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デジタル

前回書いた記事である『アナログ』の続編となるようなものである。

デジタル機器に生活全般が囲まれている現在、私もそれなしでは生きていけない「側」であるということを補足するために書こうと思ったことがある。気持ち的にはアナログな生活が可能という趣旨のことを書いたが、それはあくまでも気持ちの問題であって、実際的には、きっと、とてもその状況に耐えられるものではないとも思うのだ。

デジタルは「書くこと」に、個人的には関係の重点を置いていると言ったが、それは何も執筆状況を指し示すだけではない。例えば買い物をネットショッピングで済ませて、色々な店舗を巡って買い物をすることを行わないで良いというだけで、「書くための時間」は大幅に増加する。こうしたことも執筆する上でのデジタルなシステムから得るメリットだと言える。

通信環境が、遅延を起こすことなど無縁となったような時代である今、その伝達速度と、やりとりのスピーディーさは、会話や通話に相当するもの、近いものとしての、SNSやLINEといったアプリでの、その交流の在り方を生んだ。それは身近な人間としか付き合うことのできなかったに等しい、過去の状況では生まれ得ないことである。国際電話を無料で出来るという謳い文句で流行した、skypeというアプリの存在すら過去の出来事に過ぎないのが今の通信のリアルである。その謳い文句の意味すら、不明である世代が主流であるのがネットの今なのである。

何かを「調べる」という行為が、こんなにも身近になったのも、検索エンジンの存在が身近になってこそである。一瞬でジャンルを問わずに何かについて調べ物をすることが可能となったことは、情報の時代の代名詞に相応しい現象である。領域横断的であることが、尚その巨大さを、物語っている。

小さい頃に読んだ、漫画雑誌にゲームクリエイターを目指す小学生達が主役のものがあった。覚えているようなシーンは少ないのだけれど、全国のゲーム好きの少年少女達が、通信ネットワークで全国的に繋がり、一つの目的を達成するという感動シーンがあった。時が経ち現在、それは本当に実現が成っている。実現しているということもそうだが、何より、「そうでない時代が分からない世代」が存在している、又はそれが今の少年少女であるということが、現実が優に漫画を超えている実際を、実感する訳である。ゲームはむしろ、ネットワークで友人たちと繋がりながらプレイするものと定義されても、今ならそちらの方が自然であろう。

ゲームと言えば、私はいくつかフリーゲームのレビューを書いている。これらは基本PCでプレイするものであって、こうした作品達との出会いがあったのも、デジタル通信技術のお陰である。これらをDLすることによって、自由に楽しむことができるというのは、店頭販売でのゲームソフトを遊ぶのとは、趣が異なる。レビューを書かせて頂いたゲーム作品に出会わなかったら、それは損失という言葉では、まるで足りない。私には、それほどに重要なのである。こうした現実があるのも、情報社会、通信技術の賜物であることに疑いは持てないのだ。この一点においても、過去への逆行は、御免蒙りたいものである。ここでの執筆も、レビュー記事も、情報通信時代の最大の功績に数えられるのだ。

情報時代というものは、結局は「拓けている」のだと思う。インプットが最重要視された価値観から転換し、アウトプットすることに重点が置かれるようになったのが、その実相だと思えるのである。過去は表現は一部の人間のすることであって、大体の人は受動的であったと言っていい。それが変化して、今は自分のアカウント名義で、何かしらを出力する、表現することが、実質的に誰もが可能となった。能動的な行為を歓迎することが、ネットワーク時代に参加することの条件となるのである。

無論、ネットワーク上を駆け巡り、情報を蓄積するという使い方も健在であろう。しかしそれもまた一つの在り方に過ぎない。パーソナルコンピューター、または(パーソナル)スマートフォンというものが最大の活用度を発揮するのは、個人の出力をする時だと考えている。その名の通り、個人的な発言や発想が、その人の中に蓄積されるだけに終わらないことが可能となっているのが、とても凄いことなのである。これには、ただ機器があれば良い訳ではなく、それを自然とする時代背景もセットで必須となる。それを満たしているのが現在なのである。

<『コンヴィヴィアル・テクノロジー』著:緒方壽人>という書籍の中で、

ある道具の「力」が人間をエンパワーしてくれ、なおかつ人間から能力や主体性を奪ってしまわないという、ちょうどいい「力」の加減を考えるとき、その「力」が意味するものも時代とともに移り変わっている。p70

という一節がある。これは私が言いたいことを言ってくれている部分であって、私で言う所のノートPCは、私の「主体性」を損なうことなく、能力を発揮させてくれる道具であり、テクノロジーなのである。ペンで長文を書くことを忌避する私にとって、これはエンパワーしてくれるものであり、更にそれ故の能力を発揮することを可能としているのである。私の表現したいという気持ちを損なうことなく、その実現の手助けをしている。私の今は、時代が構成しているものと言っても良いのである。

動画配信、音楽をネットワーク経由で聴く、youtubeというプラットフォーム。デジタルなものを語ると、文章が止まらない程になる。私的な語りとしては、ここで終わりとするが、駆け巡る情報であるという実際に相応しい文章を書いていけるのならば、私の「気持ち」も無駄にならないかと思うと、時代の後押しには感謝しかない。流行を追いかけなければならなかった過去とは何か違う。そんな今を生きることは、本当に「面白い」と思うのである。私が私であることの価値が、デジタル情報へと変換され、それを共有できる時、その触発された「情報」としての価値は、また何かを生み出すのであろう。そうであることを願う。

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