Twitterで絡まれたので載せてみようと思います。
本当に長いので暇でなければ、見なくて良いと思います。主にUさんと僕の会話です。
今思うこと…。やはり、本物の好意を僕が表すのに最適だと思う言葉はイデアではないな…と思います。なんか物質に使うイメージがあるので。言葉に対する分からなさの例として水を出したまでです。
あと、僕は人がそこに在ることや、どう在るのか…または、どういう世の中の状況を踏まえた上でどう在ろうとするのか…ということに意味を見出そうとしているので、ニヒリズムとはやはり、相容れない側面がありますね…。
人類の歩み、人文科学こそ最も価値のあるものと、宗教的と言っても差し支えないくらい思っているので。
これらは、世の中の状況とは別に、自分自身の在り方として、自分自身に向けられた思想です。
自己完結型リベラリズム…人の歩みや在り方に意義を見出そうとする点で、ニヒリズムに対して、人文科学を妄信することにより対抗しようとしている…そんなところなんじゃないかなと思います。知らんけれど。
自分が何をするにしても、それは人文科学として価値のあるもの。
それは最先端の論考や人文科学の正統な歴史に則っていなくても。自分の過ごす、この1秒もまた人文科学である…みたいなことを思ってます。そして、それは誰にでも適用される。僕が一歩歩く。これこもまた、これこそが、我もまた人文科学である…と。
オカルトのアカシックレコード的なものと考えたら分かりやすいと思います…。自分が今この瞬間どう在るか。それは自分にとっても、世界にとっても意義のあることだ…。と半ば妄信してると思います。
あと僕は、実は哲学的な話は好き…というわけではないです。
人によって違ってそれで良いと思うので…本来他の人にひけらかさなくても良い。特に自己の在り方みたいな話。
幸せはどこに在るのか…と尋ねられたら、僕は少なくとも哲学の中にはない。と答えたいです。
穏やかな日差しと、ピックニックと家族愛。ここに幸せはある。そう答えたいです。
ただ哲学的な話が必要になる場面は多くあるな…と感じます。
特に価値観の崩壊が起こりやすい現代社会を生きていく上では。まさに混沌の21世紀ですね。現代を生きる哲学者の言葉にはいつも驚かされます。
時代の本質を覗く目、力が哲学にはあるなと。
過去の哲学者の偉人もすごいとは思いますが、彼らの思想の前に、彼らの生きた社会や彼らが触れてきた価値観が存在していた…という前提も重要だと考えています。
おそらく、詳しく紐解いたことはありませんが…彼らの思想には、彼らにそう考えさせた当時の社会状況があったのではないか…と。
まぁ単純に現代に近づくにつれて、社会を取り巻く状況がどんどん複雑になっていく…と考えると、比較的原初の状態の時、人々が何を思ったのか…それらを推測する手がかりとしては、当時の哲学者の発想は大変な知見に富んだものだと思います。当時の肌感覚を知る一助として…くらいに過去の偉大な哲学者を捉えている自分がいます。
哲学の存在意義をどう捉えているか…という話かもしれません。僕は哲学を、時代や物事の本質を覗く目として捉えているので、現代において1番価値が高いと感じるのは過去の哲学者ではなく、共に現代を覗いている現役の哲学者の方です。思想は当時の社会の状況に少なからず影響を受ける。なんとなくそう思います。
僕は哲学より、人類の歩みとしての人文科学、当時の肌感覚を探る社会学、民俗、風俗のようなものが好きなのです。
もちろん哲学の道を歩もうと思った時、当時の社会の状態と、哲学者の発想、思想を一つ一つ丁寧に追いながら、哲学の正統な歴史を追いかけることも重要で大変意義のあることだとも思います。
あと…なんか僕、アカデミック的な難しい言葉を使うことに抵抗があって…プライドみたいな概念が好きじゃないんですよね。これもまた、リベラル的な観点なのですが…人は皆平等でアカデミックが、難しい言葉を使えることが偉いとは思わないので…なるべくそういう言葉を使わず表したいんですよね。
…これ、はじまったの午後5時で終わったの午前5時です…眠い!勘弁して!
