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noteは等身大で書く
前回の記事で、noteでの書き方に迷っていると、書きました。
今日は、私なりのその答えです。
結論は
等身大で書くです。
エゴをえぐろうが、それを書きたいなら書きます。
大切なのは、書いているときの私がどんな状態かなのでは?と、思ったので。
どんな綺麗な言葉で書いたとしても、書いている私が恐れや不安の気持ちから、ボロを出さないようにと考えていたとしたら、そのほうが読んだ方はよっぽど不快になるだろうと、思いました。
読み手をバカにしちゃいけませんね。そういうのは、伝わってしまいます。どんなに何かを伝えたかったとしても、それを読んだ人の誰のこころにも届かないでしょう。
そもそもが私の恐れから出てきた疑問だった
前回の記事で、読んだ方が不快になるかもしれない云々と書いてあります。これ、一見人のこころを思いやったように見えて、実は私の恐れから出てきたものです。
誰も読んでくれなくなったらどうしようとか、誰にも受け入れられなくなったらどうしようといった類の恐れや不安です。
いかにも、私らしい恐れです。人に嫌われてはいけないという思い込みをこころの奥に強く持って何十年も生きていた時期があったわけですから。
何十年という月日をかけて育て上げてきた恐れは、ふとした瞬間にこうして出てきます。
その恐れ、どうする?
どうしても恐かったら、書かなければいいんです。そうすれば、私が恐れていたことは起きません。
これ、別に間違いじゃないんです。
あまりにも恐れが大きいならば、言葉で表現すると「逃げ」「退却」という選択をしてかまわないんです。そうした方がいい場合だってあります。
ただ、今回の私の恐れは、退却したら後悔すると思われます。
だって、書きたくて始めたnoteですよ。書きたいことがあったのに。
それなのに、人からどう思われるかにとらわれて恐れるあまり、本意ではない書き方をし続けたらどうなるかは既に別の様々なことで経験してきた気がします。
違和感やモヤモヤにこころが覆われてしまって、何も楽しくなくなります。
ですので今回は、恐れに飛び込むという選択をします。
師からやれと言われたわけじゃありません
自分のエゴをえぐってしまうようなことを、師から教わったわけではありません。他の人から、教わったと思ってます(笑)
師は、出てきた思考や感情を深堀りする必要はないと、教えてくれました。原因を探す必要もありません。その思考や感情を理由に自分を責めることも、全くする必要がないと、教わっています。
それでも、師から学んだことをやり続けていたら、(私だけかもしれませんが)勝手に、そういう作業がやりやすくなっていて、スルッとやってしまっていたというだけです。
一度何かで、自分の恐れに飛び込むということをやったら、まいったな~と思うような痛みはあったものの、その後は脱力して楽になってしまったという経験をしたのです。
一度味をしめるとまたやりたくなるじゃないですか。
人を責めたり苦しめたりするためじゃない
私には、何事も最終的には自分の内側に意識のベクトルを向ける傾向があります。
ですので、時には徹底的に自分の痛いところを突いてしまします。
これまでに様々な人から学んできたこころに関することを、自分のこころの動きに照らし合わせることで、納得して腑に落とし続けたいという願望が、私は強いようです。
これはもしかしたら、ストレングスファインダーの「内省」の性質を上位に持っているからなのかもしれません。
なので、誰かの参考になったらそれは嬉しいことですがそうならないとしても、こんな人もいるのよという一例だと考えて、書いていきます。
ふうとはこんな人↓
★師から学んだことを続けてたどりついた、母への思いはこちら↓
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