自分の脳内を自分で考察するのに、やはりSNSが適していると感じてNOTEを始めた。 どうしてSNSなのだろうか? 紙媒体ではダメなのか? おそらく、「そう多くはない誰かに見られる可能性」を考慮することで、多少の客観性と冷静さが加わるから、SNSなのだ。 「自分に嘘をつかない」という作業であれば、誰にも見られることのない紙媒体の方が良いが、「主観性からの脱却」がテーマであるなら、インターネットは最適解だろう。 求めているのは、「人に伝わる言葉」人に伝えるのは難しい。
藤本タツキ作品『ルックバック』が修正された。 私はあの作品から犯人が統合失調症であると感じ取れなかった。 京アニ事件の容疑者も、精神鑑定の結果、刑事責任能力があるとされている。 つまり誰もあの描写を『統合失調症患者の妄言(幻聴)』によるものだと断定はしていないのに、当の統合失調症患者によって「私達はこのような言動をします」と、明言されてしまったわけだ。なんとも皮肉は話である。 それを取り下げることによって、集英社側も「そのように受け取られることに同意します」と明言してし
『チェーンソー』藤本タツキ氏の143ページ読み切り漫画が、インターネット上で物議を醸した。 この漫画を読んで、様々な"感動"があったからに他ならない。 "感動"とは、お涙頂戴だけではない。 歓び、悲しみ、驚き、恐怖… 快、不快、様々な感情が一同に動かされたことによって、結果"話題"となった。 公開日が丁度京アニ事件発生から2年後に公開されたこと、作中で京アニ事件を想起させる出来事が盛りこまれていることによって、議論は更に白熱した。 私が感じ取ったのは、そんな現実の事
生は尊いと言われる。 何億と紡がれてきた命の集約だから。 父母が2人いて、祖父母が4人いて、曽祖父母が8人いて、 16人いて、32人いて、64人いて、128人いて、、、 誰一人欠けても紡がれてはこなかった命だからと。 誰一人欠けても紡がれてこなかった命は、 結局地球上に76億人いる。 自分の価値は76億人分の1。 そこに何の意味があるのかと思っていた。 毎日死にたいとしか思えなかった時、 死は、特別なことではなかった。 それは、"生きること"に何も意味がなか
これはメンタルを病んでいる人向けの内容ではない。 メンタルを病んだ人が身近にいて、どうしたら良いのか分からない人、 もしくは、メンタルを病んではいるが現実的に立ち向かいたいと思っている人向けのnoteだ。 繰り返すが、メンタルを病んでいる人の助けになる内容ではない。 メンタルが病んでいる状態とは、世界が歪んで認識している状態であると私は思うからだ。 noteなんか読んでないで、なんか癒やされる動物の動画とか見て、とにかくひたすら寝ていてほしい。 そこまで前置きをし
人が行動する理由 または行動しない理由は、感情だ。 先日、 ショタ系ラブドール所有感を描いた漫画が、 ツイッターで炎上を起こした。 炎上の内容はこうだ。 「小児性愛者は危険だ」 「ラブドール(捌け口)がなければ小児性愛者は現実の少年に加害する」 といった内容が散見された。 これに小児性愛当事者及び、性嗜好マイノリティが真っ向から反論。 論点は「現実と非現実の区別をつけられるかどうか」になった。 私の結論は、こうだ。 人は、気持ち悪いと感じたら排除しようとする。
人は、なぜ生まれてくるのか。 それは、幸せになるためだ。 哲学的なこととか、社会的なことではなくて、脳神経伝達物質的に考えて、人間の行動は「幸せを感じるか感じないか」に左右されているでしょ? 食べると幸せになるのも、 眠ると幸せになるのも、 スキンシップをはかると幸せになるのも、 全部うまく「生きる」に対応していて、人間の造形ってのはほんとにスゴイなと改めて思う。 知らなかったことを知れた時、 頑張った努力が実った時、 人から認められた時、 誰かを幸せにし
自己肯定感が高いオタクはいない。 もちろん例外はあるので、言いきってしまえるものではないのだが、オタクと自己肯定感の関係性については、かなり前から気になっているものだった。 そもそもオタクとは何か。 依存症だ。 自己の内側で満たせないものを補完するように対象に夢中になる現象が、何なのかずっと考えてきたが、これは依存に他ならない。 健康被害を危惧した某県が条例で規制しようとしたが、正しく医療的基準を示した規制でなければ、反発されるのは当然だろう。だって依存症なんだから