あと水の話はもっとしたかったです。純水以外は水ではないのか。水は塩水を内包しているのか。塩水と水があって、先輩に水取って…と言われて、塩水を渡すと、飲んだ先輩がしょっぱ!これ塩水じゃん!水をとってよ!と怒られる場合。塩水の塩っ気が薄かったら怒られず、ありがとう…と言われるかもしれない…。
不純物の一切入っていない水、純水以外は水でない。とするなら、ドラッグストアに売ってある、おいしい水…とはなんなのか。ミネラルや、ナトリウムが入っているけど、水という名を冠しており、お客さんもまた、水だと認識する。水という概念の中に、塩水も含まれる…しかし、先輩に水取って!と言われた時のように、水と塩水は並列に見られる時もある。
水という概念を説明するときでも、このくらい様々な場面ごとの使われ方、作用の仕方がある…。内包されている言葉だということを説明しなければ、正しいとは言えない。ある言葉を正しく定義し、把握し、使っている状況というのは、大変珍しい。ということに対する説明でした…!でもコミュニケーションとしては、両者がざっくり分かればオーケーなのです。
あと、僕は一挙一動が世の中に対する意思表示や意見表明である…。少なくともそう取られても文句は言えない…と思っています。これは、直接的でなくても、間接的に作用する場合もあります。
たまたま、不機嫌で店員さんに対して乱暴な態度を取っていた。その店員さんがたまたま女性だった。そんな時、本人にその意図があるないに関わらず、周りから見た時、あの人はミソジニストだ。や、アンチフェミニズムである…と取られても文句は言えないのです。そのような態度をとった時点で、世の中に対して私はミソジニストである…と主張したも同然と捉えられてもおかしくない。そんな風に思います。
例えば好きだから…という理由でアボカドを買って食べたとします。アボカドは先進国でたくさん消費されるという点で、途上国で大量に生産されたりしますが、アボカドは土の中の栄養素を吸い取り、肥沃な大地を枯らします。そして大量の水を消費する。地球環境悪化の原因の一つであるとも言われます。この事実を知っていた知らなかった問わず、アボカドを買った時点で、この人はより地球環境の悪化に寄与する人なのだな…。と思われても仕方ない。もっと言うと、私はアボカドを買うことで、地球環境の悪化に寄与します…!と世の中に対して主張するも同然ということになります。
僕が、アボカドを買うことが悪い…と思っているわけではありません。それは、地球環境をより悪化させることは悪いことである。という立場に立った場合の話です。ですが、行動や発言には、そう言った間接的に意見や思想を発信してしまう…またはそう取られてもおかしくない…という性質があると思います。
あと、なんか人間は言葉を省略する…的な話がありましたが、そう言った修正があるからこそ、慎重に一つ一つお互いの前提条件を確認していく作業が対話をする上で重要であると考えます。
対話をする上で、一番大事なのはお互いがどう言った前提条件の元、何を是、何を非として何について語ろうとしているのか…というところです。
そこを丁寧に互いに明らかにし、理解できると驚くほどスムーズにコミュニケーションは完了するものです。
あとイデアなどの難しい単語を使った場合、相手がどのようにその単語を理解しているのかが見えづらくなるので、コミュニケーションの摩擦が生まれるリスクが大きいです。
あと、僕は超自由人なのでどんな意見を見ても、僕はこう思うけど、みんなはそれぞれ自由で良いよ…みたいな枕詞がいちいち書かれていなくても見えるくらい無意識に、思想は個々人によって自由だと思ってるんですよね…。
擦り合わせこそ、コミュニケーションの本質だと思います。相手がどの言葉をどういう概念として捉えていて、どう使っているか…相手の知識レベルがどのくらいか…それが会話する上で最も重要であり、最優先で明らかにするべき事柄だと思います。TPOです。Twitterでは万人にわかりやすく文章を書くこと。僕があなたに分かりやすく文章を書くことは、あなたに分かりやすい文章を読んでほしいからだけではありません。私にとって、私はいついかなる時も誰に対しても、誰からもわかりやすいと思われる文章を書く人間である…という世の中に対しての、いわば政治的主張みたいなものでもあるのです。私はこういう人間であるということを示し主張する、私にとって重要な要素です。
あとイデアなどの概念は、私は哲学者、一個人が勝手に作った言葉、概念と解釈しています。
どの人がどういう概念を作り、どう使おうが自由ですが、それを自分にまで矯正される筋合いはありません。乗るかそるかは僕次第です。他の翻訳を参考に自分で翻訳してみる…も他の翻訳者の解釈や自分の解釈が入ってしまって、多少ですが同様の誤解を生みます。
本来より真である…方向でものを言うなら、哲学書は原文を読め…。これだと思います。
他の言語に翻訳したのでは、その言語では言い表せない概念や、元の意味とは違った翻訳の仕方、翻訳者の意図が出てしまい、本来の意味と異なった解釈をせざるを得ない状況が生まれます。
言語とは、その言語独自の概念の内包の仕方、意味の連なりを体系立てて表現されるものですから、やはり原文のまま読み、原文のまま理解するということは重要です。
僕は言葉を真っ直ぐ言葉のままに、正しく受け取るようにしている。皮肉にはあまり付き合わない。言葉の発せられた意図より、その言葉の表す概念を重要視する。だから、こちらの意図を勘ぐられることも多い。でも、僕は相手がどう言うふうに勘ぐっているのかを慮れない。それを擦り合わすのに必要なのがコミュニケーションだ。僕は言葉を紡ぐ時、一つ一つ丁寧に紡いでいる。
あとあれですね…ずっとうっすら疑問ではあったのですが…意味を真の意味で理解している…。という言葉は、僕は使ったことがないですね。
私たちが言葉を使うとき、その言葉の内包する概念を正しく理解して使っている場面は少ない。と言ったまでです。
それは、自分で使った言葉なのに、その意味を定義されていないんですか?的な質問に対する答えです。
そういえばこの方、共通言語が不足している…と言っていますが、正しくは共通の記号(コード)なのではないかな…と思いました。言語という括りにしてしまうと、今現在も日本語という言語を介して話せているので…。
また、これは厳しく冷たいことを言うようですが、予めその人が、リベラルな思想を持った場合と持たなかった場合のメリット・デメリットを把握した上で、リベラルな思想を持たないと判断を下している…と見なされる側面が現実にはあるなと感じます。そこを把握していないと、特定の感情に出会ったとき、責任の所在を他に求めてしまったり、被害者意識を感じやすくなるのかな…と思います。
それ以外の場合もたくさんありますが。どういった感情をなぜ感じるのか。そこを明らかにするのが重要だということです。
「そんな入口程度の話をうろうろするくらいなら」と言っていましたが、今回僕は、前提となる各言葉に対する認識こそすり合わせるべき項目だと直感的に感じました。なにせ、僕の最初の言葉に対して、言っていることがわからないと仰っていたのですから。僕の中では自分の意見は筋が通ったものです。そこの間を埋めて、筋の通り方を抱えた前提から埋めていきたかったのですが。