歴史主義の貧困:極私的読後感(28)
カール・ポパー(Karl Popper)は、広く影響を与えた割には、一般的知名度が低い哲学者だ。
本書では、「歴史主義(historicism)」者に対しての批判を容赦なく繰り広げているが、この批判の現代的な意味について、考えてみる。
先ず、ここで言う「歴史主義」とは何か?について、凡例を参照してみる。
歴史主義という用語は多様な意味で使われる。ポパーのhistoricismの訳語としても、決して定訳ではない。historicismの訳語はさまざまに工夫されてきた。本書の旧訳、1961年の中央公論社版(久野収・市井三郎訳)は括弧付きで≪歴史主義≫としている。内容の解釈を含めて「歴史法則主義」、「歴史信仰」と訳されることもある。研究書では「ヒストリシズム」とカタカナ書きされることも多い。(凡例より抜粋)
何かを語り、主張するとき、その事の再現性や反証可能性を説明するのが難しい場合、往々にして過去の歴史法則のようなものを頼りに、我々は説明することがある。曰く「過去、Aが起きた後はBが起きている」などなど・・・
ここで肝心なのは、BがAを惹き起こすという説明、立証(同じ条件を整えれば再現すること)出来るか?だけではなく、それらが反証が可能であるか?ということも問われる、ということだ。
反証可能、とは「どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」(Wikipedia ”反証可能性"より)という考え方であり、批判や反証を受け入れない言質は科学ではない、という考えだ。
が、歴史学や、歴史を援用して何か事を為そうとする人は、往々にしてそこを「自らの信ずる解釈」に頼ることが多く、かつ、その人の信念に悖る反論を赦さない姿勢を取ることが多いのだが・・・。
ポパーの主張する「歴史主義」を、極めて簡略な説明すると、こういうことになろう。その上で、次の引用を見ていただきたい。
社会の全体的で具体的な状況が科学的に記述された事例というのは、過去に一つも存在しない。そのような場合、必ず<そこでは無視されているにもかかわらず、何らかの文脈においては最も重要になりうる側面>を容易に指摘できるため、そのような記述は不可能なのである。(p.138)
ポパーが言いたいことは、歴史から教訓を得るにあたって、恣意的、かつ反証が不可能な解釈を戒めているのだ。序言でも明確に挙げている。
(1)人間の歴史の道筋は知識の成長に大きく影響される、
(2)合理的または科学的方法により、人間の知識が将来どのように成長するかを予測することはできない、
(3)したがって、人間の歴史の将来の道筋を予測することはできない、
(4)このことは、理論物理学に対応するような理論歴史学が成立不可能であることを意味する。歴史の発展に関して、歴史的予測の基盤となりうる科学的理論というものはありえない。
(5)それゆえ、歴史主義の方法の根本目的は、誤って構想されている。歴史主義は破綻する。
(p.12 はじめに)
ポパーに大きく影響を受けたと言われるナシーム・ニコラス・タレブも「ブラック・スワン」の中で『人間は将来を予測するのが極めて苦手である』と書いているが、まさにそういうことだ。
歴史主義者は自分のお気に入りのトレンドを固く信じており、そのトレンドが消滅する条件など考えられないのである。歴史主義の貧困とは、想像力の貧困であると言っていいだろう。歴史主義者は常々、自分たちが生きている狭い世界の中で変化を想像できない者を非難するが、創造力を欠いているのは、変化の条件が変化することを想像出来ない彼ら自身であるように思える。
(p.212)
ポパーは、では何故、これほどまでに「歴史主義」を憎むのか?本書の巻頭には、ポパーの想いが短く書かれている。
歴史的運命の不変の法則というファシズム的、共産主義的信念の犠牲となったあらゆる信条の、あらゆる国の、あらゆる民族の無数の男たち、女たち、子どもたちを偲んで。
そう、いわば「御都合主義」的かつ「独善的/反証を赦さない」歴史認識と解釈が、共産主義や全体主義、ファシズムを生み出し、その結果として、ホロコーストなどで多くの犠牲者を生んだことに対する、反省と怒りがあるからなのだ。
巻末の解説(現日銀総裁の黒田東彦氏)に、次のようなポパーの本書執筆の背景の説明がある。
彼の「反証主義」自体がマルクス主義哲学などな対する批判から生まれたことを見逃すわけにはいかない。すなわち、両大戦間の混乱期に、ウィーンでは、マルクス主義者たちが毎日のように起こる事件すべてマルクス理論の正しさを立証するものと主張していたが、これに違和感を覚えたポパーは、そのころ有力だった理論の「検証主義」を疑うようになったのである。
(p.259 解説)
さてどうだろう。
昨今の保守、右翼、リベラルや左翼、メディアから何から皆、「毎日のように起こる事件すべて"自説"の正しさを立証するものと主張」してばかりいて、現実には何も説明していないものに溢れているのではないのか?
そう、ポパーの「批判的合理主義」と言われるこれらの考え方は、絶対的な真理を前提とした組織は、必ず腐敗して人を不幸にする、という、ポパーの強い信念があるからだ。それは、彼がナチスのオーストリア併合を逃れて、生まれ故郷のウィーンを追われたこともあるのだろう。
コロナによる自粛などで、他者に対して不寛容になってしまっている今こそ、学ぶべきは、このことではないだろうか?
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