井筒俊彦英文著作翻訳コレクション『老子道徳教』
☆mediopos3458 2024.5.6
井筒俊彦に『老子』の翻訳があることを知り
小躍りしたことを思いだす
なんといっても『老子』は
ぼくにとっては半世紀前からの
変わらぬバイブルのようなもので
それを井筒俊彦ヴァージョンとして読めるのだから
翻訳といっても英語への翻訳である
それが英文著作翻訳コレクション『老子道徳教』
として出版されたのは二〇一七年のこと
井筒俊彦の英語への翻訳が完成したのは
一九七七年のイラン革命が起こる前のことだそうだが
それが生前に出版されることはなかった
その遺された原稿が澤井義次によって整理され
二〇〇一年になって慶応義塾大学出版会から
「Lao-tzŭ:The Way and Its Virtue」として出版され
さらにそれが古勝隆一によって日本語に訳されたのである
すでにその際
mediopos-938(2017.6.10)でとりあげ
その後もほかの井筒俊彦の著作関連とともに
井筒版『老子道徳教』は座右の書となっているのだが
久し振りに読み返し引用しながら
ぼくのなかで生きつづけている
『老子』を再確認してみたいと思った次第
ほんとうは最初から最後まで書き写しておきたいほどだが
そのなかからいくつか選び訳文の本文を引用することにし
さらにその本文のなかから
常に意識しておきたい言葉をいくつか・・・
「道」(という言葉)によって示されうるような道は、
永遠の<道>ではない。
「名」(という言葉)によって示されうるような名は、
永遠の<名>ではない。
(第一章)
水は万物を利するが、何ものとも競うことがない。
そして水は、みなに嫌がられる(低い)場所にとどまる。
だからこそ水は、〈道〉に最も近い。
(第八章)
〈有〉が我々の助けになる場合、
それは〈無〉のはたらきのおかげなのだ。
(第十一章)
それを見ようとしても、見えない。
この点において、それは、「かたちなきもの」と呼ばれる。
それを聞こうとしても、聞こえない。
この点において、それは、「かすかなもの」と呼ばれる。
それをつかまえようとしても、触れられない。
この点において、それは、「微妙なもの」と呼ばれる。
これら三つの面からいって、
それはとうていはかり知れないものである。
その三つの面が混じりあって、〈一〉となる
(第十四章)
大いなる〈道〉が廃れた時、仁と義が生ずる。
国家が混乱と無秩序に陥って、はじめて忠臣が存在する。
(第十八章)
爪先立ちする人は、しっかり立つことができない。
大またで歩く人は、遠くまでたどり着かない。
(第二十四章)
善人は悪人の教師である。
そして、悪人は善人にとって役に立つ手段である。
(第二十七章)
前に行こうとする人は、あとに遅れることになる。
ものを温めようと息を吹きかける人は、ものを冷たくしてしまう。
強くなろうとする人は、弱くなってしまう。
(他の者を)倒そうとする人は、自分が倒される。
(第二十九章)
あなたの名声とあなたの〈自己〉とでは、
どちらがあなたにとって大切なのか。
あなたの〈自己〉と富とでは、
どちらがあなたにとって大事なのか。
(第四十四章)
学問を追究する人は、(知識が)日に日に増えてゆく。
〈道〉を追求する人は、(知識が)日に日に減ってゆく。
(第四十八章)
なさぬことによって、ものごとをなす。
ひたすらものごとに関与しないことによって、
ものごとに関与する。
(第六十三章)
知っているのに、まるで知らないかのように
振る舞う人が、最上である。
(第七十一章)
■井筒俊彦英文著作翻訳コレクション『老子道徳教』
(古勝隆一訳 慶應義塾大学出版会 2017.4)
**(「序」より)
*「人々にとって馴染み深い想像の中の老子の周辺をぎっしりと取り囲んでいる伝説、神話や作り話の断片を横に置けば、老子が何者であり、どの時代に属するのかについては、我々は完全の闇の中に残される。これまで見てきたように、老子が中国のどこかに、歴史上のどこかの時点に、実在人物として存在したのかさえ確かではないのだ。このことは、それ自体否定的な事実のようにも見え、また実際そうでもある。しかし、この見かけ上否定的な事実には、はるかに重要な肯定的一面がある。」
