見出し画像

『言語の向こうにあるもの』(監督:ニシノマドカ/2019年)

1990年代半ばに地方の国立大学に入学し、そこで語学の授業をとった身としては、正直なところ実際に見る前までさほど期待していなかった。フランスはパリの大学とはいえ「外国語としてのフランス語講座」なるものがそれほど魅力的なドキュメンタリー映画になるとは思えなかったからだ。

しかし、その予想は大きく外れる。まず、この授業がおそらく多くの日本人が想像する「語学の授業」からかけ離れたものであったから。それがこの映画の魅力の何割かであることは間違いないだろう。二人の教師(ニコールとフェルージャ)による「執筆活動とジェンダー(社会的に形成された性)」「文学作品:小説から映画へ」という題材の授業は、それ自体が授業の主題であり、教師は矢継ぎ早にその分野の人物や作品の名を挙げ、問いを投げかける。そして、さまざまな文化圏から集まった学生たちはそれぞれの意見を述べたり議論をしたりする。中にはフランス語がたどたどしい者もいる。文法を直される者もいる。一方で、フランス語でうまく説明できないと悩む学生に「誰かが訳してくれるだろうから母語でかまわない」と教師は言う。この授業はフランス語を学ぶ授業ではなかったか。たしかにその通りなのだが、ここでまず重要とされているのは「自分が言いたいことを自分で語る言葉を身につけること」なのだ。

移民や難民に対して外国語を教育することへの善に隠された問題を留保はするが、この信念は教育の本質を突いているように思う。もちろん、私の経験した語学の授業も教師たちはさまざまに工夫をしてくれていた。映画や文学を教材にしたり、戯曲を実際に演じてみるという授業もあった。しかし、それらはみな自分の内側から湧き上がるものを表現するために語学を学ぶのではなく、あくまで外国語に興味を持ってもらうために芸術や時事を取り入れているに過ぎない。自分の言いたいことを言うのはその言語をある程度習得してからである。この映画で記録されている授業とは、教わる側、そして教える側の在り方が根本的に違う。

次に私の予想を覆したのは、この映画が決して撮影も編集も上手とは言えない、しかしながら、ある種の幸運としか言いようのないものに支えられていることである。二人の教師を追うために二つの授業を行き来するため編集はやや混線し、ときには一方の教師の授業中にもう一方が教室のドアを開けて半身のまま話続け、そもそも授業が混線しているときすらある。また一人ですべて撮影をしているためであろう(実際には録音も編集もすべて一人である)、必要なショットが十分に撮れていないようにも見受けられる。さらには時折挿入される白黒のフッテージによる授業風景も一見唐突だ。幸いにして私はこの映画を続けて複数回見ることができたので(兼務している宮城大学での講義と図書館でのイベントで上映したため)、それらの混線が生み出す奥行きに気がつくことができたに過ぎないかもしれない。

ただ、主人公の教師の一人が自宅で夕飯を支度をしながら不意に自身の生い立ちについて語る場面_そこではクスクスを作っており、「アルジェリア」という言葉が発せられる_に到って、カメラ越しに話しかけられた監督の戸惑いには共感せざるを得ない。多くのドキュメンタリー映画作家がやろうとするように自分の気配が映り込まないよう撮っていた監督も、あっけらかんと重大なことが自分に語りかけられるこの場面を切ることができなかったのであろう(それとも、別に編集者がいたら切っただろうか)。しかし、そのような場面にカメラを持って居合わせたことは一つの僥倖である。注意深く見直してみると、この映画が多くの幸運な不意打ちに支えられていることに気がつく。

最後に、映画としての評価とは別に、曲がりなりにも教育学を出自とし、大学でも仕事を持つ人間としては、語学教育に留まらず、高等教育に携わる人々にぜひ見てほしいと思った。残念ながら劇場公開や配信はされていないが、山形国際ドキュメンタリー映画祭から比較的安価に借りることができるので、大学の講義や教員研修などで小さな上映会を開いて見ることをお勧めしたい。


『言語のむこうにあるもの』(監督、撮影、録音、編集:ニシノマドカ/2019年/97分)

作品貸出について(山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー)

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集