見出し画像

へんなさかな

本を読んで、ホラを吹く。久しぶりの更新は、FishとChipsのお話。

 鯨の揚げ物が京都で禁止されているのは、動物愛護や環境保全のためではない。
 
 その日もクリストファー・メイプルストンの店は雪に埋もれていた。宵山を越したばかり。だが、鱈の雪に旬はない。
 四回目だ。先の二月にクリストファー・メイプルストンの店がオープンしてから真白く覆われるのは、四回目。そのあいだ、五条西洞院では一度も降雪が観測されなかった。
 雪だけではない。土も二度あった。葉は一度。ひとりでに溶けるぶん、雪のほうがいくらか楽かもしれなかった。
 事故るたびに警察のひとやら役所のひとやらが出てきて、店の周囲をやじうまがとりまく。クリストファー・メイプルストンはいつものとおりニコニコと鷹揚に有象無象をいなすのだけれど、あんなずさんさで保健所もよく営業を許可したものだと頼はおもう。外国人が店を持つにはしちめんどうなビザもそろえないといけない。クリストファー・メイプルストン本人もそう話していたが、それだってどう取得したかしれない。
 公僕がめんどくさそうにきて、ダルそうに去っていく。頼はクリストファー・メイプルストンといっしょに店のフロアにあふれる雪をスコップでかきだしはじめた。飽きられたのか、近頃はやじうまもあまり見物にこない。ぽつぽつと子どもたちが断りもせず両手いっぱいぶんの雪を持ちかえるくらいか。今日にも溶けてしまう夏の雪をなんに使おうというのか、頼にはわからない。
 雪の山脈からはテイクアウト用の容器やクリストファー・メイプルストンの家族写真に混じって、たまに狐色の扁平な物体が掘りだされる。頼が触れると、ほのかに熱を感じる。雪を溶かすほどではないあたたかさ。
 クリストファー・メイプルストンは「もったいないし、食べていいよ」というのだが、さすがに頼は遠慮する。
 フライにされた魚は偏旁冠脚をくっつけようとしても、元にはもどらない。茶色い衣をはがして、白身を雪につけても鱈になって跳ねたりはしない。切字料理の不可逆を素人の頼はふしぎにおもう。
 前にそのあたりのもやもやをクリストファー・メイプルストンにぶつけてみたら、こんな答えが返ってきた。
「そりゃ、そいつはもうフィッシュ・アンド・チップスになっちまったからな。一度チップスと出会ってしまったら、二度とは離れられない。そんなもんだ」
 むつまじいものだね、夫婦のように、と頼はいわなかった。
 クリストファー・メイプルストンが日本にやってきたきっかけは、離婚だった。

