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渡辺祐真「詩歌の楽園 地獄の詩歌」第十回 近現代短歌 百年の歴史をたどる」(『スピン10』)/高良真美『はじめての近現代短歌史』
☆mediopos3697(2025.1.2.)
最近書店では詩集のコーナーが減り
(最近亡くなった谷川俊太郎の詩集やそのコーナーは
このところずいぶん目につくようになったが期間限定だろう)
比較的若い方の歌集が多く並べられるようになり
短歌の特設コーナーさえ設けられるようになっている
短歌における圏域は
古典的な時代のものを除けば
それぞれのグループごとにかなり閉じていて
さらに短歌全体の享受層としても
かなり閉じているのではなはないかと推測されるのだが
短歌の実作者層や読者層
それにともなってつくられているだろう結社や
ネット上におけるグループなどの実態は
よくわからないところがある
個人的にいえば数年前から
特に塚本邦雄の著作を集中的に読むようになり
ようやく短歌における言語表現の可能性の一端を
垣間見る思いがするようになり
それにともなって古典的な和歌や
現代短歌などにも目を通すようにもなっているのだが
折良く先日
高良真美『はじめての近現代短歌史』が刊行され
明治から現代までの短歌表現の流れを
ある程度一望できるようになってきた
さらにはおそらくその『はじめての近現代短歌史』を承け
『スピン』において連載されている
渡辺祐真「詩歌の楽園 地獄の詩歌」の
「第十回 近現代短歌 百年の歴史をたどる」で
わかりやすくその流れが記事となっている
その記事から流れを少しばかりたどってみる
明治以降の短歌史においては
他の芸術運動もそうした傾向が見られるように
革新派と保守派が並び立ってきている
明治前半は江戸時代後半に影響力のあった
「桂園派」が和歌の世界の中心だったが
明治26年に落合直文が設立した「浅香社」に
参加していた与謝野鉄幹が明治33年
機関誌『明星』を立ち上げる
革新派である
ほぼ同時期に正岡子規は俳句と短歌の礎を作る
『古今和歌集』否定し
最も古い『万葉集』を理想とした「新しい保守」運動である
正岡子規は32年3月から「根岸短歌会」を開き
「新聞「日本」という、当時の短歌のメジャー舞台に
何人もの歌人を輩出する」ことになる
そしてその流れを継ぎ牽引していったのが
明治41年に誕生した短歌結社「アララギ」である
こうした近代短歌の改革は
いわば「和歌」を「短歌」に変えるものだったといえる
大正2年アララギ内部では様々な対立が激化していたが
中心となっていた伊藤左千夫が亡くなり
新たな中心となった島木赤彦と斎藤茂吉に牽引され
実作と理論の両面で大きく動いていき
特に斎藤茂吉『赤光』が注目を集める
大正時代には『明星』解散をうけて
様々な短歌結社(機関紙)が生まれることになり
派覇権を握っていたアララギに対する反発」もあって
新たな潮流を呼ぶこととなった
昭和初期には第一次世界大戦の影響もあり
新たな価値観を求める動きが活発化し
モダニズム短歌が生まれ
プロレタリア文学も盛り上がった
第二次世界大戦時においては
国家統制が敷かれ
芸術は国威発揚のための道具とされ
歌壇の中心人物たちが委員になって編まれた
「愛国百人一首」なども生まれたが
敗戦を迎えると
短歌に対しても戦争責任への批判が寄せられることとなる
そして俳句や短歌は
小説等に対して劣った「第二芸術」だと論じられたりもした
そんななかで結社を超えた様々な歌人たちが
昭和21年には新歌人集団
昭和23年には日本歌人クラブを結成
戦後短歌をリードすることになり
昭和24年には「女人短歌」も発足する
昭和28年には斎藤茂吉・釈迢空も亡くなり
短歌の暗黒時代とすら言われたが
昭和24年に中井英夫によって「短歌研究」が創刊され
中城ふみ子や寺山修司など
戦後の新しい短歌を牽引する歌人が登場することになる
そんななかで昭和30年代には
塚本邦雄と岡井隆をはじめとした「前衛短歌運動」が
短歌復活の一つのピークとなる
昭和後期には俵万智の『サラダ記念日』が生まれ
「戦後短歌が模索した保守と革新の合わせ技」を実現するが
