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テッド・チャン/アニル・セス/スーザン・ステップニー 「SF作家テッド・チャンと神経科学者アニル・セスの対話:4 私たちは同じ現実を見ているか?/テッド・チャン『あなたの人生の物語』/ウンベルト・エーコ『完全言語の探求』

☆mediopos3741(2025.2.15.)

SF作家テッド・チャンと神経科学者アニル・セスの対話から
第4回「私たちは同じ現実を見ているか?」(全4回)

(第1回〜第3回は以下の通り
 mediopos3690(2024.12.26.)
 mediopos3694(2024.12.30.)
 mediopos3734(2025.2.8.))

第1回は
意識を理解することが難しいのは
意識は偶然に生じるようなものではなく
非物質的なものあるいはプロセスとして感じられるからであり
意識と脳の関係を語るには
ソフトウェアとハードウェアあるいは魂と肉体
といった概念を使わざるをえないこと

第2回は
意識が生じるためには生きた身体的なものが必要で
そのためには少なくとも身体的なものが前提となること

第3回は
本当に意識があるかどうかはどうやったらわかるのか
ソフトウェアに意識があるとしたときはどうなのかということ

以上の対話内容だったが

今回は「世界は単一ではなく、人によって別々の仕方で経験され、
ゆるやかに重なっているものではないだろうか」ということ

まず司会のスーザン・ステップニーから
「私たちの意識経験はそれぞれ異なっているという事実から、
どのようなことが言える」のかについて
科学の視点からアニル・セスに
SFの視点からテッド・チャンに問いかけている

アニル・セスは
「人間の経験は外から入ってくるように
思われるかもしれないが、その大部分は内側から来るもの」で
「私たちの脳はそれぞれ違っているので、
経験もまた異なることになる」

「言葉」は「ヒトの認知が生み出した素晴らしい発明品」だが
「お互いの間に存在するかもしれない
知覚の違いに鈍感になるという代償」もあり
「コミュニケーションを可能にするために、
こうした違いをぼかしてしまう」

そのことからいえるのは
「人類の連帯をめざすなら、まずは何であれ
存在する違いを認識することから始める」必要があるという

そのことを示唆しているのが
テッド・チャンの「あなたの人生の物語」で
「私たちがいまだに、自分自身の考え方や経験のあり方を
当たり前だと思い込んでいるかもしれないこと、
それは間違いなのかもしれないということを
巧みに解き明かした作品」である

テッド・チャンは
「思考を完璧な正確さで表現していてあいまいさがなく、
言ってみれば、単語とその単語が指し示す概念が
直接結びついているような言語」についての
ウンベルト・エーコの『完全言語の探求』の話から

その「完全言語という考え」は
「言語というものの純粋な理想形、つまり、
思考や現実のありさまをくまなく写し取る
客観的な方法という観念」は魅力的ではあるものの
「現実に存在するわけではな」い

それでもそうした衝動は根強くあり
「そんなものは存在せず、あらゆる物事が程度の差はあれ
主観的で個人的なものであるという事実」を
直視していなかったりもするという

アニルはそれを受け
「経験とは本質的に多様で個別のもの」で
「お互いの経験がそっくり重なる可能性がない以上、
なんであれ完全言語というものはありえない」と言い

テッドは
「言語の守備範囲は人間の経験全体」であり
「数や図形など、数学の概念であれば
私たちに何らかの形で生まれつき備わっている
と言うこともできるかもしれ」ないものの
「あくまで言語を使って話すことの
ほんの一部にすぎ」ないという

最後に
アニルは
「想像力を鍛えるのに、
フィクションほど良い方法」はないといい
テッドは
「SF作家と科学者が、より活発に
対話できるようになる未来を願」うとして
対話は終わっている

さてSFも科学も
かつては想像的/創造的な未来をイメージするための
格好の手本となっていたが
現在はその位置づけがずいぶん変わってきているようだ
明るい未来のイメージを
単純に描くわけにはいかなくなってきている

