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『スパイの妻』(黒沢清、2020年)評〈前篇〉

昨夜BSで放送された黒沢清監督作『スパイの妻』の評論です。はっきりいってつまらないよねという論旨で、国内の絶賛一色ムードにうんざりしたのを覚えています。
文章じたいは劇場公開時に書いたので、半年前ぐらいのものでしょうか。当時、一度きりの鑑賞経験を基に書きました。なお、今回の放送も見ていません。細かい記憶違いはあるかもしれませんが、それで大筋が崩れることはないはずです。ちょっと長くなったので、前後篇に分けました。


遠くに汽笛が聞こえる。われわれは海へ連れていかれるのかと思った矢先、明転してスクリーンに現れるのは、生い茂る草叢と煉瓦造りの建物だ。ここで先ほどの認識が更新される。どうやらここは海ではなく、海に近い山間らしい。
こうした微妙な地理的空間で何が起こるのか。われわれは続いて二人の男性を認める。その服装と、「1940年 神戸」という字幕から察するに、おそらく彼らは軍に仕えている憲兵かなにかであろう。あたりを警戒しながら、彼らはそばに控えていた数名の部下に、建物の中に入るよう命じる。突入後、どたばたと激しい物音がしばらく聞こえたのち、恰幅のいい白人男性が両手を抱えられて外に出されてきた。
なぜこんな乱暴な真似をするのか。白人男性による必死の問いに、憲兵はにべもなく答える。あなたにはスパイの容疑がかけられている、と。この時点では彼が本当のスパイなのかどうか、明らかにはされない。ただはっきりと描かれるのは、憲兵の横暴と、個人がそれに屈する様だ。

だが、それにしても、このショットの締まりのなさはどうか。
キャメラは一連の動作をロング・ショットの長廻しで捉え、対象を冷たく観察する。この撮影技法じたいに問題はないのだが、いかにも冷徹な印象を与えるテクニックとは裏腹に、画面に緊張が走っているとはいいがたい。それはおそらく、当の長廻しが関係している。
というのも、これだけ長時間キャメラを止めない以上、きっとこれから何か起こるはずだという妙な期待が観客の頭をよぎって仕方ないからだ。画面中央にどんと据えられた巨大な鉄扉も、その期待を助長させる。必ずあの扉の向こうから誰かが現れるに違いない。
見事、拿捕された外国人の登場によって見る者は胸を撫でおろすだろう。何が起こるかは分からないにしても、何かは起こるだろうと想定されるからには、出来事とともにわれわれに訪れるのは、驚きではなく安堵である。
先ほどこの場面は緊張感に欠けると書いたが、換言すれば、ここに満ちているのは、あまり感じられない緊張を無理に煽ろうとする痛々しさである。開巻早々、われわれは、恐らく作り手の望む不安とは別種のそれを抱く。
嘆息したのも束の間、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞の栄誉に輝いた映画のタイトルが、今、スクリーンいっぱいに堂々と映る。
『スパイの妻』!

細かくファースト・ショットを書いたのは、これが『スパイの妻』(2020年)の、あるいは監督、黒沢清の近年のアティテュードを示しているように思われてならないからだ。
巨匠といわれて久しい黒沢だが、デビュー直後から順風満帆な道のりを歩んできたわけではない。元々自主映画の出身である黒沢は、ピンク映画を経て華々しく商業映画デビューを飾ったかと思うと、『スウィートホーム』(1988年)における伊丹十三との裁判沙汰により実質的に業界を干される。将来を嘱望された映画監督であったにもかかわらず、その後の黒沢がオリジナルビデオやテレビドラマで苦い思いをしてきたのはフィルモグラフィーを見れば一目瞭然であろう。
現在も旺盛に仕事を続ける黒沢の姿勢は、実はこのときの経験が大きくはたらいているかもしれない。つまり、黒沢は便利な監督であるために、自分の作家性があふれた映画を作るのではなく、プロデューサーから持ちかけられた仕事をこなしていくのだ。そう、まさにこなしていくのである。


はっきりいおう。近年の黒沢は、方法論的に自分の映画づくりを理解したうえで新たな映画を撮るクリシェでしかない。
加えて、主に国内の映画批評が黒沢に対して辛い評価を下さない/下せないことも、状況を悪化させているはずだが、この問題は、現代日本で「批評」がかつてほどの役割を担わなくなってきたこととも関係するだろうから、ここではひとまず措く。
重要なのは、誰も黒沢映画の文句をいわず、それによって黒沢が、ともすれば自身が望んでいないにもかかわらず、玉座に押しあげられてしまっている現状だ。


さて、その黒沢に、直属の弟子である濱口竜介野原位から脚本という名の挑戦状が届く。情念あふれる女を主役に据え、過剰なまでに口語を意識されたこの会話劇は、プロットの流れから見ても、どこかのシーンを交換したり台詞を変更したりしてはならぬ強固で緊密な論理的不動性を有する。挑戦状と書いたのは、従来そうした題材を避けてきた傾向にある黒沢にとって、この脚本が脱皮のチャンスにほかならないからだ。
それどころか、『復讐 運命の訪問者』(1996年)や『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(2017年)といった最良の黒沢映画が、黒沢の単独脚本ではなく、脚本家高橋洋と監督黒沢の緊張関係のなかに常にあったことを思えば、『ハッピーアワー』(濱口竜介、2015年)の作り手とのコラボレーションは、まだ誰も知らぬ新しい黒沢を出現させるのではないかとこちらの期待を高める。


果たして『スパイの妻』は述べたような国際的な評価を得るに終わった。しかし、この映画はそれほどすぐれた映画なのだろうか。愚作と断じたい気持ちにも駆られるが、複雑なことに、これは必ずしも黒沢ひとりの責任に還元できもしないように思われる。
悪くいえば、映画はひとりの力では成立しないことが、逆説的に証明されてしまうのだ。そこで浮かびあがる別軸が、主演の蒼井優をはじめとする、俳優の演技である。この映画をどう評するかは、蒼井優をどう評するかに関わってくるだろう。(後篇へ続く)


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