 頼が Facebook でクリストファー・メイプルストンからのメッセージを受けとったのは二年前のことだ。そう、クリスではなく、クリストファー・メイプルストン。
 クリストファー・メイプルストンからメールや手紙の類をもらうのはそれが初めてだった。頼にとってみれば、かれは友人でもなんでもない。ローティーン時代の一時期をいっしょの教室で過ごしたというだけで、いつのまにか Facebook でつながっていたのにも気づかなかった。
 頼の記憶に浮かぶクリストファー・メイプルストンはまったきクソガキだった。当時、おなじクラスにクリストファーという名の子が三人いて、別のふたりはそれぞれクリス、クリストファーと呼ばれていた。
 クリストファー・ウッドリーもクリストファー・ドネルも勉強や遊びをそつなくこなす優等生タイプだったのに対し、三人目のクリストファーであるクリストファー・メイプルストンは手のつけられない乱暴者だった。『鏡の国のアリス』に出てくるトゥイードルダムとトゥイードルディーみたいにずんぐりと卵めいた姿態で、口元はつねにだらしなく微笑んでいるように見えた。だが、目元は不吉なほどに昏かった。学校では、ふきげんに暴力をふるっているか、ごきげんで暴力をふるっているかのどちらかだった。
 授業になどいっさい気を払わず、どの教科の先生にも叱られていた。そのとき決まって、フルネームで「クリストファー・メイプルストン!」と名指されるのだ。まるで、クリストファー・メイプルストンであること自体が咎であるかのように。実際に、そうだったのだろう。そして、先生がその名を喚くと、必ず「居残り」という語があとについた。
 これで、ひとかけらでも愛嬌や魅力が宿っていればガキ大将くらいにはなったのかもしれない。しかし、クリストファー・メイプルストンは徹底して暗鬱な性格で、クラス全員から敬遠されていた。
 クリストファー・メイプルストンについて頼のまわりで話す機会はほとんどなかった。たまに言及するときはみな「クリストファー・メイプルストン」と呼んだ。それぞれに得意な先生のモノマネがあった。クリスは数学のミスター・フォックス。「クリストファー・メイプルストン!」。アレックスは科学のミス・グリーナウェイ。「クリス……クリストファー! クリストファー・メイプルストン!」。ジョルジーナは広東語のミスター・チョウ。「クリストファッ・メイプルストンッ!」
 Facebook にはおとなになったクリストファー・メイプルストンの写真が載っていた。あんなにも丸々とふくよかだった顔はひきしまって角ばり、眼はあいかわらず死んでいたものの、攻撃的な色合いよりも疲弊した印象をただよわせていた。これまでの経歴も載ってある。学校を出た後は大学へ進学せず、父親だか親類だかが営んでいた農業関連の会社(「メイプルストン・アンド・サンズ」という社名だった)を継いだらしい。だが、その会社をメッセージを送ってくる一年前に畳んでいる。
「なによりも大事なもの」は「わが娘、プリンセス」。プリンセスとは愛称ではなく、本名らしい。「交際ステータス」は「独身」。事業の解散と前後して、四年二ヶ月のあいだ夫婦関係にあった女性と離婚している。
 学校を卒業してから十年が経っていた。
 頼に送られたメッセージの内容は、おおむね、こうだ。久しぶり。日本に行くことになった。フィッシュ・アンド・チップス屋をやりたいんだ。本物のフィッシュ・アンド・チップス屋を。頼は京都にいるんだって? 僕も京都に行くつもりなんだ。よかったら、会えないかな。
 頼は迷った。
 向こうはぜったい、頼を利用する気で来る。しかも、安価で。なんなら、タダで。
 頼のほうで会いたい気持ちも、会うべき理由もなかった。勤めていた会社が潰れたばかりで暇といえば暇だったが、クリストファー・メイプルストンに会うより有益なアクティビティなどいくらでもある。会いたくない。会わないほうがいい。会うべきではない。
 会った。 
 それが運の尽きで、頼はこんにちに至るまでずるずるとクリストファー・メイプルストンのフィッシュ・アンド・チップス屋を手伝っている。従業員は従業員で別にいて、地下鉄の果てにある芸術大学に通うバイトさんがやってくる。三回に二回は入れたシフトをすっぽかしたりするズボラ者だが、もともと役所からのいいつけで形のみ雇っているようなものだ。クリストファー・メイプルストンは気にしない。
 そもそもキッチンに入ることができるのは、クリストファー・メイプルストンその人だけだ。かれは頼にもバイトさんにも包丁を任せない。日本人に本物のフィッシュ・アンド・チップスは作れない、と断言する。
 頼もそれはそうだと同意する。ただ、日本では魚類を偏と旁にあえて分けないだけだ。鯛は魚と周に分離せずとも、鯛のままでじゅうぶんおいしい。鰹はいぶせば堅くなるので、わざわざ字のレベルから割る必要もない。
 もとは黥・劓・剕・宮という古代の肉刑に起源があったとされる。人から鼻や脚や陰茎を個別の物象として切りはなせるなら、現実の象形たる文字にも応用できるはずだ、と昔のひとは考えたらしい。願えば叶い、恐れば現る時代のことである。
 中国では後漢の末期に字典『説文解字』の成立をきっかけに拆卸(切字)料理が流行った。四川の魚香という調味料はその名残で、現在では魚介を含まないものの、もとは字から取った魚からこしらえていたという。いまの中国語で食用の魚をあらわす字が会意に頼りきらず〜鱼と、魚部を分けているのは、うかつに切字してめんどうをおこさないためだ。清の康煕帝の時代になると、漢字は完全に国家によって御されるようになった。
 ともかく現代では日本だろうが中国だろうが、漢字文化圏で魚類を偏と旁に仕分けようなどと酔狂に走る人間は、まずいない。魚類の偏旁冠脚調理師免許は、フグの取扱者免許より取得がむずかしいといわれる。いちおう外国人にも門戸はひらかれてはいるけれども、漢字検定準一級以上のほかに、調理師資格のさだめるところの必修漢字を修めなければならない。
 そんな苦労を払ってまで免許を取ったところで、わざわざ会意からバラした魚がフグの白子よりありがたがられるわけでもない。あまりにも取得希望者がすくないので、免許制度そのものの廃止が毎年議論されるほどだ。
 ところが、クリストファー・メイプルストンは魚類を割って魚部分だけ取りだすことに異様にこだわる。魚につけあわせるのはじゃがいものフライ以外にはありえない。fそれがフィッシュ・アンド・チップスなのだ、と。
 じゃがいもは十六世紀に南米からヨーロッパへと渡ったもので、フライド・フィッシュはユダヤ人の料理だった。出自も宗派も異なる二者が婚姻を結んだのがイングランドという地であり、地球上のどこの国であろうと、われわれはこの祝福を守りとおさねばならない。そう主張した。
 この「われわれ」にいつのまにか自分が組みこまれていることに頼は不満だったが、いってもいまさらはじまらない。目の前で自国の誇りたかき伝統文字が文字どおりの意味で切りきざまれようと、いささかも心の傷まない人間だった。
 どころか、ちょっとおもしろがってしまう。
 来日してからの数カ月間、クリストファー・メイプルストンは修行にかこつけて毎晩、下宿先のアパートで違法な漢字分解をはたらいた。頼もそれにつきあった。
 魚偏のつく漢字の七割以上は分解が法的に禁止されている。実体を伴わない概念が生じるためだ。
 たとえば、鯑は切字すると周囲のひとびとに希望を呼びおこす。希望といっても、状況やひとによってフィーリングは違う。切実さを伴うこともあるし、ほんわかとあったかい気分になることもある。その違いを比べあうのが頼には興味深かった。鰙を割って若さのなんたるかを痛感し、鱔をさばいて自分のなかの善の定義を知った。
 特に鮪はすごかった。割った瞬間、ただ「有る」という圧倒的感覚がみぞうちを打つ。その途方もなさに身体をおしつぶされそうになるのだ。こんなものを寿司や刺身やおにぎりの具として食べていたのか。頼にはおどろくと同時に納得するところもあった。鮪がわれわれの喉をとおるとき、あの存在感をも嚥下しているのだ。鮪が魚の王様あつかいされるのも鮪の「有る」感じのせいなのだろう。
 クリストファー・メイプルストンにいたっては涙にむせんでいた。口からは神への感謝が漏れていた。
 神を取りだそうとしたこともある。鰰だ。国魚であり、無神論を掲げる中国では輸入を禁止されている。割ると明治天皇が来臨するといわれる鰉とならび、日本でも厳重に管理されている種だが、どういうツテなのか、クリストファー・メイプルストンは仕入れてきた。
 だが、不慣れな旧字体の処理をあやまった。飛びだしてきたのは神ではなく、サルだった。アパートをめちゃくちゃに荒らされてしまい、頼もクリストファー・メイプルストンも全身をひどく引っかかれた。二度と鰰には手を出すまいと誓った。
「つぎは鯨にしないか?」
 サル騒動のあと、クリストファー・メイプルストンはそう提案してきた。なぜ、と頼が問うと、クリストファー・メイプルストンは調理師免許試験の問題を開き、禁魚とその理由がならんだページを示した。
「おもしろそうじゃないか?」
 鯨の揚げ物が京都で禁止されているのは、動物愛護や環境保全のためではない。
 みっつめの京が出現するからだ。

