崩れゆく部屋と透明な建築の呼応—「ペドロ・コスタ 世界へのまなざし」
この文章は、2005年にせんだいメディアテークで企画した上映と展示「ペドロ・コスタ 世界へのまなざし」(2005年3月19日-29日/せんだいメディアテーク7階スタジオシアター、6階ギャラリー)に際して、未来社のPR誌『未来』(2005年3月号)に寄稿したものである。今思えば暴挙としか言いようのない仕事だったが、それもさまざまな人たちの協力_それを友情と言ってもよい_によるもので、これを書く機会を得たのもその一例である。
初出:『未来』No.462(2005年3月)
まるで作り話のようなエピソードだが、はじまりはペーパーナプキンに描かれたスケッチであった。2003年の冬、現代の映画作家を代表する一人と言われるペドロ・コスタが、小津安二郎生誕100年記念国際シンポジウムのためにポルトガルから東京を訪れ、その足でレクチャー「蓮實重彦 映画への不実なる誘い」のゲストとして仙台に来てくれることとなっていた。夜、小さな料理店で『ヴァンダの部屋』について話すうちに「こんなアイディアがある」と言って、手元にあったペーパーナプキンにふたつのスクリーンを並べたインスタレーションのことを描き始めたのである。それが「ペドロ・コスタ 世界へのまなざし」を企画する発端である。
その会場となるせんだいメディアテークは、2001年に開館した図書館、ギャラリー、映像メディアセンターやワークショップスペースをふくむ複合文化施設である。「チューブ」と呼ばれる不規則に配置され、ねじれながらフロアを貫く鉄骨の構造体に支えられたこのユニークな鉄とガラスの建築は、設計者の伊東豊雄が「アンダー・コンストラクション」と呼んだように、建築が完成した後も、利用者のふるまいや時代の変化に対応して変わり続ける場となることを目指したものである。従来の方法やジャンルにとらわれない事業運営が目指される一方、その新しさとは相反するかのように、この空間は普段使いの場所でもあり、毎日3000人以上の人々が訪れている。本を読み、映画や美術を鑑賞し、自分たちでグループ展や自主上映を企画し、時には待ち合わせの場所にも使われるなど、それぞれの活動を仕切る壁が少なく、すべてがゆるやかにつながるこの空間のなかで、人々は思い思いの時間を過ごしていく。
映画をとりまく仙台の状況に関して言えば、市街にも映画館が残っており、他の地方都市に比べて恵まれた環境であると思われるが、先駆的な作品の特集や回顧上映といったものはほとんどない。そこで、メディアテークは映画文化のひとつの拠点となるべく、企画上映やワークショップを行っている。それに私が携わるようになって4年経つが、最近少しずつこの場所を介して映画をめぐるつながりができてきたように感じる。
ところで、5年目を迎えるこのメディアテークでペドロ・コスタをとりあげるのは、もちろん冒頭に書いた偶然だけが理由ではない。溝口健二や小津安二郎など映画史上の巨匠を思い起こさせると同時に、独自の感性を持った映画でもある彼の作品は、その誕生から1世紀をわずかに越えた映画というメディアの、次の可能性を見せてくれるものである。それは、メディアテークのコンセプトのひとつ「最先端の精神を提供すること」_それは単に新しいテクノロジーを追うことではなく、状況に応じた新鮮な知と驚きを伝えることを意味している_に通じる。特にヴィデオ・インスタレーションによる『ヴァンダの部屋』は、今日数多く見かけるビデオプロジェクターを使った美術作品に対する、映画作家からのひとつの応答ともなるのではないかと思われる。
また、上映だけではなく、展示や、国内外の執筆者による批評によって作品世界を立体的に提示しようとするのは、メディアテークのような新しい文化の場で、現代的・複合的なメディアである映画をどのように見せるのかという試みとも言えるだろう。日頃、このようなことを仕掛けると、メディアテークの存在そのものもふくめ「なぜ東京ではなく仙台で?」と問われることがあるが、首都圏と地方都市の環境の違いがあるのは事実にせよ、そういった課題に取り組むことに中心-周辺の違いはもはやないように感じる。ペドロ・コスタがいるポルトガルもヨーロッパにおいては西端に位置しているように、むしろ、中心からはずれたところにこそ事が起きる可能性があるとすらいえるかもしれない。
さて、今日における映画文化の先端を紹介することであり、メディアテークが続けてきた試みの新たな段階でもあるこの企画だが、そのなかでもひとつの核となっているのが、メディアテークという建築とのコラボレーションともいえる『ヴァンダの部屋』ヴィデオ・インスタレーションである。それは、縦横20m以上に広がる空間を使い、天地を貫く2本のチューブの間に正対して吊られた200インチのスクリーン2枚と、四方から中心へむけられたライブ用のスピーカーで構成され、見る人は、スクリーンそれぞれに部屋の内部と外部が映され、同様に内部と外部の音響が鳴り響く空間にしばし身をおいて体験することになる。いわゆるホワイトキューブですらない、極めて独特なこのギャラリーは、そこに展示されるものとの呼応によって、ひとつの場としてその都度新たに立ち上がってくる作品そのものとも言えるだろう。さらに、その呼応を十分に見せるため、暗室を作らずギャラリーの仕様そのままで夜間のみの展示とし、ガラスの壁面を通して屋外が見えるようになっており、スクリーンに映る崩れゆくスラム街の向こうに、見慣れた街の夜景が遠く見えることになる。かねてからこのギャラリーは、展示空間の中心にあるチューブやガラス面からの外光によって、非常に特異な展示空間、ともすれば展示には向かないとすら言われることがあるが、今回、その建築的個性と正面から組み合う作品にはじめて出会ったとも言えよう。崩れゆく部屋と現代的な建築、そして都市の日常、交錯するイメージにまなざしを向けることは、ここでしかあり得ない出来事なのである。
監督と交わしたメモには、「very loud!」とあった。一方で、建物を破壊するノイズに交じって、鳥の鳴き声や人のささやきが響くようにしたいとも語っていた。ガラスと鉄に支えられたこの透明な建築のなかでは、空間を満たす映像と音響につつまれながら、そのささやかな声も聴きとれることだろう。