第6回目 “A Theft” を読む(2nd)。 翻訳小説は翻訳者のオリジナル作品。原書との等価性は、元から何ら担保されてはいなかった? 本当か?
<やっぱり原書>
柴田耕太郎氏の本、「翻訳家になろう!」に誤訳の実例がたくさん挙げられているのを見て、まず最初には、そんな翻訳本を書いた翻訳家に腹が立った。読み終わって反芻する内に柴田耕太郎氏が良いとする翻訳もどんぐりの背比べかという気がしてきた。一方、村上春樹氏の本の翻訳をされているルービン(J.Rubin)先生の講演で「村上氏は意訳せざるをえなかった英文箇所の下見を依頼すると、あなたに任せますと言ってほとんど口を挟まれない」との趣旨のことを話されているのを聞いたことがあります。村上氏にしろ柴田元幸先生(柴田耕太郎氏ではない)にしろ「訳に間違いがあろうとも、原文が読めないで私の訳に頼ろうとする人の責任で、翻訳屋が読者に責任を負うのではない(負ってなんかおれない)とのお考え」とどこかで発言されていたかと記憶します。
以上は何年か前の記憶ですが、この “A Theft”の Study Notes を人目に曝すという「天に唾する」作業を始めて一ケ月経った今週に気が付いたのは翻訳小説はレンディション・二次創作物であって「ウエストサイド・ストーリー」の映画と「ロミオ&ジュリエット」の戯曲との関係と本質的に同じである故、これらの間に等価性を期待することが誤りだと気が付きました。原書の良さと翻訳小説の良さは別物でないまでも別物に近いのだと納得しました。誤訳した訳者に怒らないことが出来るようになりました。結論は、私の方針「Study Notes を利用して頂いて、少しでも原書を読もうという気を起こしてもらおう」という方針を維持しようです。
<私が出くわし歯ぎしりした不快な訳文の例>
1.柴田先生と村上春樹さんのオギー・レンのクリスマス・ストーリー
柴田元幸先生と村上春樹さんが翻訳文を比べながら翻訳の手法を講義される本「翻訳夜話(文春新書)」の中で教材であるポール・オースターの短篇「Auggie Wren’s Christmas Story」の訳で柴田先生が「・・・本だの作家だのと聞いても、そんなもの犬も喰らうかという顔しかしない。・・・」と誤訳され、村上さんが「・・・本とか作家になんて特に関心を持たない。・・・」と誤訳されています。この誤りはこの短編の急所・オチを短篇の始まり部分で伝える重要な一行に関わるものです。原文はMost people couldn’t care less about books and writers, but it turned out that Auggie considered himself an artist.です。「多くの人は(オーギーも含めて)本だの作家だのに対してほとんど何らの警戒心も抱かないものだ。しかしオーギーは(警戒心を抱かないのはもちろん、それに止まらず、)作家をも含めて言うところの芸術家を自認していたことが後になって判明した」と訳すべきです。(原文は警戒レベルについてこれ以上に低いものがあり得ないという理屈にもとづいた表現です。)お二人の訳とは異なり、原文は、多くの人々は本にも作家にも興味を持っているし関心もあるのだといっています。(だから人々はこのストーリーに心温まる思いをするのです。)この文は雑誌やたばこを置いた大通り沿いの売店の店員がいろいろな人に関心を持っている理由を言っているのです。警官がうろつけば怪しげな行動は慎まねばと警戒しなければならないという意味で関心を持っているし、近づいてくるのが普通の人ならおべっかを言うなりして物を買ってもらわねばと気を遣わねばならないし、泥棒かもというのが近くに来れば隙を見せない様に気にもせねばならない。ところが本や作家には害を加えられる心配はないし、おべっかを使って何らかの利得を得ようとしても無用なので気が楽だというのがこの文の主旨のはずです。
2.James Baldwinの ”Another Country” は私の好きな本です。
ジェームス・ボールドウィンの小説「もう一つの国」(集英社世界文学全集19巻、野崎孝訳)。第一ページの10行目くらいにある、これもこの長い小説の肝というべき、主題をワン・センテンスで表すとこれだという力の入った一行の翻訳が間違えています。「自分の身体も自分のもののような気がしない」と訳されていますが「今や、彼は自分が所有していたものすべてを失くしていた。」と原文は言っています。原文は「 … nothing of his belonged to him any more」です(nothing of his が主語で belonged to が述語動詞という簡単な文です)。この男(黒人)は白人女性と同棲しアパートも所有していたのに彼女は自分から引き剥がされるしアパートは収入が途絶えて追い出され、知り合いのアパートに行くにも切符代がポケットに残っていないで夜の貧しい飲み屋街にでてきて悩んでいることを書いている文です。