 けっきょく、ふたりは鯨を分解しない。
 クリストファー・メイプルストンが調理師試験に受かり、開店準備に忙殺されてしまった。
 ふうがわりな外国人がふうがわりな店を開いたというので、開業してからしばらくは話題を呼んで繁盛した。
 しかし、すたりはやりを忙しなくついばむ京雀たちは飽きるのもはやい。閑古鳥が鳴く、とまではいかないものの、当初の盛況はもどらない。
 たまに事故った翌日はむしろ客が増える。屋内でとつぜん雪まみれになるのを期待する。クリストファー・メイプルストンがより慎重にさばくようになるとは考えないらしい。
 頼は、フィッシュ・アンド・チップス屋のオープンと前後して大原の紫蘇を売る仕事に就いた。事業所は烏丸に在するので、勤務あがりにクリストファー・メイプルストンの店に寄りやすい。
 大葉は鱧のてんぷらによくつかうよ、とクリストファー・メイプルストンに営業をかけるものの、「鱧は禁魚だ」とにべにもなかった。しかし、個人的に食べるからとしば漬けのパックをまとめて買う。頼が、そんなにしば漬けが好きか、と尋ねると、あいまいにわらう。
 客足は日に日におとろえていく。
 夏も盛りをすぎたころ、頼が店を訪れると、ちょうどカップルがテイクアウェイのフィッシュ・アンド・チップスをつまみながら出てくるところだった。店のなかに客がひとりだけいた。みなりのしゃんとした初老の男性で、カウンター席でクリストファー・メイプルストンと談笑している。なじみの客ではないらしい。楷書では油がはねるのでかならず明朝体であげている、とか、虫偏のつく魚介はやっかいなのでエビなどは蝦ではなく鰕をつかっている、とか、初歩のトリビアが披露されていた。
 男性は嬉しそうに、うんうんとノリよくうなづきながら、クリストファー・メイプルストンのトークに耳を傾けている。
「じゃあさあ」とおじさんは銃でも撃つようにひとさし指を上下させながら、「鯏だけ売ればいいんじゃない? ベネフィットがザクザクよ」
「アサリハネー。切ッチャダメ言ワレマス」
 クリストファー・メイプルストンは初顔の客をあしらうときは片言の加減をやたら強める。そのほうがウケがいい、と本人はいう。頼には、クリストファー・メイプルストンが愉快なだけではないかとおもえる。
「アサリじゃないよ、ウグイだよ」
「ウグイモネー」
「ヒトは?」
「ヒトモネー」
 頼はふたりの会話をさえぎり、しば漬けの入った袋をクリストファー・メイプルストンに手わたす。ついでにフィッシュ・アンド・チップスを注文する。
 たいして間もおかず、新聞紙に包まれた波型のチップスとフィッシュフライが供される。ヴィネガーのボトルを何度もふる。酸いにおいが油とからんで香りたつ。
 フィッシュフライを齧ると、魚の味がする。鮭でも鱈でも何の魚へんの魚でもない。フィッシュ・アンド・チップスのフィッシュの味。口の粘膜にべたりとまとわりつく油の感触。
「いやあ、何度見てもクリスのは見事なもんだね」とおじさんが感心したようにクリストファー・メイプルストンの包丁さばきを褒める。どんな魚だってさばけそうじゃないか、と。頼にも同意を求めてくる。
 頼は、そうですね、とあたりさわりのない返事をする。クリスってのはクリストファー・ウッドリーのことなんですよ、とはいわない。
 おじさんは酒も入っているのか、いやあ、すごいなあ、すごいなあ、とつばを飛ばして繰りかえす。
「あれかい、じゃあ、あれだな。鯨をやれば、京都が出てくるんだね。大阪でも北海道でも。だろ、クリス?」
 そうですね、とクリストファー・メイプルストンはうなづく。
 でも、鯨を切っても京都は出ないって説もありますね。ちょっとした丘が出てくるだけだとか、ものすごい量が出てくるだけだとか。
「誰モ、バラシタコトナイ字ダカラネ」
 そして、おじさんに対してわかったようなわからないような口舌をふるう。
 京都は京都にあるから京都なんですよ。
 で、京都にはもう京都がある。鮪みたいに、ある。
 ソウデショウ?

