遠回り、十周り
遠回りが嫌いだ。
仕事中、アイスコーヒーを飲むのだが、コップにスプーン一杯の粉を入れて、あとは水を入れたら出来上がるやつ。あのこの世の大怠惰の大かっこつけみたいな人が発明したであろう飲み物だ。
コップに粉を入れた後、氷をたっぷり入れて、水なんかを入れると氷に粉がへばりつき、明らかにアイスコーヒー飲むための専門学校だったら単位落とされかねない仕上がりになってしまう。
僕も学習する男なので、それを発見してからはコペルニクス的発想で、粉の後にお湯を入れるようにしてみた。
粉入れる→少しのお湯→かき回す→氷入れる→お湯入れる
とすると、粉が固まらずいい感じになるのだ。でもこの方法だと当然だが、氷の消費が著しい。そりゃそうだ、あったかいと氷は解ける。こんなの常識だ。エジソンは偉い人くらい常識だ。
冷たいものを飲むための工程に、温かいものを使うという遠回りが嫌で仕方がない。
もう一つ例を挙げてみよう。
サイゼリアで飯を頼むと、暗号みたいなのを書かされる。
こっちはいち早く間違い探しに取り掛かりたいのに面倒なものだ。
字なんてここくらいでしか書かない。
Bが13に間違われたりしない様、細心の注意を払いながらやっと完成したシートを呼び出した店員さんに渡すと、なんと記載した暗号をメニュー名に翻訳し、名前を高々と宣言されるのだ。
尻子玉が抜けると思った。
であれば商品名を直接伝えればいいだけのはずなのに、なぜ一度暗号に翻訳し、それを復号化されなければならないのか。
これもとんでもない遠回りだ。
更に挙げてみよう。松屋だ。松屋。
まず、系列店に「松の屋」があることについても二時間くらい何か言いたいのだけど、これはまた別の機会にしよう。
いや、やっぱり言っておいた方がいい。似すぎてる名前を付けないで欲しい。あ、二秒で終わったね。
松屋って、ブラウンソースエッグハンバーグ以外はまあおまけみたいなものじゃないですか。
僕はブタめしが廃止になってから、松屋ではあれしか頼んだことはないだけど、セットで頼むと必ず草みたいなのがついてくる。
あの草みたいなの全然いらないじゃないですか。
僕が野菜を食べれない体質というかもうほぼ運命なのを差っ引いてもあれっていらないじゃないですか。
でもどうしても付ける!って言い張るもんだから甘んじているのだけど、食わないから新品で返却口に戻すことになる。
これね、いくらあの草に並々ならぬ不要感を抱いてたとしてもやっぱり返却口で心痛めるじゃないですか。
この野菜は「坂口金蔵さんの畑で取れました」みたいな空想のポップが頭の中でキュイキュイ言いながら揺れるわけですよ。あの返却口で。
どうして楽しく食事した帰り道にこんな告白してきた女性を振った罪悪感みたいなのを味わわなきゃいけないのか。
ということで、セットはやめて、ブラウンソースエッグハンバーグを単品で頼み、ライスを単品で頼むみたいな法の抜け穴みたいな手法を編み出すことになるのだが、こうするとなんと金額が高くなる。(ウーバーイーツだけか?)
何たる本末転倒。あの草代安くなってもいい案件なのに、なぜ高くなるのか頭を抱えるしかない。
結局、草を除外したブラウンソースエッグハンバーグと白飯を手に入れるためには、店頭で食事をし、セットで購入した上でカウンターの向こうの事務局みたいな人に「すみません。サラダいらないです」みたいなとんでもない羞恥を受けなければならない。
そしてなぜか、その場合、草の料金が何十円か返ってくるのだ。
電子決済なのに小銭が爆誕する。とんでもない遠回りだ。
これを書いていてふと思ったことがある。なるほど。僕は
飲食に関する遠回りが嫌なだけなのだ
そうか、僕は常々食べることが好きだと思っていた。もちろん太っている。
しかし、思い返してみれば好きな食べ物は味付け海苔だし、旅行先では迷わずに松屋に入る。決められた順番でやってくる飯屋(コース)みたいなのも好きではないし、最悪一斉に世界全体で「食事は一律チューブからゼリー状のもので摂取すること」ということになったとしても、一人デモには参加せずに家でゲームでもやってることだろう。
そう、食に本当はあまり興味がないのだ。
その証拠に、自転車の旅をよくするのだが、いつも遠回りをする。
実家に行くまでの道でも、通ったことない白地図を埋めていくようなルートの取り方をする。
文章にしたってそうだ、「白地図を埋めていくような」などと言っているが、そんな言い回しは必要ないし、この記事だってそもそも「飲食に関する遠回りが嫌」の一言で終わりなのだ。僕の人生は遠回りのオンパレードだった。
人に対して「条件」などと驕り高ぶるつもりはないのだが、考えてみると、誰かと長く一緒にいるならば、その人に備わっていて欲しいと思うのは「無駄を楽しめる人かどうか」ということだ。
例えば、一個のテーマでこれでもかって量の意見を出し合いたいし、気分的に駅からの帰り道は自転車を持っていても歩きで気ままに帰りたいし、面白くない映画を見ても面白くなかった。無駄足だったと笑っていきたい。
生と死で一本の線を引くと、全ての経験が遠回りであることに気づく。
せっかく行きつくところが同じなら、自分にしか描けない軌跡の遠回りをしたもん勝ちなのかもしれない。
そう考えるとコーヒーがおいしくなる為のホットな遠回りなら喜んでするべきだし、サイゼリアの注文点呼には快く耳を傾け、時にはそれを聞いてメニューをチェンジするのもいいかもしれない。
けれどもブラウンソースエッグハンバーグについている草は全くの無駄なのでこれからもいらない。
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