1990年前後にはそうしたライトヴァース的な短歌と
差異化を図ろうとする荻原裕幸・穂村弘・東直子らが現れる
どちらも「口語短歌の可能性を広げ、
現代短歌の扉を開いた」ということができる
以上が渡辺祐真の記事の流れだが
重要なのは現代短歌が
どんなかたちで言語表現の可能性を開き得ているかだろう
それは短歌や俳句や詩そして文学といった
特定のジャンルにおける可能性というよりは
あらゆる言語表現の根底にあり
それが潜在的な力となって創造され得る可能性だといえる
その意味でもあらゆるジャンルにおける言語を横断しながら
一見分断されているように見える境界を超えていく必要がある
そんな夢が垣間見られたらいいのだが・・・
■渡辺祐真「詩歌の楽園 地獄の詩歌」
第十回 近現代短歌 百年の歴史をたどる
〜落合直文、与謝野鉄幹、正岡子規か俵万智、穂村弘まで〜
(『スピン10』文藝2024年冬季号増刊 河出書房新社 2024/12)
■高良真美『はじめての近現代短歌史』(草思社 2024/11)
**(渡辺祐真「詩歌の楽園 地獄の詩歌」
第十回 近現代短歌 百年の歴史をたどる)
・はじめに
*「はじめにざっくりと見取り図を示しておく。多くの芸術にはだいたい二つの流派が並び立つ。一つが「古い!改革しよう!」という革新派、もう一つが「奇抜なことをせずに伝統的に行こう!」という保守派。短歌もこの例に漏れない。一千年以上続く歴史を遵守し、五七五七七という定型を心掛け、言葉遣いや題材も奇抜なものは好まないというような勢力があれば、そうした伝統の枠組みにはまっていては自由に思いを詠めないと、枠を出ようとする勢力もある。」
・浅香社と東京新詩社・『明星』〜明治30年まで その1〜
*「明治前半は、江戸時代の名残をたっぷりと漂わせながら、少しずつ欧米化していく路線を模索していた。もちろん短歌も例外ではない。というわけで明治30年くらいまでは、江戸時代と大きな差はなく、江戸時代後半に影響力のあった桂園派と呼ばれる一派が、前時代に続いて和歌の世界の中心でありつづけた。たとえば、天皇や皇族による和歌の手伝いを行う「御歌所」の所長や主要メンバーの多くは、桂園派だ。」
*「だが、社会や政治制度、そして小説、詩などが近代化していく中で、旧態依然としている和歌に批判が向けられる。その嚆矢が、明治15年に発表された、矢田部良吉、外山正一、井上哲次郎による『新体詩抄』だ。本作は欧米の詩を手本に日本の詩を改革しようという思いのもと編まれた詩集で、詩の近代化の金字塔的な作品である。」
*「批判を受け、和歌界も黙っていたわけではない。その代表が明治26年に落合直文が設立した「浅香社(あさ香社)」だ。近代日本が手本として仰いだ欧米は、個人を重視する。文学も個人の溢れる思いを作品にしてこそ、というわけだ。」
「それが花開いたのは明治33年。浅香社に参加していた与謝野鉄幹が、結社「東京新詩社」、そしてその機関誌『明星』を立ち上げたのだ。与謝野晶子、山川登美子などの新人を世に送り出すなど、新しい短歌の世界を切り拓いた。鉄幹が浅香社に参加していたことからもわかるように、『明星』は革新派だ。自らの感情をたっぷりと詠むことを目指していた。」
・短歌会の大重鎮の登場〜明治30年まで その2〜
*「ほぼ時期を同じくして、もう一つの新しい潮流が生まれる。その生みの親が正岡子規だ。子規はわずか34年の生涯ながら、俳句、短歌、評論、小説などあらゆる文藝ジャンルを手がけ、しかも俳句と短歌の礎を作ったという、化け物級の偉人だ。まずは長い時間をかけて俳句の改革を行った。そしてその勢いのままに、短歌の改革にも着手した。それが明治31年に始まった『歌よみに与ふる書』の連載だ。長らく和歌の世界でスタンダードだった『古今和歌集』を「くだらぬ」と否定し、最も古い『万葉集』を理想とした。言うなれば「新しい保守」である。」