 頼が紫蘇の会社から内定を得た翌日、クリストファー・メイプルストンと鱫を違法に分解した。
 愛とはどういう感じなのか、ふたりとも興味があった。
 実際に切字してみると、なにも起きない。なにも感じない。
 こんなものか、と頼はあっけなさを反芻していたが、クリストファー・メイプルストンへ眼をやると崩れおちて泣いている。
「おれがわるかったんだ」ということばが涙とともにくりかえしこぼれる。「おれがわるかったんだ」
 頼にはどうしようもない。
 号泣している大人を前に、できることはあまりない。
 こまった頼は酒の力ですべてをうやむやにしようと試みる。成功する。鱫から切り離した魚はさしみにしたらスコッチとよく合った。ふたりとも酔いつぶれて居間で眠りこむ。
 酒気とともに抜けでた汗が渇きをもよおし、頼は深夜に目覚める。電気はつけたままだったが、光量がやけにさみしい。
 目の前に、さかさまの顔。
 クリストファー・メイプルストンが、枕のない枕元から頼の顔をのぞきこんでいる。翳になったふたつの眼は眼というよりは穴のようで、頼は子ども時代のクリストファー・メイプルストンを思い出す。クリストファー・メイプルストンという名に宿った不吉さを思い出す。
 頼は頭を動かさずにかたわらへ視線をやった。字切包丁が握られている。
 クリス、と声が出かかった。
 だが音未満の息として漏れるだけだ。
 クリストファー・メイプルストンのさかさまの頭は微動だにしない。頼は起きあがれない。
 頼は包丁のない側へねがえりをうつ。
 本が二、三冊だけ立てかかっている、背の低いラックが見えた。二段の上の方にフォトフレームが置いてあり、クリストファー・メイプルストンと、かれと同年代くらいの女性と、三歳くらいの子どもの写った写真がおさめられていた。家族写真だ、と越してきて間もない頃にクリストファー・メイプルストンは語っていた。もう家族ではなかったのに、家族写真、と。
「にんげんは」とクリストファー・メイプルストンに空いた洞から生あたたかい息とともに声が頼の耳へ届く。「きれないのか」
 頼は目をつぶり、かすかに残っている酔いをかき集めて意識を殺そうと念じる。念じているうち、余計な故事を思いだす。
 その昔、中国に汕という名の料理人がいた。名のとおり、魚が泳ぐように包丁を走らせ、自在に字を解体した。その噂を聞いた魏王は宮中にかれを召しだし、犇から一刀をもって三頭の生きた牛へ取りだす神技を披露させた。王はかれにこう問うた。「そなたの腕前であれば、禽獣のみならず人間も分解できるのであろうな」。汕はそれに応えて曰く、「王よ、お望みなら、魏という国から鬼を剔ってごらんにいれましょう」。その自信は魏王を怯えさせた。王はただちに汕を捕えるように命じ、刎刑に処そうとした。だが、絶人の域に達していた汕は素手で縄を糸とカエルにほどくと、牢から牛を駆り、獄を脱した。復讐を恐れた魏王はさらなる追手を差しむけ、ついに汕を遼東に追いつめた。もはやこれまでと悟った汕は自らを断ち、ひとすくいの水と小高い山と化し、山は鞍山千山に連なった。
 しかし、怪力乱神は現実を証さない。近代以降に人が分解した記録は、ない。技術上も不可能であると、クリストファー・メイプルストンも教科書で読んだはずだ。
 でも、ほんとうに?
 とどのつまりは、魚も獣も人も鯨もみんな、漢字でできていて、そのひらべったさに差などないのではないか。
 湧いた疑念を振りはらって頼は、切れない、と眼をつむったまま唱える。
 ぬるい吐息がとまった気がして、
「このままなんだな」
 クリストファー・メイプルストンの声は狭い部屋のなかに力なくただよう。
「クリストファー・メイプルストンのまんまなんだな。エリザが呼んだクリストファーでも、プリンセスが呼んだダドでもなく。父の、祖父の、メイプルストンのクリストファー」
 クリス、と頼は声に呼びかける。
「クリスはウッドリーのクリスだろ」
 ここにウッドリーはいない。
「そうだな」
 クリス。
「自分の名前じゃない気がするよ」

