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筒井功『縄文語への道 古代地名をたどって』

☆mediopos3589(2024.9.16)

筒井功『縄文語への道』は
縄文時代に日本列島で使われていた言葉を
地名から探り当てる試みである

いうまでもなく当時は文字はなかったものの
古代から伝わっていたと考えられる地名には
かつて使われていた言葉がのこされている

その視点から
著者が間違いなく縄文語だとしてとりあげているのは
「アオ(青)、アワ(淡)、クシ(串、櫛)、
ミ(数詞の三)、ミミ(耳)」の五語
そこから推測される言葉をふくめ
本書では数十の縄文単語が再現されている

そのなかからここでは
「ミミ(耳)」をとりあげる

愛媛県松山市と高知市を結ぶ
国道三三号線沿いに位置する
久万高原町上黒岩(美川村)には

仁淀川上流部の面河川に支流の久万川が合流する
「御三戸(みみど)」という地名があり
二つの川のぶつかる位置に「御三戸嶽」と呼ばれる
巨大な岩塊がそそり立っているのだが

その「御三戸(みみど)」という地名が
以前から気になっていたからだ

「御三戸(みみど)」には
「ミ」「ミミ」という音が含まれている

本書によれば
「御霊(みたま)、御心(みこころ)、
御仏(みほとけ)、御息所(みやすどころ)、御陵(みささぎ)」
などに付いた「御(み)」が「神聖な」を意味しているように

かつて聖数であった「三」である「ミ」は
「神聖」なるものを指していたというのである

そしてその「ミ」が重なった「ミミ」は
さらにその意味が強調されている

記紀の成立時期だけではなく
それが書かれたと思われる六・七世紀頃には
多くの神名や皇族・地方豪族の名に
「ミミ」という語が使われているが
おそらくそれはそれよりもずっと古い時代に
遡って使われていたと考えられる

さて「御三戸嶽」と呼ばれる巨大な岩塊だが
その大きさは
高さ三七メートル・最大幅一三七メートル
長さ二三七メートルの石灰岩
「軍艦岩」とも呼ばれている

近くには縄文時代草創期にあたる
一万二〇〇〇年ほどまえの石器や土器が出土していて
(上黒岩岩陰遺跡)
当時そこで生活していた人たちは
その「御三戸嶽」を信仰の対象としていたと考えられる

それゆえの「ミミ」であり
「ミミド」の「ド」は
「カマド(竈)やイド(井戸)のド」のように
「何かがあるところ」を表す言葉を意味している

かつて御三戸嶽の西側の対岸にあった
御三戸神社の社伝によると
(現在は久万川を二キロさかのぼった
場所へ遷座されている)
「御三戸嶽を磐座とし、それを黒岩神と呼んで
祀ったのが神社の始まりだという」

黒岩とミミドは同じ巨岩を指しているから
「社伝で黒岩の語が使われているのは、
いつのころからにミミの語義が忘れられたから」
ではないかともいう

長年その場所を通るたびごとに気になっていた
「御三戸嶽」および「御三戸」の地名だったが
そう名づけられた由来が垣間見えた気がする

ちなみにミミドの漢字の「三」は
上記の説明にあるように
面河川・久万川・仁淀川の三つの川であることから
表記されているらしい

また面河川は古名を「味川」と称していることから
その場所は「美川(村)」という地名をもっていたが
町村合併で二〇〇四年八月一日から
「久万高原町」となっている

■筒井功『縄文語への道 古代地名をたどって』(河出書房新社 2022/12)

**(「はじめに」より)

*「縄文語とは、縄文時代に日本列島で使われていた言葉のことである。縄文時代は、おおよろのところで一万五〇〇〇年ほど前から二八〇〇年ほど前までのあいだを指すと考えて大過あるまい。それは一万二〇〇〇余年の長きにわたっていた。

 そのころ文字は、もちろんなかった。だから当然、文字資料も存在しない。」

「しかし、縄文時代の文字資料はなくても、言語資料はいまもちゃんと残っている。大地に「きざまれ」て、用いつづけられてきた地名である。地名は過去のいずれかの時期に、そこで暮らしていた人びとがだいたいは無意識のうちに残した言葉の記録であり、その中に縄文時代に名づけられたことを実証できるものがあるとしたら、それは縄文語を少なくとも一つ発見できたことになる。」

