極私的読後感(6) ハンナ・アーレントの言う"悪の陳腐さ"について

期せずして、映画『ハンナ・アーレント』を観ることが出来た。

ハンナ・アーレントについてご存知無い方は、Wikipediaか上の映画予告編で人となりを見ていただきたいが、日々の仕事に関わる大小様々な意思決定に密接に関わりのあり我々が省察すべき事柄を非常に多く含んでいるのが、この映画の元になった彼女の著書『イェルサレムのアイヒマン~悪の陳腐さについての報告』である。

ここで言う「悪の陳腐さ (the Banality of Evil)」というのは、様々な意味を包摂している。この本で言えば『悪事に加担した人が、真面目に勤勉にその悪事を処理した』ことになるのだが、

この本の主人公であるナチスドイツの親衛隊将校、アドルフ・アイヒマンは、イェルサレムでの裁判の最も後半の陳述で、次のように述べている。

私の考えでは、ユダヤ人に対する殺人及び絶滅行為は、人類史上最大の犯罪の1つであります。私個人としましては、当時から、この暴力的な解決策を不正行為だとみなして参りました。遺憾ながら、私はその行為について、職場に忠誠を誓っていたため、移送作業(注・ユダヤ人の強制収容所への移送)に協力するはめになりました。誓いからは逃れられなかったのです。内心では責任を感じませんでした。罪の意識は全くなく、むしろ喜びました。実際の殺戮に手を貸さずに済んだからです。私に命じられた任務は十分に多く、事務の仕事は私向きでした。命令通りに任務を実行しました。私はいかなる場合でも、義務を果たしました。

この証言は、『スペシャリスト 自覚なき殺戮者』という映画の後半に、アイヒマン本人から語られている様を観ることができる。

このドキュメンタリー映画も併せて観てみたが、途中の供述では、本当に罪の意識が全く感じられず、全ては「組織や上司の命令」を忠実に実施しただけであり、自分に罪はない、という主張で終始一貫している。

被告、アドルフ・アイヒマンはナチス親衛隊(SS)の中佐であり、ゲシュタポ(秘密国家警察)の中で「ユダヤ人課」の課長として、ユダヤ人の移住(強制収容所への移送)の責任者であった。しかし、言っていることは、まさに「小役人」そのものである。

『日本海軍400時間の証言~軍令部・参謀たちが語った敗戦』という本が手元にある。思うところある度に手に取り、もう既に3度程読んだだろうか。

この本は、戦後、海軍軍令部に在籍した参謀を中心に開かれた「海軍反省会」という会合の録音テープから紐解かれた過去の反省をまとめたノンフィクションである。この本の中で、幾度も繰り返されるフレーズがある。

それは『やましき沈黙』だ。

これはこの本の第三章のタイトルでもある。第三章のテーマは、”特攻”だ。

反省会に参加していた人々は、ひとりひとりは、個人的には、特攻を絶対にやってはいけない非道な作戦だと考えていました。
しかし、特攻については戦争中も、戦後になっても、明らかにすることはなく、その結果、特攻が誰によって始められ、どのように進められていったのか、ほとんど公になることはありませんでした。
そうした海軍の体質を反省会のメンバーの一人が”やましき沈黙”という言葉で表現していました。 (p.292~293)

この”やましき沈黙”も、言い換えれば”悪の陳腐さ”に、通じる。

これに似た本が『検証バブル 犯意なき過ち』だ。この本も、幾度も読んだ。タイトルから分かる通り、バブルの”当事者”たちを、日経の記者が丹念にコメントを採って書き上げた(個人的に)名作ノンフィクションだ。

この中でも、次のような言葉が出てくる。

痛みのある決断は自分だけでなく先輩たちの責任を問うことになる。現場がつぶやいた小さな「ノー」は決して大きな声となることはなく、問題の先送りを許した。小さく済んだはずの傷はバブル崩壊後の不況が深刻になるにつれて次第に大きくなり、企業を存亡の淵へと追い込んでいった。
(p.268)

昔放映されたNHKスペシャルの中で『自分が部下を統御する立場にもかかわらず、自分が部下に統御されている』という、陸軍の作戦部長の回想があった。全く馬鹿げている。陸軍中将でありながら、なんと無責任で、陳腐な回想をするのだ?

・・・と、過去の軍人や犯罪者を裁いたり論難するのは、たやすい。

しかし、事の軽重の違いはあれども、誰もが、その属する組織の中で「やましき沈黙」を味わったり「問題の先送り」をした覚えはあるだろう。本当に大切な判断は、他人には決して委ねてはいけない。

そして、最も大切なのは、そういう意見を殺さない組織であるべきだ、ということだろう。

それが難しいからこそ、歴史は繰り返される。

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