日曜日
日曜日の朝。
いつものドーナツショップでいつもと変わらずコーヒーをすする。いつも通りおいしく、いつも通りスタッフの方はかんじがいい。でもいつもとちがうのはここへ来るまでの道のりだ。徒歩や自転車やバスじゃない。自分で車を運転してここまでやってきた。
39歳で自動車の免許を取得し、わが家に車がやってきて一週間が経った。毎日運転しているので毎日緊張している。かなり。自宅を出発するときや目的地に到着したときはもちろん、途中の直線道路でも信号でもいちいち深呼吸をくり返すので、運転しながらロングブレスダイエットをしている感覚だ。やせるかも。
昨年の秋のこと。
うちのパンクロッカー、あ、またの名を74歳の父が事故を起こした。みずからカーブミラーへ突っ込んで無傷で生還し、見事に廃車にしてからはわが家に車がなかった。父の通院や私の通勤において、車がなければ正気のメンタルを保つことが困難なこの北海道釧路市で、忘れることのできない濃密すぎるひと冬を経験した。
年明けから新しい職場と自動車学校へ通いつつ、親戚のつてで中古車を探してもらっていた。小ぶりで安全に走ればどんなものでもかまいませんとお伝えすると、間もなく写真が届いた。ひとめぼれ。私の中で想いえがいていたそのままの姿がそこにあった。ころんとした輪郭。やわらかな色み。
『二宮さん』と名付けた。
いっそう愛らしく感じられる。
丁寧に大切に乗っていこうと愛着が深まった。
納車当日の朝は妙な感覚だった。わくわくしてるのに実感が湧かない。本日わが家に二宮さん(車)がやってくる。自分がそれを運転する。にわかには信じがたい事実だ。仕事をしながら一日中そんな具合だった帰り道、鹿に遭遇した。
3頭の鹿さんが土手で草を食んでいた。はむはむはむはむ。はむはむはむはむ。急な斜面を器用にとことこ進み、はむはむ食む。めんこい。20年ぶりの地元は鹿との遭遇率が急上昇し、目が合うと視線を逸らさない生き物であることを知った。しばし眺めていたかったが、納車に遅れてしまうので自転車を走らせた。
しかしその直後、今度は4頭の鹿さんに遭遇した。合計7頭。やや、これはきっとメッセージだ。思い出深いステキな納車を迎えるにちがいないと、なんの根拠もなく確信が生まれた。立て続けに7頭もの鹿さんと遭遇したのだ。これほどミラクルなこともそうはないだろう。
期待を胸に帰宅したのだが、そうは問屋が卸さないのがうちのパンクロッカー、あ、父だ。空前絶後に機嫌が悪い。ふむ。信頼と実績。父は昔からイベント事があると機嫌が悪くなるはた迷惑な習性があった。運動会とか、キャンプとか、年末年始とか。令和の時代もそれは健在らしい。
なんだなんだ、どうしたんだ?そうかそうか、体調がよろしくないのか、え、なに?おそば行かないの?納車したらおそば食べに行きたいって父さんが言ったんでしょうが?あーはーそーですか、行かないんですか、ハイハイわかりましたよー。
好都合。ぶっちゃけおそばどころではなかった。さっそく運転の練習をしなくてはそもそもおそば屋さんにたどり着けるかもあやしい。練習につきあってくれると言う親戚の好意に甘えて、久しぶりに夜のおでかけへとくり出した。ここ数ヶ月は父に付ききりで、仕事と自動車学校以外は夜に外出することがほとんどなくなっていた。
頻繁に訪れるスーパーや書店や病院などをぐるぐると走り、マクドナルドでこれまた久しぶりのフライドポテトをつまみながらお互いの日々をねぎらい、これほどすてきな車にめぐり逢わせてくれた感謝を伝えた。本当にありがとう。これから大切に乗っていくからね、と。
車があることで時間にも気持ちにもゆとりもできるだろう。ようやく、ようやく怒涛の日々が一段落しそうな安堵と、運転練習の手応えを噛みしめながら帰路についたそのとき、自宅の前でそれは起こった。
ンゴッッ!!! ゴリゴッッッ!!!
一瞬の出来事。
『こすった』という言い方はやさしい。
『えぐりあげた』のほうがより正確で適切だ。
幸い私も親戚もケガはなかった。
なるほど。いかん。やっちまった。
本家本元・嵐の二宮さん。
個人のラジオやバラエティ番組はもちろんのこと、放送中の主演ドラマは高視聴率。カバーアルバムのリリースや2本の主演映画の公開もひかえ、そこへたたみかけるかのように、YouTubeチャンネルのメンバーと共に今年の24時間テレビの司会も発表された。もはや連投される情報に追いつけないほど大活躍目白押し爆進中がおびただし過ぎる。ただただすごい。
一方わが家の二宮さん(車)。
納車してわずか5時間で自宅の塀をえぐりあげゴゴリゴしてしまった。これはこれですごい。丁寧に大切に。あのおごそかな気持ちと誓いはなんだったのかと自分自身を疑うが、起こってしまったものは仕方がない。ぺこぱがいないので時をもどせない。事実を冷静に真摯に受けとめ、ぜっっっっったい父にバレないよう水面下で事を進めるよりほかにない。
親戚と打ち合わせをして別れ、何事もなかったように家へもどると父はお風呂に入っていた。たった今、玄関前で娘が交通事故を起こしたことなどもちろん知らない。いい。それでいい。父はカーブミラーに突っ込んだが私は自宅に突っ込んでしまったのだ。圧倒的にこちらが不利だ。
翌日。もちろん朝から車で出かけた。
そのあいだに親戚やディーラーさんと諸々の進捗状況を確認し、夕方に修理に来ていただく手はずを整え、昼すぎに帰宅した。そして閃いた。いっそのこと父を車で連れ出してしまえば、損傷部分を発見される可能性が低いのではないか?
コーヒーに誘うと父は喜んだ。いつものドーナツショップへの道すがら、ようやく私の運転で父をいろんな場所へ連れて行ってあげることができると感慨深いものがこみあげたが、正直それどころではない。助手席を降りるときの父の方向、一挙手一投足に冷や冷やモヤモヤする。車体の左側後方。不自然に浮きあがった部分と、あきらかな塗装のはがれが3つ。視界に入れば決定的だがここはスルーした。よし。
昨日の空前絶後がウソのように、体調が回復した父はお茶をしながらご機嫌でよくしゃべった。スーパーで干しガレイやらイカゲソやらカツゲンやらをカゴに放り込み、父とのはじめてのドライブを終えて帰宅したとき、親戚から一報が入った。どうやら私たちが不在のあいだに訪ねてきたディーラーさんとすれちがってしまったらしい。
なるほどなるほど。いかん。やっちまった。
ご機嫌な父にカフェオレを3杯もおかわりさせている場合ではなかったと後悔したが、後の祭りだ。さすがにこのままではバレてしまうだろう。また面倒なことになってしまうと肩を落としたその翌日。私はぶったまげた。
再び親戚から入った一報によると、ディーラーさんがわざわざ私の勤め先の駐車場までやって来て、晴れ渡る青空のもと、その場で、なめらかなまでにすべての修理を完遂させ、本当に水面下でなにもかも終えてしまったそうなのだ。おまけに、無償で。
完全犯罪が成立した瞬間だった。
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