3.”Trout Fishing in America” by Richard Brautigan
この著者の本をたくさんは未だ読んでいませんが、この本にはベトナム戦争が終わった直後の時代のバンコック(戦争当時にベトナムの戦場から休暇でやって来た兵士たちの息抜き場であった)で私が経験したおぞましい世界を生々しく思い出させられることから、読むのが辛い「散文詩?」も含まれています。
「アメリカの鱒釣り」(新潮文庫)藤本和子訳の中の墓場の鱒釣りと題された一節 原文
I had a vision of going over to the poor graveyard and
gathering up grass and fruit jars and tin cans and markers and
wilted flowers and bugs and weeds and clods and going home
and putting a hook in the vise (vice) and tying a fly with all that stuff
and then going outside and casting it up into the sky, watching it
float over clouds and then into the evening star.
藤本和子訳(新潮文庫)
ふと、こんなことを思った――貧乏人の墓場へいって芝を刈り、果物の瓶、ブリキの空缶、墓標、萎れた花、虫、雑草、土くれを取り集めて持って帰ろう。それから万力に釣針を固定して、墓地から持ち帰ったものを残らず結わえつけて毛鉤(けばり)をつくる。それができたら外へ出て、その毛ばりを空に投。・・・
私の解釈 ( 参考:この貧困家族の墓地の向かいの丘には金持ち家族の墓地があり、これを描く一節も原書にはあって対比されています。)
*viceには万力と悪徳の互いに語源を別にする意味がある。viceにはtheが付いているので拾い集めた貧そな代物(貧しい人たちがかたずけないで放置したゴミ残飯。貧困の象徴)をさす。
*the evening starは金星、夕方に輝き始めた星です。
*markersは複数であり墓荒らしをしているのでないから、破損し散らかっている破片をゴミ拾いしているのは明らかです。
貧困一族の墓地に出向き、(枯れた)芝生、果物ジュース瓶やブリキの空き缶、墓標の残骸、枯れて萎んだ生け花、害虫、雑草、土くれを拾い集めて持ち帰る。そしてこれらこの世の悪魔(邪悪)にフックを引っ掛け、それに疑似餌を繋ぎあわせ、これらすべてを一つながりにする。そして家から持ち出し空に向かって放り投げる。するとそれが雲の向こうに浮かんで揺れて、つづいて金星(宵の明星)にまでフワフワとたどり着くのを見とどけるなんてことできればなと思い巡らせた。
4.”To the Lighthouse” by V. Woolf
小説の舞台である貸別荘の広い庭には、背景から浮き立ち胸に跳び込む鮮やかな明るい紫色の「クレマチス」や「トケイソウ」の花やここでの引用にある真っ赤な「トリトマ」が咲いているのです。しかし、この訳では次の通りです。
「灯台へ」(鴻巣友季子訳) ‘To the Lighthouse’ by V. Woolf
「ふたりは庭をいつもの方向にすずろ歩き、テニスコートの前を通り、パンパスグラスの高く叢れたあたりをすぎると、こんもりした生け垣がとぎれ、火鉢で赤々と燃える石炭のようなトリトマの茂みに守られる恰好になった。そのすきまから、いつにもまして青々とした藍の入り江がのぞいていた。」
原文は次の通り。
So off they strolled down the garden in the usual direction, past the tennis lawn, past the pampas grass, to that break in the thick hedge, guarded by red hot pokers like braziers of clear burning coal, between which the blue waters of the bay looked bluer than ever.
