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定時退社の女が広報担当になって仕事好きに変わった話

暇真(いとま)です。

私の元職場はホワイト企業で
「1年目の仕事は早く帰る事だ」と教えられた。

上司曰く、新入社員が早く帰らないと、教育係の先輩が帰りづらくなる。すると職員を管理する立場である上司自身も必然的に残らないといけなくなるから、帰ってもらった方が助かる。気負わず帰りなさい、との事だった。

私はその教えを忠実に守り、退勤時間である17:00きっかりにパソコンの電源を落として5分後にはさわやかな笑顔で「おつかれ様でした〜!」と職場を去る生活を続けていた。

ただ、1年かけて私は、
自分には事務仕事の素質がまるで無い事を知る。

入社当初の「早く帰ってもらった方が助かる」という言葉は、私に申し訳なさを感じさせないための優しさ100%から出た言葉だったと思うけど、
1年経つ頃には意味合いが変わっていた。

本当に帰ってもらった方が助かるんだろうな
と感じるようになった。

私の事務能力は一向に向上しなかったから。
例えば、私は何度書類を見直してもチェック漏れした。私が確認しても信用ならないから、上司がダブルチェックしないといけなくなった。私がいる意味は無いどころか、邪魔ですらあった。

ミスが発覚するたびに消えたくなり「すみません」の声もどんどん小さくなっていった。またか、という空気を感じるのが怖くて、萎縮してた。

印刷機との相性も最悪だった。
私が印刷しようとすると印刷機がよく壊れた。紙は詰まり、インク汚れが付き、印刷部分はことごとくズレた。それでなぜか、先輩を呼ぶと通常通り作動した。印刷機が人を選んでいるとしか思えなかった。「まあそういう事もあるよ」と笑ってくれる先輩の優しさにだって、限度がある。後半は苦笑いだったように思う。

優しかった人たちの目に「呆れ」が映るのが
メンタル的に一番しんどかった。

だから翌年、部署異動の通達があった時は、内心めちゃくちゃ喜んだ。これでここから離れられる!仕事ができないイメージをリセットできる!やり直せる!そう思った。

ただ私はすっかり自信を無くしていたから
「異動先では誰にも心を開かないぞ!」と誓いを立てていた。心を開いて異動先に馴染んだ後に「あ、この子仕事できないんだ」とバレて嫌われるのが怖かった。誰にも気を許さず、淡々と仕事をし、そして速やかに帰宅する事に専念した。

「私にできる事は何もない」
「仕事ができないんだから早く帰らなければ」
という気持ちがあった。それは少し寂しかったけど、仕事ができないんだから仕方ない。迷惑をかけないために、私にできる事は帰ることだけだと思ってた。そんな業務態度でも、私は最年少の下っ端だったので、特に咎められる事はなかった。

でも、ある日向かいの席の先輩と2人で話すタイミングがあって「帰る前に、何か仕事がないか聞いた方がいいかも」とやんわり忠告を受けた。

やば、と思った。

その日の17:00、私は異動後はじめて
「何か私にできる事ありますか?」と聞いた。

定時退社のイメージが定着していたから、突然の申し出に直属の上司はちょっと驚いたようだった。それから、少しうれしそうに笑ったようにも見えた。

「大丈夫だよ、何かあったら頼むね」
とその日は帰されてしまったけど、私は上司がうれしそうにしてくれたのが嬉しくて、その日から前のめりに仕事を求めるようになった。そして上司も仕事を与えてくれるようになった。

幸い、異動先の仕事は私の得意分野だった。
事務とは違い、ミスとかいう概念が存在しない広報の仕事はのびのびやれた。アイディアを出すのも、インタビューするのも、レイアウトを練るのも、記事を書くのも、全部好きな作業だった。仕事が楽しくなった。出勤が趣味みたくなった。

数ヶ月後には「暇真ちゃん、エンジンかかってるとこ悪いけど、もう帰る時間だよ」と促されるようにまでなった。「今ノッてるのに…」と口答えまでした。

こうやって思い返すと、向かいの席の先輩には感謝しかない。たぶん、伝えづらい内容だったと思うけど、私は彼の指摘のおかげで前に進めた。

定時退社できる環境は有難いけど、私にとってはそんなに重要な事じゃなかったようだ。それよりも、自分が必要とされていると実感できるかどうかが重要だった。

私は異動先でたまたま広報の仕事に出会えて、本当にラッキーだと思う。この趣味の延長線みたいな場所にある仕事を、私は一生のライスワークにしていくつもりだ。事務は無理だったけど、広報でなら社会に必要としてもらえるようだから。これからの人生、私は #広報の仕事 で生きていく。

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