「その実践の場として32年3月から開かれたのが「根岸短歌会」。結社ではなく、所属メンバーで集まって短歌を発表し批評する、いわゆる歌会だ。そのため、『明星』のように彼ら自身で雑誌を発行することはないが、ここから新聞「日本」という、当時の短歌のメジャー舞台に何人もの歌人を輩出する。その代表が伊藤左千夫と長塚節。明治35年に子規は亡くなってしまうのだが、その後に子規の流れを継ぎ、牽引するのがこの二人である。彼らが中心となって創刊された雑誌「馬酔木」は、のちに短歌結社「アララギ」へと発展し、このアララギこそが近代短歌史の大重鎮となるのである。」
・明治30年前後の近代短歌の革新
*「近代短歌の改革は明治30年前後に始まったと言っていい・」
「この時代に、名実ともに和歌が短歌に変わったのである。」
・『明星』の廃刊と『スバル』〜明治40年代〜
*「明治時代後半になると、産業革命の成功、日清・日露戦争での勝利など、近代化の成功とともに、その矛盾が露わになってくる。各社社会の到来だ。」
「短歌の世界でも、迸る情熱のようなものばかり詠んでいるのではなく、社会のことを鋭き扱うような作品を求める声が上がる。(・・・)動きがあったのが『明星』だ。41年に北原白秋、吉井勇、木下杢太郎といった、有力な新人が脱退し、同年に廃刊となってしまう。
「その後、このメンバーを中心に、新たな文芸を作るための新しい動きがはじまった。明治42年、与謝野鉄幹、晶子、森鴎外が協力し、石川啄木、白秋、吉井、杢太郎が活躍した、雑誌『スバル』が創刊されたのだ。小説、短歌、詩など、幅広いジャンルの作品が掲載され、矛盾をはらむ社会に向き合うような内容が多かった。」
・『アララギ』の時代から明治後半から大正時代初期〜
*「近代短歌史を語る上で外せないのが(・・・)結社「アララギ」だ。明治36年に根岸短歌会に参加していた伊藤左千夫などを中心に機関紙『馬酔木』が創刊され、それを源流に、様々な改称や合併を経て明治41年に「アララギ」が誕生した。」
「この時点では『スバル』の方が人気だった。アララギが大きく揺れるのは大正2年。アララギ内部では様々な対立が激化していた。」
「だがその矢先、伊藤左千夫が亡くなる。」
「アララギの新たな中心となったのは島木赤彦、斎藤茂吉で、彼らの牽引のもと、実作と理論の両面で大きく動いていく。まず作品では、大正2年に島木赤彦・中村憲吉『馬鈴薯の花』、斎藤茂吉『赤光』が刊行される。特に『赤光』は大きな話題を集めた。」
「茂吉は、作歌について『実相に観入して自然・自己一元の生を写す」これが短歌上の写生である。(「短歌に於ける写生の節」)と述べている。」
「茂吉の実作と理論両面にわたる功績は多くの人に受け入れられ、アララギの存在感を一層高めることとなった。」
・結社林立時代〜大正時代〜
*「大正時代には様々な短歌結社(機関紙)が生まれる。特に、『明星』が解散したことが大きい。」
「様々な流派が生まれ、切磋琢磨していくが、やはり最大規模はアララギであった。しかし、そのアララギが分裂する。」
「大正時代を通して圧倒的な派覇権を握っていたアララギに対する反発が一気に噴出することになり、次の時代の新たな潮流を呼ぶこととなった。」
・モダニズム短歌とプロレタリア短歌〜昭和初期〜
*「1914年から約4年間という歳月をかけ、およそ二千万人が犠牲となった大戦争は、人びとを絶望にたたき落とした。その結果、先行世代を疑い、新たな価値観を求める動きが活発となった。その潮流がモダニズムという多様な運動に結実する。彼らは、新たに誕生した都市(戦争や震災によって町並みが一変した)、それまでいない感覚や非現実にその根拠を求めた。日本の場合は新感覚派や新心理主義などと呼ばれた。」
「短歌の場合のモダニズムは、例えば定型の否定という形で現れた。」
「既成の価値観を壊すという点では、貧しい労働者たちを描いたプロレタリア文学も盛り上がった。小説で言えば、葉山嘉樹、小林多喜二、平林たい子。短歌の場合は、昭和3年に「短歌戦線」、翌年に「短歌前衛」が創刊され、同年に「プロレタリア歌人同盟」が結成される。」
*「以上のように昭和初期は、第一次世界大戦や関東大震災を経て、新しい価値観が求められ、短歌の場合も題材、定型などの根本のレベルから様々な試みがなされた。もちろん保守的な傾向もアララギを中心に維持され、土屋文明、佐藤佐太郎、高安国世などの実力者が活躍したことも重要だ。」
・戦争協力と反省〜第二次世界大戦から戦後〜