そんななかでこそ
両者の対話が求められるのだろう

そこではSFでしか可能ではない想像力が不可欠となり
それを現実のものとして生かすことのできるためには
科学の力がなくてはならない

「Imagination dead Imagine(想像力 死んだ 想像せよ)」
というベケットの有名な言葉があるが
事実認識として想像力が死んだところからこそ
新たな意志として「想像せよ」が必要となる

いま世界は変わろうとしている

アニル・セスの示唆しているように
「人類の連帯をめざすなら、まずは何であれ
存在する違いを認識することから始める」必要があるのだが

世界を過去に縛られた経験からとらえるか
変化とともにあらたな経験とともに生きるか
ふたつのいわば「世界線」が分化し
異なった現実を見るようになってきている

「私たちは同じ現実を見ているか?」
という問いが示しているように
果たして「人類の連帯」は可能になるだろうか
「想像力」はそのためにどこまで働くことができるだろうか

■テッド・チャン/アニル・セス/スーザン・ステップニー
 「SF作家テッド・チャンと神経科学者アニル・セスの対話:
  GHOST IN THE MACHINE #4 私たちは同じ現実を見ているか?
 (F3-6-4 distance.media「ALIFE 生命とAIのあいだ」14 Feb. 2025)
 (2023.7.28 北海道大学 クラーク会館にて)
■テッド・チャン(公手成幸・浅倉久志訳)『あなたの人生の物語』
 (ハヤカワ文庫SF 2003/9)
■ウンベルト・エーコ(上村忠男・廣石正和訳)『完全言語の探求』
  (平凡社ライブラリー 2011/12)

**(SF作家テッド・チャンと神経科学者アニル・セスの対話)

「SF作家テッド・チャンと、神経科学者のアニル・セスの対談(司会は計算機科学者のスーザン・ステップニー)の最終回。
 世界は単一ではなく、人によって別々の仕方で経験され、ゆるやかに重なっているものではないだろうか。SNSがうみだす知覚のエコーチェンバーのなかで、私たちはいかにして他者との差異に気づき、連帯できるのだろうか。そのときSFが果たせる役割はなにか?
――2023年夏に札幌で開催された人工生命学会における「生命と意識をめぐる対話」。(全4回)」

〈Contents〉

「『なぜ私は私であるのか』で掘り下げたのは、
 「制御された幻覚」としての知覚という考え方です――アニル・セス」

「「完全言語」という考えは、抗いがたい魅力を保っていると思います。
 私自身も惹かれるところがあります——テッド・チャン」

「SF作家と科学者が、より活発に対話できるようになる
 未来を願っています——テッド・チャン」

**********

*『なぜ私は私であるのか』で掘り下げたのは、
 「制御された幻覚」としての知覚という考え方です――アニル・セス

「スーザン・ステップニー/
 ここからは、意識経験についてお話しいただければと思います。私たちは、概念が世界の見方や経験の仕方を形作ると考えています。そうすると、世界は人によって別々の仕方で経験されることになります。数字を見ると色が見える共感覚の人もいます。知覚の仕組みが違うということもありますし、ニューロダイバーシティ(★01)などもあります。しかし、一部の人が違っているということではありません。誰一人として同じではないのです。私たちの意識経験はそれぞれ異なっているという事実から、どのようなことが言えるでしょうか。科学はこのことについて何を明らかにし、SFはどのような役割を担えるでしょうか。

(★01「ニューロダイバーシティ(Neurodiversity、神経多様性)とは、Neuro(脳・神経)とDiversity(多様性)という2つの言葉が組み合わされて生まれた、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方であり、特に、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害といった発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく、『人間のゲノムの自然で正常な変異』として捉える概念でもある。 参考:(経済産業省「ニューロダイバーシティの推進について」)

 アニル・セス/
 私の考えでは、脳は予測装置ですから、意識経験の個人差もそこからの帰結ということになります。脳は感覚信号の原因について絶えず予測を立て、感覚データに基づいてこうした予測を更新しているわけで、私たちの経験は外部に存在する対象を写し取ったものではなく、予測それ自体の内容だということになります。

