『営倉』(ジョナス・メカス、アドルファス・メカス、1964)
1970年のアンソロジー・フィルム・アーカイブス設立に至る決定的な契機として、ふたつの出来事がしばしば指摘される。ひとつは『燃え上がる生物』(ジャック・スミス、1963)が過激な性描写の廉で上映禁止の憂き目に遭ったこと。そしてもうひとつがこの『営倉』の製作経緯である。アルトーの演劇理論に突き動かされ、シャーリー・クラーク『ザ・コネクション』(1961)の原作演劇も上演したリビング・シアターにおいて、『燃え上がる生物』同様、人目に触れることを禁じられたその芝居をメカスが1本の映画にまとめたのだ。自分の思うことをいえぬ近代国家のありように対してこの難民者が義憤に駆られ、今ではない未来へ映像を残そうとする難民゠アーキビストの姿は想像に難くないが、それにしてもこの作品内で表象される陰鬱さは衝撃的である。
まず、舞台である営倉が狭く息苦しい。リビングシアターで実際に撮影されたという本作からは、実際の演劇の雰囲気、テンション、距離は映像を通じて思考を巡らせるほかないのだが、メカスのキャメラはそうした空気を、時に自らの影を被写体の上に落としながらーーということはメイズルス兄弟のように対象へ近づきながらーー的確に捉えている。おそらくは舞台の狭さを逆説的に利用したであろう、戯画的に詰められた人物同士の距離が目立つ。整列や号令の度に靴をけたたましく鳴らしながら〈看守〉による理不尽な物言いを聞く〈囚人〉の姿がおかしくも哀しい。逃げ場のなさを強調するように、時折映る天井は俳優の頭にあまりに近い。
おけにラスト・ショットまで、ほとんど客席を映さない。いや、実際には客席が映り込むポジションに回り込む瞬間はあるのだが、それを強く意識させることはなく、むしろ徹底して舞台上の出来事を観客に提示しようと努めている(客席が映ったとしても、それはそのショット内で生じている〈囚人〉たちの表情を把捉するための選び取られたベストポジションなのである)。逆言すればこの映画では、たとえば今村昌平の『人間蒸発』あたりによる、映画の虚構性を暴露する営為に関心は向けられておらず、真摯に被写体の過酷な労働と被虐を見つめてゆく。
同時に、映画は俳優の演技のドキュメントとしての意義も持ち始める。急いで断っておくと、ここでドキュメンタリーとフィクションの境目などを云々したいわけではなく、むしろその両義性が見事に切り取られている点を声を大にしていいたいのである。例示すると、黒人の〈看守〉が白人の〈囚人〉を暴行し、新入りの〈囚人〉が古株の〈看守〉にしごかれる様子。先に名前をあげたメイズルス兄弟がここでも思い出されるーー。キャメラと被写体の距離だけで作品を成立させること。単純と芳醇の見事なまでの両立である。
ここまで褒めて、しかしと思う。『映画日記』を試みに読むと、どうもメカスは芝居を見ていた最中、あまりの出来栄えに映画化を決意して思わず劇場を飛び出してあえて結末を見ずに済ませたという。つまり、初見でこれを撮影したというのだ。本当だろうか。こうも的確な撮影がその場その場の即興による判断の賜物とは、いくらメカスといえども俄には信じられない。一方で、舞台に設置された〈檻〉の内と外を峻別するフェンスを、時にキャメラが大胆にも軽く飛び越えてしまうのだから、アドルファスによる巧みな編集の痕跡も見られる。疑念は尚更深まる。
いずれにせよ、40も過ぎて人生折り返しに入ったメカスの出発点ともいえる本作を見られた悦びは格別。横須賀(よりによって!)の旧民家の2階で正座(はキツくて途中から体育座り)になって見た体験も含め、2024下半期ベスト映画鑑賞。