同年代の女性と「下ネタ大好き」みたいな話になったのですが、私も人の下ネタを聞くのは好きです。 こう言うと、セクシャルハラスメントの許可を得たと勘違いして嫌がらせ行為を平然と行うおじさんがいるので、公言はしません。 私が聞くのが好きなのは、人の性癖です。 性癖と言うのは、人間が本質的に求めてやまない、どうしようもない根源欲求です。 生育歴などによる多少の因果関係は感じられるものの、自分一人では到底理解できない「そこにそんな魅力感じる!?」みたいな話は、めちゃくちゃ面白い
自分は自分で当時何を考えていたのか、検索するのにオンラインが便利なので使っていますが、 他人が考えてるただの脳内文章の垂れ流しを わざわざ読むという奇特な人の心理状態はサッパリ分からない。 私の脳内なんぞ、誰も興味がないだろうと思って、起承転結を考えることもなくただ垂れ流しているのですが、 こんな読みにくくて、共感も覚えられない、気付きもない文章読んでても何の生産性もなくない…? 結論としては、「生産性がないことが好きなんだな」と思っておきます。 SNSが好まれる
なぜ、藝術は高値で取引されるのか 高尚なる芸術家の魂が尊重されて? 世界で一人にしか紡ぎ出せない文脈があるから? 誰しもが所有したくなる需要があるから? 全部の素養はあるんでしょうけど、 ぶっちゃけ、 金を生み出すからでしょう。 資本主義っていうのは、そういうものじゃないでしょうか? いや、良いんですよ。 別に金持ちの道楽として「ワシ、この絵めっちゃ好きだから買うわ〜」って無名の画家の絵を買い上げるような趣味の世界があっても。 「ワシの目利きは一流だから、
加速度的に出生率が低下し、家庭という最小単位の社会の維持が困難になっている時点で、一夫一妻制の結婚制度は崩壊していると言えると思うのですが、 じゃあ一夫一妻制を廃止すれば良いのかと言うと、そういうことでもないのではないかという考察です。 なぜ結婚する人は増えないのかそもそも一夫一妻制を維持するのに不可欠な要素は、同調圧力なんじゃないかと言ってしまいます。 社会的に「結婚は万人がすべきもの」という考えが蔓延していたということです。 そのため、 ・結婚しなければ社会的評
ずーっと考えていると頭がパンクしそうになるので、手記の代わりにNOTEを利用している。 手で書くことで連鎖的に繋がる思考と、そこからひらめく発想もあるが、脳内の情報を整理するのに文明の利器を選択するのは愚かではないと思う。 フリック入力や音声入力は、筆記やタイピング速度を超えた。利点は入力速度のみならず、手元にいつでもある手軽さもある。そして、情報検索の容易さが、デジタル情報化の最大のメリットだろう。 ・ 来週の展示会を控えて、改めて私個人の「創作テーマ」について考え
「自分という存在が消滅したら、宇宙そのものが消滅する」 という説がある。 宇宙というのは一人につき、一つ存在するという考え方だ。 私はこの説が結構好きで、それが本当なら、世界はもっと自由だと思う。 そもそも物質を構成する素粒子は、観察者が観ている時に初めて存在するという科学的論拠は、ずいぶん昔に発見されている。 二重スリットの実験 宇宙を観測する「私」が消滅する時、「私の宇宙」そのものがなくなる。 なんとも壮大な話だ。 意識しなければその存在を捉えられないもう
人は、認められたい生き物だ。 おぎゃーっと生まれて、魂が肉体を離れるまで、人間は認められたくて生きている。 命を繋いでくれたお父さんもお母さんも、偉そうにふんぞり返ってる彼も、今にも消えてしまいそうな彼女も、あの子もその子も、みんな認められたくて生きている。 だから相手に愛情を送りたければ、「認めてあげること」が最短の近道だ。 「そこにある」ということを認めてあげること。 あるがまま、相手をただ「在る」と認めること。 人間はこれが中々難しい。 つい、自分の物差し
芸術って何だと思いますか? 実は芸術に携わってる人間ですら、芸術ってのはいったい全体何なのか、よく分かってないんですよ。 さる芸術家は「芸術とは宇宙だ」と言いました。 「宇宙的ではなく、宇宙そのもの」だと。 意味がわかりません。 画像は宮城県カメイ美術館に飾られている烏山邦夫氏作成の「宇宙賛歌」ですが、なんと制作には100種類以上、7,000枚もの蝶の翅が使用されているそうです。 なんかもう一種の狂気すら感じます。 芸術家の仕事私は思うんですけど、一般的に「マジで