 ご紹介いただいた『なぜ私は私であるのか』で掘り下げたのは、「制御された幻覚」としての知覚という考え方で、この用語はもちろん私の発案ではなく、連綿と伝わってきているのを借りたものです。そこには長い歴史があるわけです。私見では、この発想の眼目は、人間の経験は外から入ってくるように思われるかもしれないが、その大部分は内側から来るものだという点にあります。

 世界は、私たちの目と耳を通して、心の中にありのままの姿で流れ込んでくるように感じられるかもしれません。しかし事実はその逆かもしれませんし、実際、そう考えられる証拠も少なくないと思います。

 するとどうでしょう、私たちの脳はそれぞれ違っているので、経験もまた異なることになるのです。ですが、私たちがこの多様性にまったく気づかないということもありえます。違いがそれほど大きなものでなければ、行動や言葉遣いに現れることはなさそうですから。

 そして、実はこれは、今日お話ししてみたかったことなのですが、「言葉」というのは、ヒトの認知が生み出した素晴らしい発明品なのです。しかし言葉には、お互いの間に存在するかもしれない知覚の違いに鈍感になるという代償もありそうです。言葉の働きとはそういうものですからね。言葉はコミュニケーションを可能にするために、こうした違いをぼかしてしまうのです。

 だからまずは、こうした違いを認識し、浮き彫りにすることで、日常的に世界と向き合う際に、別の見方ができるようになるのではないかと思います。現状では、あたかも誰もが共有するこの実在世界に住んでいるかのように感じられるからです。どうも私たちはそれが事実だと考えがちですが、これは経験対象の実在性を信じるやっかいな傾向があるためです。そのせいで、私が経験したことが、私の心とは無関係に存在しているように思えるのです。そして、そう思っているのであれば、他の人々も同じ経験をしていると考えるのは自然なことです。しかし、これが事実ではないとしたら……私は実際そうなのだと思いますが、私たちの住む世界は大きく重なり合いながらも別々なのだということを真に理解する道が開けるでしょう。

 動物が相手の場合には、この違いへの理解が深まってきています。たとえば、それぞれの種ごとの感覚世界を表す、環世界(Umwelt)という概念があります。しかし、個人の間に存在する違いについては十分な注意が払われてこなかったと思います。そして、このような違いに目が向けられるとしても、たとえばニューロダイバーシティや共感覚のような、違いがかなり大きなところが焦点となりがちです。これらは興味深い事象ではありますが、そこにばかり注目すると、ニューロダイバーシティに当てはまらない人は――つまり、標準的な神経構成になっているということですが――物事をありのままに見ることができるという間違った考えを強化することへと繋がってしまいます。このような思い込みを切り崩すことは有益だと思います。自分自身が物事を経験するしかたについて、多少は相対化することができるのです。

 それだけでなく、楽観的すぎると思われてしまうかもしれませんが、自身の信念に対しても、少しは反省が必要なのだと思えるようになるかもしれません。私たちは気づけば「知覚のエコーチェンバー」に嵌まっています。人類の連帯をめざすなら、まずは何であれ存在する違いを認識することから始めるべきでしょう。

 いまお話ししたことの背景には、映画『メッセージ』の原作、「あなたの人生の物語」(★02)があります。人間とヘプタポッド(★03)の間には、実に大きな違いが存在しますね。ただし、この作品が提起しているのは、経験が別の要因で異なってくる可能性、経験に影響を与える別の要因、つまり言葉やサピア=ウォーフの仮説という論点です。映画をご覧になった何百万人もの人たちと同じように、私もまた『メッセージ』は、このような考え方の重要性、そして私たちがいまだに、自分自身の考え方や経験のあり方を当たり前だと思い込んでいるかもしれないこと、それは間違いなのかもしれないということを巧みに解き明かした作品だと思いました。」