*「第二次世界大戦は、日本が本格的に参戦し、国家統制が敷かれた時代である。芸術は国威発揚のための具とされ、多くの文学者たちが身を捧げた。佐佐木信綱、土屋文明、釈迢空、斎藤茂吉、北原白秋など、歌壇の中心人物たちが委員になって編まれた「愛国百人一首」などはその結実である。」
「そして敗戦を迎える。一部の無責任な軍部や政治家を除き、日本中が敗戦の苦しみ、そして責任と向き合うこととなる。中でも短歌には苛烈な批判が寄せられた。第二芸術論争と呼ばれる一連の言論である。桑原武夫、小田切秀雄、臼井吉見らが、俳句や短歌について、作品の短さ、俳壇や歌壇の閉鎖性などを理由に、小説等に劣った「第二芸術」だと論じたのだ。こうした動きに対して結社を超えた様々な歌人たちが、昭和21年に新歌人集団、昭和23年に日本歌人クラブを結成し、戦後短歌をリードすることになる。」
「戦後を象徴するムーブメントでいうと、「女人短歌」も忘れてはならない。」
「戦後には自分たちで変革を試みるために、女性たちによる様々な運動が興された。短歌の場合、川上小夜子・五島美代子・長沢美津・北見志保子らが中心となり、昭和24年に発足した「女人短歌」がそれに当たる。」
・前衛短歌運動〜昭和中期〜
*「戦後まもなくの短歌は、反省と変革を試みて新たな可能性を探り続けていたが、様々な批判や困難に晒されていた。特に昭和28年には、斎藤茂吉、釈迢空という大御所が相次いで亡くなり、短歌の暗黒時代とすら言われた。」
「それを打破することになったのが、昭和24年に中井英夫によって創刊された「短歌研究」だ。ここからは戦後の新しい短歌を牽引する歌人が続々と登場する。特に昭和29年の中城ふみ子と寺山修司の登場は大きい。」
「そうした短歌復活の息吹は、昭和30年代に展開する塚本邦雄と岡井隆をはじめとした「前衛短歌運動」を一つのピークにする。その動きは、韻律、イメージ、比喩などあらゆる面で短歌を刷新しようとする徹底的なものだった。
短歌とは朗唱するもので、伝統的な語意を用いるという考え方の真逆を行く。しかもその説明は独自の比喩によってなされる。こうした思想を、塚本の代表歌「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ」のような作品が体現している。伝統的なリズムから外れた本歌は。まるで液化したピアノそのもののようである。
一方で、戦後から批判の対象となっていた伝統的な短歌の見直しも進む。馬場あき子は評論家、能作家として古典を実践しながら、「花咲きてかそけき疲れいでくるを今日夕かすみ探しと思ふ」のような古典らしい作歌を行った。こうして、革新保守とともに短歌は着実に息を吹き返していくのであった。」
・ライトヴァースとニューウェーブ〜昭和後期から平成初期〜
*「前衛短歌運動の近現代短歌史で最大の激震は、やはり俵万智の登場だ。古語も巧みに交えた新鮮な言語感覚で、颯爽と瑞々しい感情を詠んだ『サラダ記念日』は、戦後短歌が模索した保守と革新の合わせ技と言えるだろう。佐佐木信綱は同書の跋文で、「口語定型の新しさ」や「失恋の歌としての新しさ」をその魅力に掲げている。1980年代には、俵だけではなく、林あまり。加藤治郎といった新しい言語感覚の旗手が現れ、「ライトヴァースとニューウェーブ」と総称される。」
*「だが、そんなライトヴァースとの差異化を図ろうとする動きが1990年前後に現れる。旗手としては、荻原裕幸、穂村弘、東直子らの名を挙げたい。俵の短歌が等身大の実体験を軸にしたものならば、穂村の『シンジケート』は私性から解き放たれている。「天使らのコンタクトレンズ光りつつ降る裏切りし者の頭上に」や、「海にゆく約束ついに破られてミルクで廊下を磨く修道女」は、全く新しく創造された異世界のようだ。
よく俵と穂村はセットで語られるが、実際に読んでみるとまるで違う。だが、どちらも(そしてこの時代に生まれた新しい多くの短歌も)口語短歌の可能性を広げ、現代短歌の扉を開いたのは間違いない。」
・さいごに
*「より詳しく知りたい方は、新しい短歌史入門として、高良真美『はじめての近現代短歌史』が11月に刊行された。ぜひお手にとっていただきたい。」