*「老子の「非人格的」な性格について先ほど述べたことは、老子(または老子の著作とされている『道徳経』という書物)が、いずれかの観点においても、いずれのニュアンスにおいても、非人格的であるという意味に受け取るべきではない。かえって反対に、『道徳経』は或る意味、きわめて人格的な性格に富む書物なのである。この書物の「人格的」な性格は、まず何よりも、老子が一人称を用いて語ることに起因する。この書物全体を通じて、発話の主体は常にどの部分においても、「私」である。そしてこの場合の「私」とは、ある個人の経験的なもろもろの体験の中心にある自我ではなく、自我を失った人の持つ実存的意識のことであって、その人は「名のある」自己としての自我を失って、いまや〈無名〉と完全に同一となった存在である。それは言い換えれば、〈自然〉そのものの創造的なはたらきと調和して存在し、そして動く、名無き〈自己〉を指す。この名無き〈自己〉は、個的な自我の全面的否定という基礎の上に立っているため、名を持つ次元の彼方にある〈有〉の形而上学的次元においてのみ現れるものであり、『道徳経』においては、一人称というかたちで姿を現すのだ。それゆえ、注目すべき固有の人格的具体性が、この書物を貫いているのである。
この意味において『道徳経』は、特徴的に独白の作品であり、実に独白以外ではありえない。たった一つの固有名詞をも含まない書物の性質が、特別な「私」によって発せられた特別な言葉であることは、まことに重要だ。そしてこれはまた『道徳経』が、形式上は断片的な言辞と格言体の文章の寄せ集めであるという事実にもかかわらず、著しく高い水準で内的一貫性を示している理由に違いないのだ。というのは、この書物の中で一見まったく異なる要素すべてが、人格的な統一体としての「私」によって、有機的な全体性へと美しく編み上げられている。その「私」とは、名無き〈真実〉と完全に一体化した名無き〈自己〉の存在についての具現である。この意味で、『道徳経』ははっきりとある一人の作者の著作なのだ。」
*「『道徳経』は、主に格言的な性質の短文から成っており、その構成要素をほぼ無限にさまざまに配列しうる理論上の可能性をそれ自体に含んでいる。そして近代では、このことが、中国や日本はもとより西洋においてさえ、同書各章の内容の再配列について多種多様の試みを行うことに多くの漢学者を駆り立てている。
しかしながら、それらの理論的な試みーーーーそれらはしょせん憶測によって成り立っているーーーーよりもはるかに有意義なことは、紀元前二世紀中頃に遡る『道徳教』の実物テクストの重要な遺物が近年発見さらたことである。これらの漢代のテクストは、一九七三年、湖南省の馬王堆の名で知られる墓の中から発見された。これらのテクストには、伝統的に受け継がれてきたテクストとかなりの違いがあり、『道徳経』のテクストが当時いまだ流動的な状態にあったことを示している。この漢代のテクストの精密な研究ーーーー少なくとも完成に二、三年を要する研究ーーーーは、おそらく『道徳経』および老子の思想についての我々の見方を、少なくともある程度までは変えることになるのは疑いない。
しかしながら、繰り返さなければならないのは、まさしく我々がここに訳出したテクストを通してこそ、老子は、過去何世紀もの間、中国の文化と精神性の歴史的形勢に貢献してきたのだ。極東文化の哲学的背景は、『道徳経』をこの特定のかたちで読むことを通してしか、適切に理解することはできないのである。」
**(古勝隆一「訳者解説」より)
*「井筒俊彦(一九一四ー一九九三)が、カナダのマギル大学イスラーム学研究書テヘラン支部の教授としてテヘランに赴いたのは、一九六九年、五十五歳の時のことで、その後の十年間をこの地で過ごした。(・・・)このテヘラン滞在期間中、井筒の『老子道徳経』(以下、『老子』と称する)の英訳がなされたのであった。」
*「一九七九年一月にイラン革命が起こると、翌月、井筒はテレランの地を去って日本へと帰国し、この『老子』の英訳とペルシア語訳もその生前に出版されることはなかった。
しかしながら井筒豊子夫人がタイプ打ちし、それに井筒が手批を加えた『老子』英訳の原稿が遺されており、澤井義次の整理を経て、二〇〇一年、慶応義塾大学出版会から、Lao-tzŭ:The Way and Its Virtueとして出版された。」
*「前述の馬王堆帛書『老子』が出現したのちにも、一九九三年には湖北省の郭店楚墓から、紀元前三百年前後に書写された『老子』竹簡が、それぞれ断片ながら三種(甲本・乙本・丙本と称す)も見つかり、同書の成立時期についての再考を促している。というのは、近代の学者の中には、『老子』の成書年代を漢代初期、紀元前二世紀頃と考える人々がいたので、それより百年も古く書写された『老子』の出現は、大いなる驚きにほかならなかったのだ。
