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「見ててな」 藤野は上目で俺を見ながら、人差し指で自分の目頭を差した。そこから、ツー、と涙が溢れ出す。鼻筋を通って、口元まで垂れてきたところで、涙を手で拭う。 俺は、急に泣き出した友人をまじまじと見る。 「まあ、びっくりするよね。これが俺の特技というか、特殊能力」 藤野はテーブルの紙ナプキンで涙を拭き取っている。 「自在に涙を流せる・・ってこと?」 藤野は頷く。 テレビで見るような、役者さんが役に入り込んで泣くのとはワケが違う。2秒ほどで、蛇口を捻るように藤野は
「今夜さ、満月だから、うちに見に来ない?」と彼女からメッセージが届いたので、僕は冷えたシャンパーニュを片手に彼女のマンションに向かった。 彼女の部屋に入って、グラスにシャンパーニュを注いでいると、彼女が隣の部屋で「お客さんだから礼儀正しくするのよ」という声が聞こえた。 なんだろうと思って待ってると、彼女がまだ小さな月を両手で持って出てきた。月の大きさはグレープフルーツくらい。まだまだ小さいんだ。 「はじめマシテ」と小さな月が言った。 「1ヶ月、うちでホームステイしてい
20時を過ぎたオフィスで先輩は怒鳴った。 「これ、入ってないじゃねぇかよ」 * 革靴の中が湿る。夏の外回り営業。 販売促進品の提案を生業とする会社。世に出回る物の売り上げを上げるために、世に出回る物をおまけとして提案する。アウトドア腕時計ブランドに名入れが入ったボールペンを提案する。そしてそのボールペンメーカーにはアウトドア腕時計が当たるキャンペーンを提案する。 渋谷の雑居ビル。ビルのエレベーターはいつも右に傾いて動いている気がする。社員総勢80人。その中で神谷先輩と僕
阿部智里さんの「八咫烏シリーズ」最新刊、『追憶の烏』の刊行を記念して、外伝短編「すみのさくら」(『烏百花 蛍の章』収録)を期間限定で全文公開いたします。 『烏に単は似合わない』の過去編、若宮とすみの知られざる幼少期を描いた作品です。 ※限定公開は公開終了いたしました ◇ ◇ ◇ 「すみのさくら」が収録されているのはこちら。 八咫烏シリーズを初めて読む方はまずこちらから! 8/23発売のシリーズ最新刊『追憶の烏』はこちら! 追憶の烏
本を読んで、ホラを吹く。久しぶりの更新は、FishとChipsのお話。 鯨の揚げ物が京都で禁止されているのは、動物愛護や環境保全のためではない。 その日もクリストファー・メイプルストンの店は雪に埋もれていた。宵山を越したばかり。だが、鱈の雪に旬はない。 四回目だ。先の二月にクリストファー・メイプルストンの店がオープンしてから真白く覆われるのは、四回目。そのあいだ、五条西洞院では一度も降雪が観測されなかった。 雪だけではない。土も二度あった。葉は一度。ひとりでに溶
平日の朝、つり革をつかみ電車に揺られながら大きなあくびをした。 それにつられてか、隣の人も大きなあくびをした。それを見てまたあくびをしそうになる。 良く言えば、ほのぼのした朝。悪く言えば、何の変化もない退屈な朝。 なにか面白いことが起きないかなとぼんやり思っているが、「じゃあどんなことが起きて欲しい?」なんて聞かれるとすぐには答えられない。 とりあえず外を眺めて何か面白いことが起きていないか確認するが、そんな都合よく自分の欲求を満たしてくれることが起きるはずもない。