(★02「テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」(公手成幸訳、『あなたの人生の物語』早川書房[ハヤカワ文庫SF]所収)に登場する異星生命体。7本脚を持ち、放射相称の体をしている(ヘプタは「7」、ポッドは「殻」の意味)。発話言語〈ヘプタポッドA〉と書法体系〈ヘプタポッドB〉の二つの言語を使用する。ヘプタポッドAは地球人にも理解可能だが、ヘプタポッドBは2次元的な記述体系で、文全体を一つの記号として表す。そのため、書き手は書き始めた時点で文の結末を把握していなければならない。この特性は、彼らの時間認識が地球人のような因果論的なものではなく、未来と過去を同時に把握する目的論的なものであることを示唆する。作中では、この言語体系を学ぶことで、主人公のルイーズ・バンクス博士もヘプタポッド的な時間認識を獲得するようになる。」)

(★03「サピア=ウォーフの仮説(Sapir-Whorf Hypothesis) 言語が話者の認識や思考に影響を与えるとする、言語相対性仮説。アメリカの人類学者・言語学者エドワード・サピア(Edward Sapir, 1884 - 1939)とその弟子ベンジャミン・リー・ウォーフ (Benjamin Lee Whorf, 1897 - 1941)によって提唱された。「あなたの人生の物語」でバンクス博士がヘプタポッドBを習得することで時間認識が変化するのは、この仮説の極端な例を描いたものと言える。」)

*「完全言語」という考えは、抗いがたい魅力を保っていると思います。
 私自身も惹かれるところがあります——テッド・チャン

「テッド・チャン/
 奇遇というかなんというか、つい先日、ある人と話していて同じ話題になりました。ウンベルト・エーコ(★04)が『完全言語の探求』(★05)という本を書いています。この本は完全言語という考え方の変遷を扱っていて、どのようなものかというと、思考を完璧な正確さで表現していてあいまいさがなく、言ってみれば、単語とその単語が指し示す概念が直接結びついているような言語のことです。これは何世紀も前からある発想で、これまでさまざまな形で現れてきました。現代の言語学では、完全言語というものは存在せず、言葉とそれが指し示すもの結びつきは何らかの本質によって成立するのではなく、恣意的なものだという考えを大前提としています。

(★04「ウンベルト・エーコ(Umberto Eco, 1932–2016) イタリアの記号学者、哲学者、小説家。ボローニャ大学教授。幅広い学術的著作を残した一方、『薔薇の名前』(1980年)をはじめとする小説作品でも知られる。理論書の代表作は『開かれた作品』(1962年)、『記号論』(1976年)など。中世修道院を舞台にした小説『薔薇の名前』は世界的なベストセラーになり、映画化もされた。ほかにも『フーコーの振り子』(1988年)など知的遊戯性に富んだ小説を発表した。)

(★05「『完全言語の探求』(La ricerca della lingua perfetta nella cultura europea, 1993) ウンベルト・エーコの著書。邦訳は上村忠男・廣石正和訳、平凡社(平凡社ライブラリー)。原題は『ヨーロッパ文化における完全言語の探求』。中世ラテン・ローマ世界の言語的・政治的一体性が危機に陥り、ヨーロッパ各地で今日の国民語のもとになる俗語が台頭しはじめた時代、ヨーロッパ文化は『聖書』のバベルの塔の物語=「言語の混乱」についての省察を開始し、バベル以前に存在したとされる「アダムの言語」=「完全言語」の再建の可能性を模索しはじめる。現代のAIにまで影響を与えている「完全言語」の夢想に焦点を合わせて、それが「ヨーロッパ」の形成と発展の過程でもった意味を探り出すことをめざす、ひとつのヨーロッパ思想史。」)

 しかし、この完全言語という考えは、依然として抗いがたい魅力を保っていると思います。私自身も惹かれるところがありますし、興味を持つ人は他にも多いでしょう。実際、少し前に会った人は、大規模言語モデルについて、実はある種のベクトル空間、ようするに完全言語のようなものを理解する手がかりになり得るのではないかと考えていたようでした。その時は、数学的に妥当な思考空間ということで、完全言語という言葉こそ出ませんでしたが。

 でも、これは大間違いだと思います。大規模言語モデルがそのような完全言語を理解する手がかりだとは考えられませんが、ともあれ、言語というものの純粋な理想形、つまり、思考や現実のありさまをくまなく写し取る客観的な方法という観念に人々が引き寄せられていくという事実を示す興味深い例ではあります。ですが、それは夢物語でしかありません。現実に存在するわけではないのです。

