見出し画像

『スパイの妻』(黒沢清、2020年)評〈後篇〉

増村保造の映画を目指したという脚本家たちの言葉をあえて鵜呑みにすれば、失敗の原因は、監督と脚本家の資質の違いだと定められる。決定的瞬間を捉えるために長廻しの「持続」にこだわる黒沢と、ショットを「分断」して積み重ねることでクライマックスへ向けて情念を蓄えていく増村とでは、目指す先がまったく異なる。無論、脚本家たちはそのことを百も承知で黒沢に本作を撮るように求めたに違いないのだが、結局、映画は、会話はするものの感情のボルテージが高まっていかず、終わったあとで全体を振りかえると、場面が点々と続く印象を受ける。
たとえば、貿易商の高橋一生とその妻の蒼井優が倉庫で延々会話をするシークェンス・ショットを見てみよう。ここでは、大陸で日本軍の蛮行を目撃した高橋一生が、自分はコスモポリタンだからこれを世界に告発すると訴えるのに対し、蒼井優が、そんなことをすれば日本人は、私たちは世界中から非難されてしまうと反論し、夫婦の対立が浮き彫りになってしまう。しかし、この致命的なすれ違いを描くには、ロングテイクではなく切り返しを用いることで、「衝突」のイメージを強めたほうが映画にとって適切ではなかったか。それがベタすぎるならば、カットを割らないことで浮かびあがってくる決定的瞬間を強く打ちだせばよい話である。しかし、俳優、蒼井優はうまくいかなかった。

まず、発声の問題がある。往年の映画女優のそれを思わせる蒼井優の声は――実際蒼井はそれらを参考にして演技したらしいが――何よりも観客を当惑させる。
1940年前後という時代設定に、律義に演技スタイルまでも合わせるのか、それは単なるモノマネではないのか、そこに勝算はあるのか。『散歩する侵略者』(2017年)で長澤まさみが発した「ああもう、いやんなっちゃうなあ」という台詞も、当時のインタビューによると、「小津映画の杉村春子みたいに」という黒沢の演出があったようだが、いってみれば『スパイの妻』ではこうした演出が全篇にわたっているのだ。ともあれ、蒼井優の発声に対する違和感は拭えない。
いざその理由を考えてみるとなかなか難問なのだが、第一に、彼女の演技はどこか恥じらいを伴っているように思われる。主に現代劇のフィールドで活動してきた蒼井優が、かつての女優のように少し上ずった声色で早口で話すさまは、無理をしているように思われるし、自身悩みながら演じているかのような躊躇いの感さえ滲む。

次に、身体が問題となる。決して身長が高すぎるわけでも低すぎるわけでもなく、線が太すぎるわけでも細すぎるわけでもない蒼井優は、極めて「普通」の身体の持ち主だ。それは、かつての黒沢映画のヒロインにありがちだった長身痩躯の女優(綾瀬はるか、麻生久美子、葉月里緒奈など)を横におけば明らかだろう。この映画は、そうした「普通」の女がいかにして愛に狂える女に変貌していくかという一点に賭けられている。狂気の重要性は、結部で蒼井が発する「この国では狂っている方が正常なんです」と、物語にオチをつける台詞に端的に表れているとおりだ。
なるほど、理屈の上では蒼井優が愛の槍に貫かれた信徒であると分かる。しかし、画面上で蒼井の身体を通じて現れる聡子は、どうにもちぐはぐに見える。いや、夫を疑ったり信じたり騙したりする聡子に揺らぎはあるのだが、ほかならぬ揺らぎそのものによって聡子が愛に目覚めていくことを考えれば、蒼井の身体は、聡子の複層性を表現するにはいささか運動神経が鈍いかもしれない。
くだんの高橋一生との間に亀裂が走る倉庫の場面でも、聡子の意志の強さを示すためには、蒼井優は、『ラ・ピラート』(ジャック・ドワイヨン、1984年)の俳優のように迷いなく俊敏に動かねばならないはずなのだ(これはそう見せられない撮影゠編集の問題でもあるが)。しかし、振りかえるにしても歩くにしても蒼井優の動作は遅く、これが先ほどの躊躇いを想像させてしまう余地を生みだす。
あるいは、聡子にとって最大の転換点となる、満州で撮影された関東軍の記録映像を見る場面でも、夫の真実を知りたい一心で蒼井優が映写機を作動させるさまは、焦りに乏しい。だから、フィルムを見た聡子゠蒼井優の変貌ぶりは弱くなり、その後の物語を見るわれわれを説得するに足りない。
とはいえ、『スパイの妻』の脚本は、主人公が問題にぶつかって葛藤した果てに解決を迎えるという一般的な古典的ハリウッド映画の直線的な物語構造を意図的に脱臼し、スパイ゠国家の主題と夫婦゠個人の主題を融合させることで、聡子の変貌をある程度捨象する螺旋的な物語構造を生みだしているようにも思われるから、ここでの蒼井優を責めすぎるのもフェアではなかろう。

