楽しさの上限
楽しさっていったいどこまでがそれなんだろうと探究したお話。
今日はひっさしぶりにゆっくり寝たので遅めの朝、いや昼を堪能しています。とはいえ堪能に浸れるほどゆっくりはできず、また起き抜けに書いておきたいことに出会えたのでこんな日に感謝。
今日はXで仲良くさせてもらっているレオンさんのとっても面白い視点で書かれたツイートを見たので即反応しちゃいました。
考えたことありますか?楽しさのじょうげんって🤔。じょうげんって言えばそう、これですね・・・。
あ、これはじょうげんの鬼でした😅。じょうげんとは上限のことです。
中途半端な前振りとはわかっていつつも、言葉に感じた反応を素直に残すこともまた、noteの醍醐味だと勝手に解釈して載せてますのでご容赦ください(笑)。
さて、本題へ。
楽しさの上限。結論からしてこれは「あります」。
ただ、楽しいというプラスの状況を見たときに
・わざわざ上限なんて考なくていいじゃん
・楽しければいいじゃん
・楽しいことはずっと続いてほしいじゃん
などといろいろな声が聞こえてきそうです。
でもこれらはすべて、
だと思います。悪いことじゃないんですよ😅。誤解なきように。
レオンさんが感じられた、「この楽しさっていつまで続くんだろう(上限があるんだろう)」という感情は出てきて当然であって、楽しいと感じているからこそ生まれてくるもの。
そしてレオンさんは「書くこと」が楽しいと表現された。
noteは切り取り方を固定すれば、個人の世界と認識できる。個人の世界で楽しいと感じている分には、楽しさの上限はないと思います。
しかし一方で、noteはソーシャルの世界でもある。noteの世界の住人のひとりである自分を意識し、共に書き合っている仲間を意識し、羨望し、嫉妬し、尊敬し、卑下し、など日常にありふれた感情をnoteで感じている自分の視点に立った場合は、楽しさには自然と上限が課せられるでしょう。
この楽しさの上限ってなんだね?
それは
です。
誰も得をしないようなこんな問いになぜ頭を使っているのか?
それは、もっと楽しいことをやりたい・経験したい、からに他なりません。
どんな能力もそう、上限を知ることで自己を知り、自己を知ることで己を超えることができる。その対象はどんなことでもそうだと思っています。
楽しいじゃん、だからもっと楽しくありたいじゃん、ってそんなときは
これを知っていれば、個人の世界から外の世界へ どん! っと飛び出していってもずっと楽しいと感じていられる、つまり楽しさの上限がない状態に飛び込める、というわけです。
で、起き抜けの私をびびっと起こしてくれたツイートがあります。それはレオンさんが書いてくれた、
嬉しかったなぁ🤣これ。こんな言葉をリアルタイムで会話できた。しかも起き抜けに(笑)。
限界突破だー!なんて、前向きな気持ちでない限りなかなか出てこない言葉です。だからこそいつでも出せるように自己コントロールはしたいけれど、なかなかに難しい。
でも幸い、Xには元気な方がたくさんいらっしゃる。そんな方々のひとツイにこんなに元気がもらえるのだから、Xも、そしてXにいる人たちを静で支えているnoteも楽しい。
楽しいに上限を付けているのは自分です😊。だって楽しいと感じているのは自分だからね。
これは間違いない本質なのでここに書き残しておきます。
これから足早に秋は過ぎ去って寒い季節がきます。
その前になんでも楽しめる自分を作り直しておきましょうか。
そうすればもっと生きることが楽しくなると思います😊