*「本書で間違いなく縄文語だとして取上げる単語はアオ(青)、アワ(淡)、クシ(串、櫛)、ミ(数詞の三)、ミミ(耳)の五語にすぎないが、これらが縄文地名ではアオキ、アオシマなどの形をとっていることがあり、それゆえキ(現今の地名ではだいたい木、城の文字を当てている。何かの構造物で囲まれた境域を指す)、シマ(島)もまた、縄文以前に成立した言語だということになる。

 さらに、数詞ではミ(三)にかぎらず、少なくともトオ(一〇)までが縄文期までにできていたと、十分に合理的な推測を下すことが可能である。

 そのようにして結局、本書では合わせて数十の縄文単語を再現している。」

・3 「ミ」は「神聖」なるものを指し、「ミミ」はそれを重ねた語であった

*「御霊(みたま)、御心(みこころ)、御仏(みほとけ)、御息所(みやすどころ)、御陵(みささぎ)・・・・・・これらの言葉の語頭に付いたミ(御)は「神聖な」を意味している。のちにミは御足(みあし)、御杖(みつえ)、御馬(みま)などのように、どちらかといえば、尊称、美称に近い使われ方もされるが、元来はずっと重い感覚の語であった。

 いまでは宮(みや)も岬(みさき)も一語のように感じている方が多いのではないかと思うが、その原義が御屋(みや)、御岬(先)である。海に突き出した岬すなわち前述のクシが、なぜ神聖されたのであろうか。

 古代人は海を神の領域、浜を人間の側に属する生活圏と考えていた。海から突き出したミサキは、その中間の領域になる。人は死んだら、いったん境界にとどまり、やがてそこから神の世界へ去っていき、そののち彼ら自身も神になる、そのような信仰があったから、ミサキにかぎらず山と里との境、森と村の境なども祭祀の対象となっていたのである。」

*「ミ(御)は、実は数詞のミ(三)と同じ言葉であった(・・・)。」

「わが国に文字が伝承して、そろそろ文献が現れるころの聖数は八であった。だが、それよりはるか前の縄文時代や、あるいはもっと前の旧石器時代には、三が聖数だったと考えられる。同じ音のミ(御)が「神聖な」を意味するようになったのは、そのころであったろう。

 ミだけでも「神聖」を指すのだから、それが重なったミミとなれば、いっそうその意味が強くなる。」

**(「第七章 「耳」は、なぜ尊称とされていたか」より)

・1 『古事記に見える耳の付く神名・人名

*「多くの神名と皇族、地方豪族の名に、ミミの語が使われていることは、記紀が成立したころのみならず、両者が参考にした文献が書かれたと思われる六ー七世紀には、それが尊称だと考えられていたことを示している。そうして、それは実際には、はるかに古い時代にもさかののぼることが確実である、」

・2 ミミが聖なる場所を指す例

*「ミミ(漢字では、たいてい耳)の付く地名は、これまでに取り上げたアオ(青)やクシ(串、櫛など)の付く地名にくらべて格段に少ない。つまり、その地名がもつ特徴を指摘する場合、例数がそう多くなくても分母が小さいので、割合はけっこう高くなる傾向があるといえる。それを前提に、まずミミ地名が聖なる場所と結びつく例をあげてみたい。

 ・愛媛県上浮穴郡久万高原町上黒岩字御三戸

 御三戸は、面河川(仁淀川上流部の名)に支流の久万川が合流するあたりの地名である。

 その二つの川がぶつかる位置に御三戸嶽と呼ばれる、すこぶる特異な形状の巨大な岩塊がそそり立っている。対岸に建つ役場の説明板には、高さ三七メートル、最大幅一三七メートル、長さ二三七メートルの石灰岩で「軍艦岩」ともいわれるとある。その「船首」は、山中にしてはかなり大きな二つの川の上流に向き、あたかも波をかき分けて進む巨船の感を呈している。ただし、この岩は後ろの鞍部をはさんで背後の山に連なっており、島ではない。

 これだけのスケールの岩が、岩神信仰の対象にならなかったことなど、まず考えがたいといえる。実際、西側の対岸には、昭和三十年(一九五五)まで御三戸神社が建っていた。ところが同年、町村合併で旧美川村が誕生した折り、その中心域にあった社地が役場用地として提供され、久万川を二キロさかのぼった場所へ遷座されたのである。

 御三戸神社の社伝によると、御三戸嶽を磐座とし、それを黒岩神と呼んで祀ったのが神社の始まりだという。すなわち、巨岩そのものを神体とする信仰に発しており、社地は遙拝所にほかならなかった。

