推しは燃えてないのに、私だけ「推し、燃ゆ」状態になってる(仮)
※注意事項※
・「推し、燃ゆ」状態になっているのは私だけであり、My推しこと髙橋海人さんは、一切炎上しておりません。
・髙橋海人さんは今日もカッコよく真摯にアイドル活動をしておられます。
・この文章は、小説「推し、燃ゆ」の読書感想文(&自分語り)です。ネタバレも普通にします。
あまりにも印象的なこの書き出し。
2020年度下半期芥川賞受賞作「推し、燃ゆ」(宇佐見りん 著)である。
主人公・あかりは、炎上した推しの上野真幸を推すこと、そして彼を解釈することに情熱を燃やす。
発売当時、軽いでんぱ組.inc推しを自認していた夫と私はすぐに読んだ。
そしてこう思った。
「すっげぇ熱量ー。私こんなに推しへの解釈に魂捧げられないわー」
当時の私に言ってやりたい。
「お前、3年後同じような事することになるぞ」と。
もう最近持ちネタみたいになってるが、この3ヶ月で52本のnote記事を書き、うち36本が髙橋海人さんおよびKing & Princeに関する記事である。
平均字数約3,500字。単純計算で3日に1本書いてることになる。
「髙橋海人に関して文章にする執念偏差値」で言ったら、63ぐらいはあるんじゃない?
違いと言えば、推しが人を殴ってないこと。ここ大事。
人には人の推し方がある
いや、本当は全然違うんだ。
私は
・CDは、5人体制は1形態ずつ、2人体制(現在)は全形態1セット買う。LIVEは外れれば諦める。
・写真(オフショ)をアルバムに綴じる程度
・雑誌は表紙になったものだけ。TVはほぼ全部観る。
あかりは、
・CDは同形態を10枚単位で購入、グッズ、LIVE・握手会への参戦にかなりお金をかける
・部屋に推しの写真やグッズ、CDを祀ったいわゆる「祭壇」がある
・推しの発言を全て記録する。その為に雑誌・TV・ラジオをくまなくチェックしている。
正直、熱量が全然違う。あかりは、ガチ中のガチ勢。推しが「生活の背骨」である、と非常に印象的なフレーズで描かれている。
同じなのは「推しを解釈したくて文章書いてる」ことだけ。
しかも厳密には、私は「推しの作品(歌)を解釈したい、あとは可愛い可愛いしたくて書いてる」。
「推しを解釈する」ということ
私は、推しの解釈は積極的にはしない。所詮新規ファンであり、Jr.時代からのファンの方に理解度で及ぶ訳もないというのが一つ。
もう一つは、極端に言うと「人を解釈するのは神の行為」と思っているから。結局人の全貌なんて、人には解りはしない。しかも相手は、人の形を投影してくれているアイドルである。
例えば先日、「髙橋海人はジギー・スターダストなのか」という記事を書き、「髙橋海人は宇宙から飛来したジギーではなく、心の中が宇宙」と結論付けた。
私自身は「髙橋海人はジギーか否か」を知りたかったので、ジギーではない(当たり前)という結論に満足しているが、後半の「心の中が宇宙」に関しては、ほぼ敗北宣言である。
人の心を「宇宙」という、人間には計り知れないものに喩えた時点で、「わかりませんでした」と言ったも同然だ。
とは言え、あかりの、推し・上野真幸への解釈は「かなりいいところ」まで行っている。例えば、彼が話しているときに次に何と言うかが分かったり、彼のSNS上で、他のメンバーが上野真幸に成り代わって投稿したとき、その違いに即座に気づいたり。熱量違うだけある。さすが。
解釈が「かなりいいところ」まで行っている要因の一つが、上野真幸自身があまりアイドルアイドルしていないというか、気分屋だったりあけすけに考えを語ったりするキャラクターだから、というのもあると思う。
あかりは、前述のように推しに金も時間も熱量もささげる、いわゆる「推し活」をしているが、本質はそれらの表面的な行為でなく、「推しを解釈する」ことであり、推し活はその手段に過ぎない。
推しと自分の境界
前述の、あかりの「生活の背骨」という表現についてもう少し詳しく読む。
一方で(あるいは同時に)、「ステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う」と、推しと自分の境界をはっきり感じていることがわかる。背骨であることはあくまで「推すこと」であり、推しが自分自身に侵食している訳ではない…ちょっと違いが分かりづらいが。
この感じは、実際に「推す」ということを経験しているか否かで理解度が違ってくると思う。
ともかく、このことを念頭に置いてほしい。
物語は、初っ端から推しが炎上し、徐々にアイドルとして道を外れ始め、突然居なくなる。
それと並行し、あかりは段々と登校拒否状態になり中退、バイトもクビになり、ニートになる。
と書くと、まるで推しの変化に伴いあかりが精神と生活に支障を来したかのように見える。しかし、実際はそうではない。登校拒否状態は、「推し活」にさらに力を入れた故の生活リズムの乱れによるものでもあるが、元々の彼女の気質(文中『診断名』と表現)によるものが大きい。バイトも、そもそもうまくいっておらず、最終的に家庭環境の変化により、無断欠勤でクビになる。
物語があかりの視点で展開されるため、まるで二人の人生に関連性があるように見えたが、結局のところ、「推し」と「ファン」は別の個体であり、別の人生を生きていることが、物語の間中ずーっと描かれて来たのだ。
物語の終わり、あかりはある光景を目撃することで、
「推しがもうアイドルではないこと」「一線を引いていたつもりの自分が、推しと精神的な重なりを感じていたこと」を実感する。
あかりの主観である解釈と、客観的事実が衝突して、そして消えてゆく瞬間だった。
真幸の炎上から1年半の時を経て、真幸の破壊行動(人を殴る)と、あかりの破壊行動(綿棒のケースを投げる)が重なり、かつ「推し」と「ファン」との明確な分岐点となった。
あかりの、「ファン」としての死の瞬間だった。
(丁寧に、綿棒を拾う動作がお骨を拾うよう、と描写してくれている。やさしい!)
「推し活」という言葉の雑さ、その先にあるもの
冒頭自分で、「推し、燃ゆ」状態と言ったものの、私とあかりの精神性は異なる。表面上の行動が似ているだけ。
でも、文章にすることに限らず、グッズの収集やCD大量買いなど、その表面上の類似性がピックアップされて「推し活」という言葉に収束される。これは多分「推し活」という言葉に限らないだろうけど。「ワーママ」「育メン」「リケジョ」あたり。
あくまでも私たちオタク(またはファン)は、推しという恒星の周りを廻り続ける惑星に過ぎない。共通点と言えば、多分それだけなんだ。恒星が突然消滅するかもしれないし、いつか輪から抜けるかもしれない。それまでは、推しの吸引力に身を任せる。
廻りながらどんな感情を抱くのか、それは結局人それぞれ、という、大変陳腐な結論に至ってしまった。
私はこれからも、髙橋海人さんについて考え続けるし、理解したいと願うけれど、それは一生叶わないと思う。
何万字書いても「髙橋海人の心が宇宙」と結論付けるしかなかったように、どんなに執念を燃やしても推しの本質には近づけない。そして多分彼からしたら、この執念はキモいとおもう…かいごめ(海ちゃんごめんね ※一応)
ただ推しが好きなだけなんだ、推しを応援したいだけなんだ、に、ファンそれぞれのトッピングがどうしても乗っかってしまう。
「推し活」とカジュアルに括れないほど、「推す」という行為は業が深い。
「推し、燃ゆ」再読によって、改めてそれを突き付けられた。
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