断捨離をすると言ってn回目 断捨離の意味を知る
“断捨離”は”捨てる”ことだと思っていた
「よし、断捨離しよう!」
…と今日も今日とて思っている人はきっと少なくはなくて。結論から言えば断捨離で実際やることの多くは結局捨てることであり、その動機が単に部屋を片付けたかったり、気持ちを切り替えたかったり、要るものを見極めたかったりと、そんな感じなのかなと勝手に思っていた。そして私のような性格の人は(あえてここで深く言及はしないけれど)、不完全燃焼で終わって結局あまり何も変わっていない、なんてことも。
それもまぁ26年生きてきて初めてではないから、改めてコツとかいい方法みたいなのを調べることもなく、私は私だなぁと少し自分に呆れて大体終わる。が、ふと今日は、”断捨離”とはそもそもなんぞや、目指しているものとこの言葉の示すものは合っているのか調べたいと思い立って、これまたふと目に入った広辞苑を引っ張り出したのだ。
きっといい加減、地に足をつけたかったのか。軽いiPhoneの画面に澄ました顔で並ぶ文字より、ずっしりとした確かすぎる答えを求めて。少し埃の被った”広辞苑 第六版”のシワ一つないページたちを小さく「た、た、たん、、だん、、、」と呟きながら捲っていた。そしてたどり着いた【単斜晶系】と【単舎利別】の間には何度目を凝らしても、その言葉はなかったのである。
あー、そうだった気がする。
自分の過去のとあるポイントで微々たるヒットを感じた瞬間、iPhoneで”断捨離 意味”と検索欄に打ち込んでいた。妙にまだ意地を張ってWiki…の文字をスッと避けてはさっきのヒットの正体を記していそうなページを2-3開いて軽くため息。
“断捨離は、ヨガの「断行」「舎行」「離行」という3つの考え方の頭文字を取った言葉です。”
(出典:マイナビニュース編集部『断捨離の本来の意味をご存じ?断捨離の手順やメリットを解説』マイナビニュース )
なーんとなく見たことのある言葉だったがすっかり忘れていた。断捨離という言葉自体は捨てるとか片付けるという事自体より、それによって不要なものや執着を除いた日々及び人生などを得ようという思想、考え方を指しているということを。故に動機から辿れば結果的に本当の”断捨離”をしっかり行えている人もいるのだろう。
ただ少なくとも私は…。
何度も言っているうちに結局言葉の由来を忘れてしまい「部屋を片付けたい!」ぐらいの意味合いで言葉を発していた。私はしっかり無知を露呈しつつ、本当は自分の部屋に限らず心の中も含め日々の生活を見直したいんだよねと、自分で気持ちを宥めていた。
私は”私の勝手な妄想に包まれた断捨離”を捨てきれず、
そもそも”物”を捨てることに執着してしまっていたのかもしれない。笑
思い込みというしがらみに絡まった物たち
私が本当の意味で断捨離を行うということはつまり、私を取り巻く環境、人、時間との関係性であったり過去、現在、未来における在り方だったりへの執着を捨ててみることが必要なのだろう。捨ててみる、と甘いことを言ったけれど捨てたものは基本的には戻らないと考えた方がいい。捨てるのか、捨てないのか。ほら出た、私はそういう問いかけにめっぽう弱いんだ。
でもたかが26年、されど26年。どこかではなんとなくわかってきている。執着しているもの捨てたいものがどこにあるのかが。私が大事にしてきた”繋がり”だとか”思いやり”だとか、そして切っても切れない苦い過去。後者はともかく前者に手を掛けるのか、とも思う。だけれど厳密にはそれら自体じゃなくて、それらを維持している”思い込み”によるしがらみを断ち切りたいんだ、そんな気がしている。
そして幾度もの私の断捨離もどきから生き残ってきた物たちこそ、そのしがらみがたくさん絡まった代物だったりする。
今、自身の部屋のほぼ真ん中に座って、ニトリで買った折り畳み式のローテーブルの上でこの文章を打っている。私から蜘蛛の糸みたいにふわふわしたものが、周囲の本とか、楽器とか、帽子や服、雑貨、手紙、日記なんかに伸びている。多すぎて、絡んでいて、鬱陶しくて、でもそれらがないと少し不安で。。不安なんだ。思い込んでいる故に保たれている繋がりだとしたら、幻みたいな物だったら。
夢を見ている間に、実は何もかも失っていたら。
その不安が1本、また1本と、繋がっていくのを感じた。
不安を断捨離しよう 〜今年最後の目標〜
こんなだらだら綴らずとも、手放すのって不安だよねって話だと言われればそうだ。そしてそれを受け入れて生きていくというのも、一つの味ある人生だとは思っていたりする。ごちゃっとした、少し傾けたらいろんなものが溢れ出てきそうな人生。悪くない。
でも、それができるキャパが私にはない。それに関しては体と心が既に同時にそう叫んでいる。そんなに器用で柔軟だったら、そもそも断捨離が必要な状態に陥っていないだろう。捨てるのが不安、失うのが怖い、自分に何があるのかわからない。全ては蜘蛛の糸が留め、惑わし、隠してしまっている結果。
“生きてりゃなんとかなる”
似たような言葉は様々なところに存在していると思うが私にとってこれは宮崎駿の『もののけ姫』に出てくるワンフレーズだ。自分たちの生活の要となる場所が失われて発せられた「何もかも終わりだ…」に対する力強い言葉。これがなきゃダメという思い込みから一歩引いて新たな前進に向け視線をシフトしていく。私は今、不安を断捨離する一つの方法としてこれを合言葉として使ってみようと思っている。
散々何が捨てられるかという視点で書いてきたけれど、絶対に捨てられないものだってもちろんある。それこそ命とまで飛躍させるつもりはないけれど、たとえば家族、みたいな。家族は捨てるもんじゃない、って話をしたいのではなくて、少なくともここまで生きてきた私にとっては今大事にすべき存在。一緒に住んでいて、一番私の全てを知っていて、最も多くを話せる存在だ。…父は単身赴任中な上になんでも話せるかと言われるとそうもいかないのだけど。笑
何が言いたいかというと、私の人生は私のものだけど、私だけのものではないということ。いつ何が起こっていきなり孤独になるかはわからないけれど、そんなことは今は考えない。いつか、どんな形であれ離れてしまうことと向き合わなきゃいけない日は必然的にやってくる。だからこそ、今はもう少し、話さないといけないことがある。これについてはまた書き出すか、迷っている。
身近に信頼できる人がいて、生きている自分がいる。十分じゃないか。それだけになったとしても、それらがあってよかったと思える最低限の存在。そこを基準に考えれば、あぁ今なら、不安なんか感じない気がする。大丈夫。
そうやって不安を取り除いて、こうだから大事にしようという執着を捨てて、今をもっとクリアにして、目の前のものとその先の将来を見据えていきたい。この項目の見出しに記したように別の記事で「今年最後の目標」にフォーカスを当てながらその過程を具体化させていこうと思う。
物を捨てるということへの執着から離れ、私の望む本当の断捨離をしよう。