 思うに、完全言語に惹かれてしまうのは、定型発達(neurotypical)の人たちが共有している経験の統一性とでもいうか、そういうものを求めていることの現れなのでしょう。ようするに、私たちがうまくやっていけるように構成された、ほぼ重なっている、単一の現実のことです。この衝動はどうやらとても根深いもので、そんなものは存在せず、あらゆる物事が程度の差はあれ主観的で個人的なものであるという事実を直視するのは困難なことなのです。

 アニル/
 私も同じ話を聞いたことがあります。完全言語は成立しないということですが、それは言語の構築方法に技術的な制約があるためでしょうか。それとも、はじめから見当違いの目標を立てていて、言語の各要素が描写するとされている事物が住まう理想の世界など存在しないからでしょうか。たぶん後者ではないかと思います。これは私の考えになりますが、経験とは本質的に多様で個別のものだからです。お互いの経験がそっくり重なる可能性がない以上、なんであれ完全言語というものはありえないことになります。

 テッド/
 そうですね。数や図形など、数学の概念であれば私たちに何らかの形で生まれつき備わっていると言うこともできるかもしれませんが、それはあくまで言語を使って話すことのほんの一部にすぎません。言語の守備範囲は人間の経験全体なのです。言葉によって言い表される対象をすべて包摂した、いわば一種の抽象空間が存在するという考えはここから出てきたものです。ようは、すべての概念が紛れなく整然と配置されているような例の空間が存在するという発想です。この考え方は破綻していると思いますし、仮に正しいところもあるにしても、世界に対する旧弊かつ狭量な見方がはっきり滲み出ているのではないでしょうか。」

*SF作家と科学者が、より活発に対話できるようになる
 未来を願っています——テッド・チャン

「スーザン/
 最後に一言ずつお願いできますでしょうか。

 アニル/
 では、最後ということで、文学・SF・科学の関係についてお話ししようと思います。ご多分に漏れず私も、子供のころからずっとSFを読んできました。冒頭でおっしゃっていただいたように、科学において十分に重要性が理解されていないことの一つに創造性があります。科学の研究を進めるためには、現実から離れて心のなかで物事をさまざまに思い描く能力が不可欠です。そして、想像力を鍛えるのに、フィクションほど良い方法はありません。テッドさんのような人たちがその方法を見事に示してくれたおかげで、私たちは物事の多様なあり方を考えられるようになりました。その能力はこれまでも、そしてこれからも、科学の進歩にとってなくてはならないものなのだと思います。

 テッド/
 これまで、研究の現場にいる科学者のみなさんとお話をする機会はあまりなかったので、この会議に出席できて、とても嬉しく思っています。SF作家の世界と科学者の世界は、重なり合うことが少ないと感じています。私たちは、この憂慮すべき状況を改善し、生産的な対話を重ねていけるはずではないでしょうか。つねづね言っていることですが、SFの醍醐味は哲学的な考えに物語性を与え、より身に迫った思考実験を提案できるところにあります。

 哲学者の提案する思考実験は、非常に抽象的なものになりがちです。そのため、専門家以外には「どうしてそんなことを考えなければならないのか」を理解するのが難しいことがあります。SFは人々が哲学的問題に関心を持つきっかけを与えることができます。抜き差しならない状況を設定することで、哲学的な問題に対する解答が自分と無関係ではないのだと読者に感じてもらえるのです。

 この点は、科学者のみなさんも興味がおありだと思います。ご自身の研究がなぜ重要なのか、なぜ専門外の人とも無関係ではないのかを説明する方法は、いつでも重要な検討事項です。SF作家と科学者が、より活発に対話できるようになる未来を願っています。」

◎テッド・チャン/アニル・セス/スーザン・ステップニー
 「SF作家テッド・チャンと神経科学者アニル・セスの対話:
  GHOST IN THE MACHINE #4 私たちは同じ現実を見ているか?
 (F3-6-4 distance.media「ALIFE 生命とAIのあいだ」14 Feb. 2025)
 (2023.7.28 北海道大学 クラーク会館にて)


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