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アナログ

私は現在、ノートPCを使って執筆をしている。だから「デジタル生活」をしていると言っても良い。

では、急にデジタル生活が終わりを迎えることになったとしたら、どうなるだろうか?私は困るし、世の中も大混乱を起こすであろう。

実際としてはそうだとしても、意識的にはどうか。私はPCというものを認識したのは、Windows95が世の中に出現し、その時に家に導入されたPCが、初のそれということになる。1995年なので、私の歳は10歳になったぐらいだろうか。つまりは、10年はデジタルなものと無縁の生活を送っていた訳なのである。

どういうことかといえば、生まれた時からそういうものに囲まれていたという世代ではない、ということだ。世代分類的にデジタルネイティブに入るのかどうかはよく知らないが、デジタル機器というものは、意識としては、急に出現したものという感覚となる。

それ以前は何をしていたかというと、本を読むか、プラモデルを製作するという生活を、学校生活や勉強以外では行っていた筈である。これらは、実は今でも継続していることでもある。当然に、友人の家で遊んだり、外で公園で一緒に誰かと遊んだりしたのも本当なのだけれども、今の私を形成しているのは、読書と模型遊びである。子どもの頃に形成された、三つ子の魂百まで、という言葉が当てはまるのは、これらの要素であろうと思う。これからも辞めるつもりは毛頭無いからだ。文章形成というものを養ってくれたのは、これらの行為や遊びだとすら思っている。だから、辞めることはないのである。私の中にある、創意の根源的理由は、実はこういう部分にあったりするのかもしれない。

しいて言えば、ゲーム機がデジタル的なものだが、今のネットワーク接続が当たり前になったものと比較すれば、アナログゲームのようなものである。無線接続というものもなかったので、有線接続が必要という時点で、デジタルな感じも無い。あくまでも「イメージ的」な話である。wifiがどこにでも飛びかう現在に比較すれば、デジタルな感覚、感性は、ほんの一部の専門家にしか無かったものだと思うのである。

年少時というものは、何も思春期だけではなく、人格や意識を形成するのに大切な時期である。何を言いたいかといえば、私の根っこはアナログなのである。ただ、デジタル機器と相性が良いという、そういう側面も本当の実際となる。あまり好きではなかった作文用紙に書く作文の宿題や、授業での課題はペンを使ってするからで、今のキーボードで打つことによる文章の形成は、文量に困ることもなければ、書くことに詰まることもない。作文用紙2、3枚を書くのにも精一杯だったのは、まさに過去の認識に過ぎない。これは、大量の文章を打つことに重点を置いたキーボードの存在があってのことである。ペンでは不可能と言って良い。

それは過去も今も変わらず、しかし私にとってのデジタル機器との付き合い方は(とても重要だが)これだけに過ぎないのである。もしも唐突に、90年代の文明生活水準に戻ることがあったとしても、私は「書くことができなくなる」だけで、案外に、大丈夫なのかもれないと思うのである。テレビがデジタル放送でなくなって、映りが今と比較して悪くなってもあまり気にならないし、頻繁に行う、ネットショッピングの類も、実店舗で購入することをまめに行えば良いだけと、言って言えないこともない。ゲーム機が現代のものがなくなって過去のものだけになっても、正直気にならないことだ。

どうして、こういう認識があるのかといえば、やはり「生まれた頃から、そういうものがある」からではないからだろうと推測できる。どこからどう見てもデジタルネイティブ世代である方々との違いは、まさにここにあると言える。年少期が形成する価値観というものが、いかに大きいのかという、そんなことを考えさせる認識である。今はもう読んでいないが、漫画雑誌というものを毎月書店などで購入することに、「不便」などなかった。無いなら無いで、そういう事としか感じないのである。

ただ、私の根っこがアナログだとしても、生活自体は、ネットワークが整った現在の恩恵を受けるということに、私ほどそれがある人間もいないだろうという認識もある。面白い話である。本は纏めて一気に何冊購入しても、ネット書店経由なら家に運んでもらえるので、運搬の苦労が無い。気軽に、一気買いができる。例えば30冊購入しようが、50冊購入しようが、こちらの労力が要らないことに違いはない。これは凄いことである。雑誌しか情報源がなかったような時代は、今や考えられないほどの情報化社会に、私達は生きている。新聞も、もはや新しい情報源ではない。そういう認識が、あったことすら忘れてしまいそうな程に。

誰もが情報発信が容易になって、駆け巡る情報量の多さが、過去に比較しても、その文字通り比較にならない程のバイト数になっている現在は、「過去」への逆行を許さない要因の一つとなっている。

写真は、写真アルバムに収まるものではない。スマートフォンの中にある。それはアプリの「名前」として名残があるだけであって、誰もが写真アルバムを家庭に所有することもなくなったのである。この写真はしかし面白いもので、過去への逆行現象が確認されている。実際にプリントアウトする方が好きだ、という人は、老若男女にいる様である。デジタル時代にも、アナログが完全消滅しないのは、私のような人間がいるから、ということだけが理由ではないようだ。

もう一つ言うと、私は機械に弱い。しかもド文系である。世の中のデジタル機器で扱えるものなど、ほんの一部しかないのである。アナログな世の中に戻った方が、身体的には性に合っていることなのかもしれない。そう思う時もある。しかし、自分の必要が、つまりは「書くこと」であったり、生活の様々な現代的利便性が、その身体性の相性を無視しても、今を継続、又は発展させることを願っている。要は私が、時代に合う生き方を拵えていけば良いだけなのだ。今の方が、その「恩恵」は確実に大きいと言える。

私はここで、文芸活動をしているつもりである。アナログな人間にも、理解可能なシステムとなっている、ここのプラットフォームは、意図せずか、意図してなのか、アナログ感覚とデジタル感覚の、融合が図れている。私には、ブログでも理解が少し難しかった。その懸念を取っ払ってくれたnoteという場所は、見事だと思う。デジタル機器で書くことの解答が、ここにはある気すらするのである。

アナログが気質だとすれば、デジタルへの気持ちは愛である。そんな私は、現在を上手く生きていると言えるのだろうか。それは未知数だが、それはともかく、アナログ思考はデジタルな世でも生きていけることができるというのは、私が見本になるのではないか。そんなことも考えてみるのである。

自分のするデジタル讃歌というものが、その逆に、生々しくアナログ気質を浮き彫りにしている気もする。最初からデジタルしかない人間にとって、そういうことをする理由は見当たらないのだから。

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