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友人とカルチャーショック

二度の激しいカルチャーショックを受けた祝日となった。

「ショック」と言っても、想定外だったわけではない。たまに顔を合わせる、明らかに自分とは「文化」の違う友人二人に連続して会った1日だった、という方が正しい。「あぁ、やっぱりカルチャーショックだ」と自分のとの違いを噛み締めながらも、それが学びというか気づきに繋がることが多い。

一人目のカルチャーショックは、大学の後輩。この人は、実家が太く都内某所にあるTier1のタワマンにほぼ一人暮らしで3LDKに住んでいる。近況の中身には、タワマンで知り合ったほぼ芸能人のような美容師の話や「恋人」と呼ぶキャバ嬢の話が当たり前のように出てくる。平日はフルタイムでサラリーマンをしているが、毎晩のようにタワマン仲間たちと飲んでいるらしい。小学校からの友人には、プロのフィギュアスケート選手、サッカー選手、歌手、など多種多様な分野で活躍する人たちがいるらしい。

自分が生きているコミュニティとはまるで別世界のライフスタイルと人間たちの種類と繋がって生きている。何が驚きか説明するまでもなく、ほとんどすべてが驚きなのである。

この人が特徴的なのはとても「人と繋がるのが上手」ということだ。自分のマンションに住んでいる人と仲良くなるなんてことは想像できない。ある意味「甘え上手」だったり「弱みを見せ上手」だったりする。そうした超高級マンションの住人なら当然社会的ステータスが高いことがおおく、そこで繋がりを持つことでビジネスの展開や新たなアイデアへの遭遇があるように思う。

もうひとりのカルチャーショックは、某金融会社に勤める社会人の先輩である。この人は自分でも「仕事に依存している」と言うほど仕事に人生の全力を注いでいる。上司のマネジメントの仕方、部下のマネジメントの仕方、クライアントとの接し方、仕事の進め方など仕事のすべての動作について自分なりの分析を持っている。当然仕事の実績は社内でも飛び抜けていて、界隈ではある種有名人であるそうだ。

自分がとても気になったのは「なぜそんなに仕事に力を注ぐのか」ということ。言葉を選ぶのはとても難しかったが、率直に聞いてみた。回答としては「社会(会社や業界)での自分の評判が下がって、周りに必要とされないことを恐れているから」ということだった。

正直、私には理解できない。ロジックとしてはわかるし、そのような恐れがモチベーションになることも理解できる。しかし、彼ほどまでに賢く優秀で、且つもうすでに人生に必要な最低限の現金を持っているにも関わらず、何がそんなに怖いのだろう。その恐怖が止むことはないのだろうか。その恐怖から逃げるように仕事をして、いつただ自分の幸せのために時間を使うのだろうか。仕事ができる人は自分が小さい、というがまさにそれである。自分がやりたいことはないようだ。こんなにも極端に仕事に自分の人生を触れる人間なんて、世の中にいるものかと驚いてしまう。

カルチャーショックは決して悪いものではない。自分とはあまりにも違う価値観の人間に触れると驚きの連続で面白い。自分がそうなりたいかどうかは、一人で落ち着いて考える時間が必要だが、その視点は他では得られない価値がある。

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