 黒岩神の名は、巨岩の色によっているのだろうが、この岩はもっと古くはミミドと呼ばれていたと思われる。ミミは聖地を意味し、ド’(清音だとト)は「何かがあるところ」を表す言葉である。カマド(竈)やイド(井戸)のドである。つまり、黒岩とミミドは同じ対象を差している。社伝で黒岩の語が使われているのは、いつのころからにミミの語義が忘れられたからであろう。

 現社地の二〇〇メートルくらい上流に、上黒岩岩陰遺跡がある。その最下層から出土しら石器や土器は、同じ地層の木炭片を放射性炭素法で測定した結果、一万二〇〇〇年ばかり前、すなわち縄文時代草創期に属するとされている。一帯には一万年以上も前から人間が生活していたのである。

 彼らが、すぐそばの御三戸嶽を見なかったはずはない。見れば必ず、その威容に驚きと恐れを抱いたに違いなく、その頃から巨岩は、信仰の対象となっていたろう。ただし、だからといって、当時すでに、それをミミドと呼んでいた証拠とすることはできない(わたしは、その可能性は十分にあると思うが)。

**(「第八章 ミ(御)の語源は数詞の「三(み)である」より)

・8 古代人は体の各器官も神とみていた

*「ミミの語源は、ミミ(3+3)であるらしいと記してきた。これが当たっているとすれば、古代人は耳にきわめて高い神性を与えていたことになる。なぜ、そんな観念が生まれたのだろうか。ミ(三)とミミ(耳)とのあいだに深いつながりがあったことを、より明らかにするため、今度は耳の方からミに迫ってみたい。

「耳は、人体にそなわっている器官の一つである。人間は、その器官のそれぞれを神秘的な存在と感じていたようである。ものを見たり、音を聞いたり、臭いをかいだりする能力をもつからであろう。現代人は、それをあまりにも当たり前のことだと考えているが、古代人は例えば目をふさいだとたん、いままで見えていたものが視界から消え去る事実に、不思議な驚異を覚えていたらしく思われる。

 それは乳(ち)(女性の乳房、チブサのチ)に対してもいえる。

 記紀には「チ」の名で呼ばれる神々が少なくない。

 雷、迦具土、久久能智、武御雷、石土、野椎、天之狭土、国之狭土などである。

 このうちカグツチ、ククノチ、ノツチなどは、それぞれ火の神、木の神、野の神だと述べられているから、カグ(篝火のカガと同源)、クク(木々)、ノは火、木、野を指し、ツは現今の「の」と同じ助詞、チは神を意味することになる。すなわちイカツチは厳(いか)の神(厳めしく恐ろしい神)、イワツチは石と土のことではなく、磐の神の意である。いま、チにはふつう「霊(ち)」の漢字を当てている。

 乳(チ)と霊(チ)は由来を同じくするといえば、首をかしげる方も少なくないだろうが、縄文時代の土偶や石偶には乳房を誇大に表現したもの、ほとんど乳房だけのものが珍しくない。前章2節でも取り上げた愛媛県上浮穴郡久万高原町の御三戸嶽に近い上黒岩岩蔭遺跡からは、そのような「人体線刻礫」が一三点も出土している。

 そのうちの一つは、いびつな楕円形の緑色片岩の上半分に髪と左右の乳房、下半分に腰蓑のような線と逆三角形が彫られている。逆三角形は意図的につけられたものではないとの見解もある。石の長さは五センチに満たない。紐を通す穴があいていないことから、「数字の表示のある土版」と同じように手に握る呪符だったのではないか。

 この女性像には顔がない。手も足もない。真ん中に乳房が、でんと描かれている。まるで、ほかは必要がないかのごとくである。すなわち、乳房を神だと考えたお守りだったといえる。」

*「日本においても。またたぶん世界中のどの地域にあっても、耳飾りは大昔から人びとが一貫してこだわりつづけてきた装飾品であった。いや、それは正確には呪具であって、ただの装飾品ではなかった。耳にも霊力・呪力があり、それを象徴し、強調するモノ(モノノケなどのモノ)だと考えていたのでないか。

 大きな耳は福相の第一条件であるとともに、長命のしるしだとする俗信も、耳に宿る呪的な力への信仰に発しているに違いない。」

○筒井功
1944年生まれ。民俗研究家。 著書に『サンカの真実 三角寛の虚構』『葬儀の民俗学』『新・忘れられた日本人』『サンカの起源』『猿まわし 被差別の民俗学』など。

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