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TVゲームの思い出である。

この年の私は14歳、つまりは中学生だった訳だが、そんな頃、頭の中はゲームのことで一杯だったのである。ゲームと言えば、この頃はTVゲームを指すことを意味し、(携帯ゲームも当然にあったにせよ)新作TVゲームの発売をゲーム雑誌などで知れば、その発売日が待ち遠しい日々を送っていた。

1999年に購入したのは、『ファイナルファンタジーⅧ』である。当時は予約するのも手一杯であり、在庫確保すら難しい人気ソフトであったという記憶がある。なんせ前作が爆発的ヒットを記録した、『ファイナルファンタジーⅦ』だ。その次のタイトルといえば、世間すら騒がし、発売日には、何とNHKのニュースすら取り上げていた程である。その日に予約無しで購入できたことは奇跡に等しい。

という訳で、この年は、このファイナルファンタジーをプレイしてばかりだったのだが、それで満足を覚えていたのは、我ながら何だか素直であった。他のソフトを買いたいと思うこともなかったのである。新作ソフトというか、他のソフトに関して言えば、多くのそれらを所有している友人宅で遊ぶことが基本的なこととなっていた。言ってしまえば、普通に遊ぶ程度が、私とゲームの関係であったのである。

時が経ち、大学生になると、一人暮らしが始まる。すると暇を持て余すこともあるのであって、その場合に何をしたかというと、急にゲームにハマり出したのである。しかも最新のソフトを買い漁るのではなしに、その当時でいう「昔のゲーム」の「名作」を中古ゲームソフトショップで探し求めるということが趣味として行っていたことなのだ。そして気付いたことがある。私の興味関心を満たしたゲームソフトの結構な数が、1999年に発売していたプレイステーションソフトであることだ。それらの大概は大学生以降の人生でプレイすることになる数々のソフトなのだが、この年のラインナップは本当に凄い。以下にそのリスト的なものを列挙してみる。

『ファイナルファンタジーⅧ』
『デュープリズム』
『聖剣伝説 レジェンド オブ マナ』
『プリズマティカリゼーション』
『グランディア』(PS移植版)
『ワイルドアームズ 2ndイグニッション』
『マイガーデン』
『夕闇通り探検隊』
『リトルプリンセス マール王国の人形姫2』
『街 ~運命の交差点~』(PS版)
『クロノ・クロス』

(購入してプレイ済みの99年製プレイステーションソフト一覧)

世間で流行したソフトが他にもこの年には存在するが、私が手を付けたのはこれらである。どれも、傑作揃いであると今でも思っている。これらの纏まりに連関性など無いので、この中のソフトを一作プレイをするだけでも、満足感は十全なものとなる。それを求めて、また一つ、また一つと発掘する気持ちでソフトを買い続け、プレイを続けていたら、こういう結果になった。非常な満足感がある。

どうしてこの年に、これだけのソフトが集中的に発売が重なったのかは、その理由は定かではない。だが実際として過ごしていた時期としての記憶よりも、1999年という時代に、私は思いを馳せずにはいられなくなった。ゲームソフトの偶然が、強烈に記憶に残ることになったのだ。

次の年は2000年なので、最後の1900年代という時代な訳であるが、それが何か関係しているのだろうか。まるで世間に疎い中学生であった私は(それは今もそれほど変わらないかもしれないが)自分がただ楽しい時間を過ごしていただけであるので、それこそ、当時の「大人の事情」など知る由もないのだけれども、こうした名作を数々生み出していてくれたことには感謝しかない。

恐らくは、その発売当時にプレイしていたとしても、ここまで感動をすることはなかった気がする。たまたま数年後に成長した上でプレイすることになった事で、更に深くその良さを知ることになるというのは、面白い巡り合わせであった。

これらのゲームソフトに共通することがあるとすれば、「ゲームならではの表現を模索していた」という点が挙げられるのではないかと思う。そうした意気込みと、創作する上での高度な思考の産物としての完成品が、これらのソフトとなったのである。アニメでも、漫画でも、そして映画でも不可能な表現を達する。そうした目標的なものが結実して、こうした傑作に生じたのかと思うと感慨深い。

この時代産のゲームのオリジナリティは、今もって尚健在である。それは何故ならば、きっとゲームというものへの製作者の思いの傾倒が、きちんと指向性と目的を兼ね備えていたのではないかと思うのである。ゲームでしか出来ないことへの追求。そこへのプライドが、この完成度の正体なのだろうと推測できる。恐らくは売上目当てというよりは、作品性を高めようという意識が感じられるのだ。

発売当時にプレイして、この感想が出るのなら、それは思い出補正と言われてもしょうがないというバックボーンになってしまうが、私のこの感想は、その時期に生じたものではない。この時期のズレが私の感想の、客観性を担保してくれるものだと思う。

惜しむらくは、これらをプレイすることを、今になって推奨することは難儀だということだ。それは専用のゲーム本体が必要だということや、ソフトの入手困難さを現在は伴うということに端を発することである。ただこれらを「古きもの」として一掃してしまうことは、余りに余りに勿体ないことである。それは文化的損失である。サブカルチャーの分野における敗北でしかないのだ。

何故内容について語らないのか、という疑問があるかもしれないが、当然にこれらにはれっきとした理由がある。何ということはない、ゲームはプレイしてこそである。「長編」ゲームとなるこれらのプレイ体験を文章で綴るとなると、書き終わることはいつになるやらだ。そしてプレイ環境の用意が難儀だとしても、やはり機会あらば、実際にプレイして欲しいという推挙の気持ちが勝るのである。ゲームのレビュー記事を書くということは、実はとてもとても楽しいことに違いはないのだけれど。書いてしまって良いのなら、書けない理由は見当たらないのだけれど。これはちなみに補足である。

これらのゲーム作品は、その時代の空気であって、尚且つ時代を貫通する作品でもある。表現行為に携わる者として、受けた影響は非常に大きいものだ。1999年に生まれた影響は、2024年の今現在でも失われることはない。そうして25周年の祝いの意味も込めて、これらのゲームへの敬意を評したいと思う。

爽快感や操作性というよりも、作品性、というものを重視する私の傾向は、ここから生じたといっても過言ではない。そういう意味で、私を育てた作品群である。ゲームという面よりも、作品なのだ。

当時にこれらの作品のいずれかをリアルタイムでプレイできた人が、実はちょっと羨ましかったりもするのだけれども。ファイナルファンタジーの作品一つで満足してしまっていたのも、また仕方ないことなのだけれども、という話である。

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