(・・・)
ともあれ、これら新発見資料の学術価値とは別に、井筒が彼の生きた時代において示した『老子』の読みに、それ自体価値があることは、井筒の宗教研究・思想研究の達成点を考えれば、論ずるまでもなく明かなことであろう。また念入りに作られたこの英訳を見るにつけ、井筒の思想を読み解く眼の確かさがますます知られるのである。」
*「井筒の英訳原稿には『老子』の原文が示されておらず、その訳出底本の本文が一字一句どのようなものであったのか確定するのは容易でない。ただ、そこに寄せられた井筒の序に「この翻訳は、名高い道学哲学者、王弼(二二六ー二四九)によって確定された、彼の『道徳経』注に用いられたテクストに基づいて作成した」(本書一三頁)とあるので、王弼本と称される系統の『老子』伝本に基づいていることは疑いない。」
*「井筒は、極力、テクストに忠実に『老子』を読んでいる。そこには恣意的な読みが生ずる余地はない。『老子』の伝統的な章段を守る読解は、井筒訳の美点の一つで在る。
そのようでありながら、井筒の訳は『老子』を大胆に読み直す眼をも同時にそなえている。『老子』の本文を二つに分けて、組版の文字下げ(インデント)を利用することで両者の区別をしているのが、その現れである。」
**(「第一章」より)
*「「道」(という言葉)によって示されうるような道は、永遠の<道>ではない。
「名」(という言葉)によって示されうるような名は、永遠の<名>ではない。
<名無きもの>は、天地の始め。
<名有るもの>は、万物の母。
それゆえ、永遠の<無>の状態の中に、人は<道>の神秘なる真実を見る。
永遠の<有>の状態の中に、人は<道>の帰結を見る。
この二つの在り方は、起源において一つであり等しい。しかしいったん外に出ると、(二つの)異なった名前を帯びるのだ。
(原初の状態において)等しいものである時、それは<神秘>と呼ばれる。
まさにそれは、さまざまな<神秘>の中の<神秘>である。そしてそれこそが、無数の驚異の出で来る門なのだ。」
**(「第八章」より)
*「最高の善は、水のようなものだ。
水は万物を利するが、何ものとも競うことがない。そして水は、みなに嫌がられる(低い)場所にとどまる。
だからこそ水は、〈道〉に最も近い。
住むのには、地というものが大切だ。
心には、深い静けさが大切だ。
他の人々とつきあうためには、仁が大切だ。
話すことには、誠実さが必要だ。
政治には、治まることが大切だ。
ものごとをなすには、能力が大切だ。
動くには、時機が大切だ。
人が競わないことに気を配るならば、彼は決して過ちをおかさない。」
**(「第十一章」より)
*「三十本の車輪の輻は、一つの轂を共有している。からっぽの場所があるからこそ、車の用をなす。
粘土をこねて容器を作る。からっぽの場所があるからこそ、容器の用をなす。
入り口や窓を開けて家を建てる。からっぽの場所があるからこそ、家の用をなす。
このように、〈有〉が我々の助けになる場合、それは〈無〉のはたらきのおかげなのだ。」
**(「第十四章」より)
*「それを見ようとしても、見えない。この点において、それは、「かたちなきもの」と呼ばれる。
それを聞こうとしても、聞こえない。この点において、それは、「かすかなもの」と呼ばれる。
それをつかまえようとしても、触れられない。この点において、それは、「微妙なもの」と呼ばれる。
これら三つの面からいって、それはとうていはかり知れないものである。その三つの面が混じりあって、〈一〉となる
上の方では、それは明るくない。
下の方では、それは暗くない。
それは、より縄のようにいつまでも途切れなく、いかなる名前も与えられようがない。究極的に、それは〈無〉の原初の状態へともどってゆくのだ。
かたちなき〈かたち〉、像なき〈像〉、とでも言えようか。
ぼんやりとして確かめられない〈何か〉、とでも言えようか。
その前に立っても、頭は見えない。
その後に付き従っても、背面は見えない。
ものごとの永遠なる道の手綱をしっかりと握り、それは今のものごとを治めてゆくのだ。
かく、それはあらゆるものの原初の始まりを知っている。
これが〈道〉の大綱と呼ばれるものなのだ。
**(「第十八章」より)
*「大いなる〈道〉が廃れた時、仁と義が生ずる。
賢さと聡明さとが現れた時、たくらみと策略が生ずる。
六種の親族関係がこじれて、はじめて孝行息子が存在する。
