毎日死にたいと思っていた頃の「生きる」という意味
生は尊いと言われる。
何億と紡がれてきた命の集約だから。
父母が2人いて、祖父母が4人いて、曽祖父母が8人いて、
16人いて、32人いて、64人いて、128人いて、、、
誰一人欠けても紡がれてはこなかった命だからと。
誰一人欠けても紡がれてこなかった命は、
結局地球上に76億人いる。
自分の価値は76億人分の1。
そこに何の意味があるのかと思っていた。
毎日死にたいとしか思えなかった時、
死は、特別なことではなかった。
それは、"生きること"に何も意味がなかったからだと今では思う。
生きることに何の意味も見出だせなかったように、
死ぬことにもまた、何の意味も見出だせなかった。
ただ、非難されることだけを恐れていた。
生きていることそのものが、非難の対象のように思えてならなかった。
食べて、排泄することそのものが、とてつもない大罪のように思えた。
障害者施設で大量虐殺が起きた時、
障害者には何の罪もないのにと思った。
殺されるなら、自分のような害悪な人間が殺されるべきだったのにと思った。
被告人も死刑だろうと思った。
私の世界は、常に黒か白かで二分されており、
良きものは生かされ、
悪しきものは滅されるべきだと思っていた。
良きも悪きも、その時代の価値観でしかないことを知らずに。
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私の価値観で、
私は世界で最も悪しき者だった。
良き者であろうとする努力すら、無意味だと思うほど、圧倒的に悪しき者だと思っていた。
理由は分からない。
愛する人から拒絶される痛みからかもしれない。
拒絶と感じる行為もまた、
ただの私の価値観だと、のちに思い知る。
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だけどそれ(他者の価値観)を受け入れるまで私は、
本当に世界で最も無価値で有害でどうしようもない人間だと思っていた。
大切だと思える人にとって有害な存在で、
どうやって生きのさばらえていられるだろう。
消えたくて消えたくて仕方がなかった。
存在をなかったことにしたくて仕方がなかった。
生きる意味など何も見出だせなかった。
私の死は、有益だとすら思えた。
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死に、意味を見つけられる人は、
生に意味を見つけられた人だけだと思う。
人が生きる意味とは何なのか、
それは未だに明確に答えることができない。
食べて、排泄するだけで消費を促すから?
誰かの心の拠り所となれるから?
種の保存として多様性を保持するから?
10代前の祖先の数が2000人を超えるから?
20代前の祖先400万人の誰一人「子を育む」という愛が欠けていたら、自分はここに存在しなかったから?
結局、
生きる意味も、生まれてきた意味も分からない。
ただ、宇宙が膨張し続けることを望んでいる。
私はその宇宙に生まれた、副産物であるような気はしている。
宇宙は、
自らを認識することを望んだ。
だから私達に意識は生まれた。
宇宙は拡張することを望んだ。
だから私達は、知らないことを知ろうとし、
昨日よりも今日、新しいものを生み出そうとしている。
そんな説が好きだ。
生きる意味も生まれた意味も、
明日死ぬかもしれない意味も、
意味を求めようとすることすらも、
努力したいのも、成長したいのも、
自分自身の価値を知りたくてたまらないのも、
「宇宙と一体だから」
と言われると、妙に安心する。
願わくば、今日、そんな宇宙の意思に沿って、
自分を拡張し、知りたいと願う誰かが、
この記事に辿り着き、
「拡がった」と認識できたら、
私がここに生まれて生きた意味も、
きっとあるのではないかと思えるのだ。
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