人が行動する理由は理屈ではなく感情だ
人が行動する理由
または行動しない理由は、感情だ。
先日、
ショタ系ラブドール所有感を描いた漫画が、
ツイッターで炎上を起こした。
炎上の内容はこうだ。
「小児性愛者は危険だ」
「ラブドール(捌け口)がなければ小児性愛者は現実の少年に加害する」
といった内容が散見された。
これに小児性愛当事者及び、性嗜好マイノリティが真っ向から反論。
論点は「現実と非現実の区別をつけられるかどうか」になった。
私の結論は、こうだ。
人は、気持ち悪いと感じたら排除しようとする。
それ以上でも、以下でもない。
理論が正しいとか、正しくないとかは関係ない。
人は、キメェと感じた時には既に、相対する理論なんか耳に入らない生き物なのだ。
「キメェとは思うが、供給のあった違法ではない商品に手を出した行為を犯罪予備行為として扱うのは納得できない」
と思うあなたの感情もまた正しい。
小児性愛への不快感情よりも、他人の価値観を尊重できる自分でいたい、他者への理解を示せる人でありたい(引いては自分も理解を示されたい)という感情が勝っているだけの話だ。
では、例えば、実際に小児性愛の被害にあった人間はどうだろうか。
大切な身内が、被害にあわされたことのある人間はどうだろうか。
答えは「知ったこっちゃない」ではないだろうか。
100万歩譲って「現実に被害を及ぼさない小児性愛という欲求の存在を認知できる」としても、「現実の被害者の気持ちを知ってもらいたい」という感情の方が、何倍も勝るのではないだろうか。
そんな人達の言動を止める言葉など、存在しない。
議論が無駄だとは言わない。
中立な立場で物事を観察できる人間が、他者の価値観を汲み取るという利点が生じるので。
だが、感情同士がぶつかりあっている者同士の議論は、平行線を辿る。
これは人間の特性として理解していた方が無駄が少ない。
自分が議論をしたい時、そこにどんな感情が生じているのか、まずそこを理解した方が良い。
不快なのか
相手を打ち負かしたいのか
悔しいのか
悲しいのか
力を誇示したいのか
理解されたいのか
その感情を理解していなければ、
議論は感情に引っ張られる。
相手の意見など耳に入れる余裕もなくなり、
建設的な討論は期待できない。
同時に、対峙する相手の感情にも意識を集中した方が良い。
その感情が解消されない限り、相手は聞く耳など持たない。
これがコミュニケーションの極意であり、建設的な議論をする上で欠かせない土台作りだ。
感情的になっている相手とは議論をしない。
これもまた、互いのパーソナルを守る上でも必要なことだ。
不特定多数で匿名性の高いインターネットでは、一方通行な感情のやりとりしかできず、議論は炎上という形で現れる。
もう一度言うが、それはけして社会的な無駄にはならない。
だが、議論当事者一個人の成長に繋がるか…と言ったら…
家で泣きわめく二歳児の子守をする方が、圧倒的に自己成長に繋がるだろう。
さてあなたは、この意見を読んで、どのような感情を感じただろうか?
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