 クリストファー・メイプルストンのフィッシュ・アンド・チップス屋は四年でつぶれた。それと同時に、クリストファー・メイプルストンは日本を離れた。
 翌年、大連に京都が出現する。
「イギリス人のスシ職人」が浜辺に打ちあげられた鯨を包丁ひとつで分解してしまったという。
 頼がインターネットで見かけたニュース動画では、「イギリス人のスシ職人」と誤解を受けたままの人物がインタビューを受けていた。
「南京にも北京にもならないように細心の注意を払いました」
 ――。
「日本での経験のおかげです」
 ――。
「頼、見てるか?」
 ――。
 クリストファー・メイプルストンは大連警察によって連行され、外交レベルでのあれやこれやの末に故国へ送還された。残された大連の京都は観光地に再利用される。
 クリストファー・メイプルストンはいまでも Facebook のむこうにいる。文字と写真の存在にもどっている。
 地元のスーパーに再就職して、毎日魚をさばいている。もう、字は切っていない。
 おおきな白いイヌを飼いはじめる。
 恋人ができたりできなかったりする。
 地元のアマチュアサッカーチームで毎週末に汗をかく。
 どこにいてもクリストファー・メイプルストンは、クリストファー・メイプルストンだ。
 かれの娘は十歳になる。
 メイプルストンではないその子どもは、父親の少年時代にも青年時代にも似ていない。

                               <千葉集>

今回読んだ本はこちら☟

画像1


※「へんなさかな」は『フィッシュ・アンド・チップスの歴史』にインスパイアされたフィクションです。書籍の内容とは一切関係がございませんので、ご了承ください。

【本を読んで、ホラを吹く。】
創元社の本を読んで、作家・千葉集が法螺を吹くシリーズ企画。ジャンルとジャンルの境界線上を彷徨いながら、不定期にショートショートを連載中。
【千葉集 略歴】
作家。第10回創元SF短編賞(東京創元社主催)宮内悠介賞。また、はてなブログ『名馬であれば馬のうち』では映画・小説・漫画・ゲームなどについて執筆。