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【随想】愛と情熱に生きたブロンテ姉妹

今日はクリスマス・イブということで、キリスト教にちなんだテーマを。昨年には、文学と信仰・宗教の関係性を、次の記事にまとめてみました。今回はもう少し的を絞って、ブロンテ姉妹のキリスト教観について触れてみたいと思います。

今から十数年前、初めて『嵐が丘』と『ジェイン・エア』を読了したときの感想は、次のようなものでした。

ブロンテ姉妹は、厳格な牧師を父に持ちながら、そして物語の至る所に聖書からの引用がふんだんに盛り込まれているにもかかわらず、少しもキリスト教的なものを感じさせない。むしろ、彼女たちの生み出す主人公たちは、当時の世間の認めるキリスト教的な概念に、どこか反骨的でさえある。

『嵐が丘』では、ついに主人公たちが神への信仰の片鱗さえも示さなかったのは、驚くべきことである。『ジェイン・エア』で主人公は、超自我的なものを神として拠りどころとしていた。彼女は絶えず、本能から察知した自己の真の姿を偽ることなく、しかし同時に内在する神の導きを求めた。彼女はときに、本能に身を任せて神に抗うことに魅力さえ感じ、あるいは彼女の魂は苦しみに悶え叫び、そして葛藤したに違いない。神とは彼女にとって、人間が従属するべき存在というよりも、魂をさらなる高みへと導く超自我的な力であり――それはおそらく、彼女の内心から聴かれる彼女自身の声だったのかもしれない。

彼女たちにとって神とは、いったい何であったのだろう?
それは教会に閉じ込められた産物ではない。
それは個人の魂に宿る何かである。

しかし念頭に置いておきたいのは、彼女たちが決して信仰を否定していたわけではなかったことです。ある一つの詩が、それを証しています。

O God within my breast,
Almighty, ever-present Deity!
Life―that in me has rest,
As I―undying Life―have power in thee!

私は今汝に呼びかける、……わが胸の衷(うち)なる神よ、
全能にして永遠に存在する者よ、生命よ、わが衷に宿る者よ、――
私が――不滅の生命たる私が――汝によりて強きごとく、
わが衷にありて強き者よ、と。

'No coward soul is mine' 「私の魂は怯懦ではない」エミリ・ブロンテ〈抜粋〉
『イギリス名詩選』平井正穂 編 岩波文庫

正統的な信仰や信条を示唆する表現と背中合わせにそれを超えて自分自身の信念を叫ぼうとしている、まだ若い女性の姿がにじみ出ている。

脚注より抜粋 同上

修行者のごとくストイックでありながら、火花を散らすような激しい魂の叫び。そして神と一体となる陶然とした恍惚。シャーロットやエミリの放つ人間的魅力は、振幅の激しい静と動の間を生き、愛すべきものを愛し抜く情熱家としての資質かもしれません。

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