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人生に必要なのは、「学歴」でも「容姿」でも「コミュ力」でもない。

とされたら、あなたは何と答えるだろうか。

これはどう考えても

「鈍感力」


これに尽きるでしょ。
渡辺淳一先生も書いておられるようだが、
圧倒的にこれな気がする。

適応障害で休職している私の視点で語るのだから
アレなのかもしれないが、
「鈍感力」が私に身についていたら
さぞかし楽しい人生だったんだろうなぁと週8で思っている。

当初は「鈍感力」ではなく「強靭なメンタル」と表記していたが、
「鈍感力」の方がしっくりくる気がした。

ともあれ本屋の自己啓発本コーナーに
「メンタル」系の本が乱立していることを考えると
あながちこの仮説は間違っていない気がする。

どんなミスしても、どんな大きなプレゼンを前にしても
「学歴」「容姿」「コミュ力」ではなく
「鈍感力」がすべてを包み込んでくれるのではないか。
と、真面目に思ってしまう。

同時に、人生に「真面目」はそこまで重要ではないとことも実感している。
だって「真面目」がウリの私はこうして元気に病んでいるのだから。

どこかの記事でも書いたが
「真面目」が良いと推奨されているのは
「真面目」と関わると、自分がラクできるからである、と思っている。
学校の先生や親が「真面目であれ」と諭してくるのは、
そういう子どもだと自分(先生や親)がラクだからである。
もっと言うと、
「真面目」であれば、他人からやっかみがなく、外部から攻撃される可能性が低いため、先生や親はそのような確率を子どもたちから遠ざけるために
「真面目であれ」と言っているんだろう。

得てして「真面目」がウリの人間は、
そうでない人種から搾取されて生きている。(本人は搾取されているとは思っていないだろうが)
利用されていることも「真面目」だから、
【人の役に立っている】と勝手に変換している節がある。
いびつな関係に見えるかもしれないが
それらの関係はお互いにWinWinで成り立っているので、
誰も咎めないし、問題にもなってこない。

と、話が「真面目」になってしまっているが、
人生で大事なのは「鈍感力」である。

メンタルクリニックや精神科病院に
ヤンキーや素行の悪いひとたちを見たことがあるだろうか。
私にはその手がお行事よく病室で待っている様子を見かけたことはない。
それが本仮説の一つの裏付けにもなっている。

どうも
・鈍感
・ヘラヘラしている
・図太い
・無責任
はネガティヴイメージとして捉えられがちだが、
こと、病むことなく、健康的に生きるという点においては
上記属性は当たり能力だと思っている。

サービス業をしている妻から
「今日接客したひと、あまりに何も考えていない行き当たりばったりな価値観で行きている感じがした。でも家族がいて、みんな笑顔だったよ。あんたも少しはその価値観分けてもらいなさいよ」
と言われた。
確かに、真面目で(比較的)高学歴な私が病んでいるのにも関わらず、
上記のような行き当たりばったりな生き方をしている人の方が
幸せそうに生きている、
そんな現実を突きつけられると
「真面目」とはなんなのか、「幸せに生きる」はなんなのか。
と考えてしまう。

もっと言うと、
そのような「鈍感力」「ヘラヘラ属性」は後天的なものでなく
先天的な要素が多い能力だと思う。
よって、努力や環境で会得できるものではない。
(会得できたとしても、おそらく80%程度のもの。純粋な100%は会得できないだろう)
となると、
やはりひとの幸福は、遺伝子で決まってしまうのではないか。
という悲しい現実を思わずにいられない。

だからといって、
「真面目」なあなた(わたし)は100点の幸せを得られませんー
と言われても割り切れないし、ムカつくし。
ということで、
後天的に得られる「鈍感力」を最大限身に着けるべく、
我々はアマゾンの奥地へ向かったのだ・・・




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