ここで示した鴻巣訳では「翻訳小説」によくある「つきものの」としか言いようのない「意味のあいまいな文章」「繰り返し読めば読むほど何のことか分からなくなる文章」になっています。原文を読むと「事情・事態の提示は極めて直截的に表現されているのに」と私は感ずるがどうでしょうか?私の理解内容は次の通りです。
私の解釈 彼らふたりは庭を誰もが向かう普通の方向にゆっくりと歩き始めた。芝生のテニスコートを横に見、続いてパンパスグラスの横を通る。枝葉がぎっしりと詰まった垣根が途切れるところに向かって進んだ。それが途切れる処、(出入口)の左右には炎や煙を上げることなく燃え盛る石炭の塊のように真っ赤に咲き誇るトリトマが門衛として立っています。この一対のトリトマの間から見えた入り江の青い潮は、これまでなかった程鮮明な青色を呈していた。(鴻巣訳では guard されるものがbreakである事が訳者の意識から漏れていたと思える。)
<“A Theft”の Study Notes Part-2 無料公開>
これから先の行動を理詰めで考え、不条理に立ち向かう。このような営為・行動を描き出すためにSaul Bellowが繰り出す屁理屈と言いたくなるほどの理屈が面白い、あるいは見事なのです。その一例として下記の部分を抜粋し取り上げました。(私の和訳は英語のLearnerによる原文の文法的構造の理解の助けになることを目指して作成しています。)
=私の和訳=
「捻り(ねじり)上げて殺してしまうぞと言わんばかりに恐ろしい危機が訪れ、私たち二人を脅したのです。」(とクラーラはローラ・ウォンに打ち明けました。)
その当時には、彼女は未熟であったため、この事態を徹底的に考えることが出来なかったのでした。この時の状況をどうのように言葉に表すことができるのかは、長い時を経た後になって解るのでした。その時が経ち解ったこととは次の通りです。生きていることから愛を切り離すことは出来ない。人は一人ぼっちであっても生きることは出来るのですが、この場合にあっては自分自身を愛するのです。このようになると、自分以外のものは誰もが人間の姿をした亡霊(影絵劇の登場人物)に潰えて(ついえて)しまうし、世界を相手にして存在する政治なるものも影絵劇の世界に潰えます。このことに思い至っていたならば、クラーラは自分が、イシエルにとって政治の世界で生きるのに必要な鍵として、彼が手に入れることが出来る唯一の鍵であったことにも気が付いたはずでした。クラーラとの愛を失くしてしまっては、イシエルにはあの奇々怪々なるゲーム理論、イデオロギー、数々の条約、その他沢山の物事に頭を悩ますのを止めにした方が良いことになります。何故に、たくさんの亡霊どもを自分の友・知り合いとして維持して置くことに頭を悩ませる必要があるでしょうか?
=該当部分の原文の抜粋=
“A terrible crisis threatened to pinch us both to death.”
At the time, she was not advanced enough to think this to a conclusion. Later she would have known how to put it: You couldn’t separate love from being. You could Be, even though you were alone. But in that case, you loved only yourself. If so, everybody else was a phantom, and then world politics was a shadow play. Therefore she, Clara, was the only key to politics that Ithiel was likely to find. Otherwise he might as well stop bothering his head about his grotesque game theories, ideology, treaties, and the rest of it. Why bother to line up so many phantoms? =以上= (Page 132, L25 - L33 of Saul Bellow Collected Stories, Penguin)