を吹き込むだけのものなんです。もうちょっと穏やかにいえば、社会や政治について啓蒙するだけのものなんです。つまり、いつも作家は、啓蒙する側で、観客や読者は、啓蒙される側。作者はすこし愚かだったり、モノ知らなかったりするので、観客や読者は、もの考えるようになる必要があるというわけです。(…)

ボイス/いや、じつに結構だ。だが、誤解のないように言っておきたいのだが、もちろんぼくだって、人びとに教えようなんて気は、これっぽちもないんだよ。教えるべきものなんて、なにもないんだから。理解されなければ、教えることだってできない。だが、なにかが触発される。なにかが起きる。何かが挑発される。挑発というのは、よく知られているように、なにかを呼び出すってことだ。いろんなプロセスを動かす。しかも、ぼくにとっていちばん大切なこと、つまり社会芸術にたいして効果のあるプロセスを、だ。だが、ぼくの芸術は、教えることには程遠いはずだがね。

エンデ/要するに芸術は、そういうのにもっとも向いていないんですよ。

ボイス/うん、だが、もちろん、お説教じみた芸術もある。それを見落としちゃいけない。ずいぶんあるいんだから。

エンデ/そういう啓蒙主義的コンセプトは、四七年グループが強力な代表ですが、私は、ものを書くようになってからずっと、そういうコンセプトを批判してきました。四七年グループは、「作家は国民の良心である」なんていう命題をかかげていた。私なら、こう質問させてもらいたいものです。「いったいどんな権利があって、厚かましくもあなたたちは、国民の良心だなんて言うのですか? あなたたちだけが、誠実さを請け負ったのですか?」と。もちろん良心は、やましさを感じるときにのみ、機能をはたすわけです。とすると、そもそも作家はたえず読者に、ひどいことや汚いことを指摘しつづけなければならない。こういうわけにはいかない、なんてことを示す必要がある。けれども文学の使命は、それに尽きるわけではない。そういう作家が一世代を埋めつくしたわけですが、彼らはいま、みんな、じっとすわりこんで、どうしたらいいか、わからない。ヒルデスハイマーは、「もう本を書かない」と言ったし、グラスは、ひどい憂鬱におちいっているし、ベルもそうです。もう彼らはみんな、どうやって進めばいいのか、わからない。ああいうふうに文句を言いつづけるのに、そろそろ退屈になってきた。

ボイス/ああ、ぞっとするね。ああいう悲嘆には、へどが出る。」

「ボイス/ヴァン・ゴッホは、絵を描くために、絵を描いたわけではけっしてない。ヴァン・ゴッホは。、それ以上のことを望んでいた。ほんとうになにかを引き起こすつもりだった。なにかを変革するつもりだった。あの時代の状況において。

エンデ/実際になにかを変革したんですよ。つまりですね、彼の絵がこの世に存在することによって、世界は別のものになった。ヴァン・ゴッホの絵が存在しなかった世界とは、ちがった世界が出現したわけです。

ボイス/そう、それはそうだ。にもかかわらず。またもは別の地点に戻されるわけだ。つまりさ、そういう絵が存在したにもかかわらず、世界大戦があった。ぼくの考えでは、それは芸術の欠乏なんだ。だからもしも芸術が、そういうものを世界から抜き出すという使命を放棄して、形式の原理として社会というからだに手をつけないなら、精神的なオナニーなんだ。むだなことさ。だからぼくは、モダンの偉大な人たちの仕事を、偉大な意志とみなしているんだ。そういうことを実現する未来に対して、シグナルを送ったのだ。ヴァン・ゴッホが以前にやってことは、結局のところ、社会の原理をどうしても獲得しようとする努力だったわけだから。彼の絵を見るだけでいい。それから伝道師としての活動を。大いに関係があるんだよ。彼は。自分の書いたものの効果、それから自分の描いたものの効果のすべてを、効果といったものの世界において、変革の原理と考えていた。

(…)

エンデ/私たちの議論のちがいは、ただ、そういう絵の存在によってもたらされる変革の作用を、ちがったふうに評価している、ということだけなんですよね。私は、そういう絵とか、詩とか、音楽とかが存在しているだけで、もうすっかり世界が本質的に変革された、とみなすわけです。それらの作品が、いわば間接的に、まず変革をうながすというのではなく、ともかくそれが存在しているだけで、私に言わせれば、ちがった世界なわけです。それによって世界がちがったものになる。シェイクスピアより以前の世界は、シェイクスピアの戯曲が存在している世界とは、ちがう。(…)どこかでなにか作品がうまくできれば。音楽でも、絵でも、いや、小さな詩でもいいのですが、いい作品が生まれれば、その作品が存在するというだけで、世界は変革されるのです。というわけでこのことは、私にとって、とてつもなく重要なことなのです。たんに美的な意味においてだけではなく、それによって人類の精神の状況が別のものになる、という理由においても。これはきわめて重要なことだと、考えています。私にとっては、とてつもなく重要なことなんです。木を植えて森をつくるのとおなじくらいに。

ボイス/それに価値があることは認めるよ。でも、まさにそういう価値には、作用ということがない。

エンデ/いや、最終的には、社会的な意味もあるんです。私は、社会的な意味においても、そう言っているんですよ。ヴァン・ゴッホのおかげで可能になった、新しい知覚は、新しい意識を導き、そして、その新しい意識が、新しい社会のかたちや、生活のかたちを生みだすんです。」

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