振りかえってみると、蒼井優の演技は、猥雑でグロテスクな印象を残す。車内で「亡命だ」と高橋一生にささやかれたときの蒼井優の超クロースアップはどうか。亡命という非日常的な言葉の響きに、彼女はほとんど性的快楽を覚えているかのようであり、その童顔も相まって観客はどこか居心地の悪さを覚える。
翻って高橋一生も元来細い声を無理に太くしようとしているのが見ていてつらく、目を剥いて聡子たちを脅す東出昌大も同じだ。彼らに共通するのは、役者本人の資質を「矯正」するかのような演出を受けている点であろう。蒼井優の美点はひたむきな幼さにあり、高橋一生は軽佻浮薄な人物を演じるときに輝き、東出昌大は常人離れした肢体が醸す不気味さが特質である。
しかし、黒沢の演出は彼らの美質を活かしきることができず、むしろ役者に無理を強いるマキノ雅弘澤井信一郎が、さらには濱口竜介が志す、俳優に恥をかかせない演出の真逆を行くことで、黒沢がそうした演出に不向きだとあらためて明らかになるだろう。

くりかえすが、これは黒沢だけの責任ではない。黒沢の得意とするものと、脚本家たちの得意とするものと、俳優の得意とするものが噛みあわなかったのだ。なお、その他のスタッフについていえば、もともとはNHKのドラマとして作られたため、通常の黒沢組の面々とは多少異なるが、それでも『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』(2013年)のように新風を入れるほどではなかった。
淀んでいるのは、『LOFT ロフト』(2005年)以来撮影を務める芦澤明子と黒沢との間に流れる、弛緩した空気である。要は、黒沢が芦澤を信頼しすぎるあまり、刺戟的な画がなくなっているのだ。だが、『スパイの妻』はそのことに気づかず、いつもの黒沢映画らしい画面を作ることに腐心する。前篇の冒頭で述べたファースト・ショットの締まらなさとは、このような事態を指す。

ここまで書いて痛感するが、近年の黒沢映画には胸を打つショットがない。そもそもショットを思い出せない。いや、正確にいえば、いくつかのショットを図像としては記憶しているから機械的に思い出せるのだが、鑑賞時に覚えた感動が先によみがえり、それから意図せず連鎖的にその映画に関する記憶が掘りおこされるようには思い出せないのだ。それはつまり、『勝手にしやがれ 英雄計画』(1997年)で傷だらけの哀川翔と前田耕陽が互いの死をどこかで悟っていながらも決してそれを口に出さず最終決戦に臨む道行きであり、『トウキョウソナタ』(2008年)で次男がそれまで一度も映画の中で演奏されてこなかった「月の光」をおもむろに弾く意表であり、『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(2016年)で宇宙人の東出昌大が廊下を歩くと指一本触れずに通りすぎるだけであたりの人がばたばたと倒れる活劇のショットである。たしかに、『スパイの妻』でも、アンゲロプロス映画のように高橋一生が海霧に消えたり、蒼井優が『カラビニエ』(ジャン゠リュック・ゴダール、1963年)よろしく観客席からスクリーンへ歩いたりするが、それが何だというのか。むしろ映画がこのようにいちいち説明できてしまうのは貧しくはないか。

今、『スパイの妻』が上げ、『スパイの妻』に上げられる声は空虚に響く。「お見事」。

いいなと思ったら応援しよう!