国家が混乱と無秩序に陥って、はじめて忠臣が存在する。」
**(「第二十四章」より)
*「爪先立ちする人は、しっかり立つことができない。
大またで歩く人は、遠くまでたどり着かない。
自分をひけらかす人は、輝くことができない。
自分が正しいと思うような人は、輝かしくなることができない。
自分自身を誇るような人は、自分の心を認められることがない。
自慢をするような人は、いつまでも持ちこたえない。
〈道〉の観点から見れば、(そのような態度は)「余分な食料や役に立たない疣」と呼ばれる。
こういったものは、みなから嫌われる。
それゆえ、〈道〉を有する人は、決してこういう態度をとらない。」
**(「第二十七章」より)
*「うまく歩く人は、足跡をのこさない。
うまく話す人は、〔話に〕不備がない。
うまく教える人は、計算道具を使わない。
うまく扉を閉める人は、掛け金やかんぬきを使わないが、それでも開けることができないように閉めることができる。
うまくものを結ぶ人は、ひもや結び目を使わないが、それでもほどくことができないように結ぶ。
それゆえ、聖人はいつも人々を救うのがうまい。
何人をも見捨てたり放置したりしない。
いつもものを救うのがうまい。
何ものをも見捨てたり放置したりしない。
これが「自然の光を二重にする」と呼ばれるものである。
かくして、善人は悪人の教師である。
そして、悪人は善人にとって役に立つ手段である。」
**(「第二十九章」より)
*「世界全体をつかみ取ろうとして、さまざまな作意に頼る人がいる。しかし、はじめからそれがうまくいかないことが私には解る。
世界は聖なる器であり、作為によって作ることなど、誰にもできない。
何かをなそうとする者は、みなそれを傷つける。
それに固執する者は、みなそれを失う。
前に行こうとする人は、あとに遅れることになる。
ものを温めようと息を吹きかける人は、ものを冷たくしてしまう。
強くなろうとする人は、弱くなってしまう。
(他の者を)倒そうとする人は、自分が倒される。
こう見ると、聖人は過剰を避け、贅沢を避け、自慢を避ける。」
**(「第四十四章」より)
*「あなたの名声とあなたの〈自己〉とでは、どちらがあなたにとって大切なのか。
あなたの〈自己〉と富とでは、どちらがあなたにとって大事なのか。
ものを得るのと失うのとでは、どちらがあなたにとって有害なのか。
それゆえ、程度のひどいものおしみは、間違いなく大きな出費へとつながる。
あまりにも多くの富をためこむことが、間違いなく重大な損失へとつながる。
満足を知っていれば、辱めを受けることはない。
止まることを知っていれば、危険に遭うことはない。
そうなれば、いつまでも安全のまま過ごすことができる。」
**(「第四十八章」より)
*「学問を追究する人は、(知識が)日に日に増えてゆく。
〈道〉を追求する人は、(知識が)日に日に減ってゆく。
減らして、そしてさらに減らしてゆけば、しまいには無為の状態にいたるのだ。
無為の状態にいたったならば、なされぬままのことは、何もない。」
**(「第六十三章」より)
*「なさぬことによって、ものごとをなす。
ひたすらものごとに関与しないことによって、ものごとに関与する。
味のないものに、味わいを見出す。
小さなものを大きいとみなし、少ないものを多いとみなす。
自分に悪いことをした相手には、よいことで返す。
やさしい問題であっても、難しい問題として対処せよ。小さなものごとであっても、大きなものごととして引き受けよ。
この世界のあらゆる難事は、易しいことから起こる。
この世界のあらゆる大事は、小さなことから起こる。
それゆえ、聖人は大事を決して引き受けない。
だからこそかの人は最終的に大事を成し遂げるのだ。
安請け合いをする人間は、自分の言葉を守ることがほとんどない。
多くのことを易しいと思い込む人間は、多くの困難に遭遇する。
だから、聖人でさえ難事としてあつかうものごとが存在するのだ。
かの人は結局は困難に遭遇しない理由である。」
**(「第七十一章」より)
*「知っているのに、まるで知らないかのように振る舞う人が、最上である。
知りもしないのに、まるで知っているかのように振る舞う人には、欠点がある、
欠点が欠点であることを知ってこそ、人は欠点なき者になれる。
賢人には欠点がない、それはかの人が自分の欠点を欠点だと知っているからだ。
〔それゆえ、欠点がないのだ。〕
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