感想◆小説『白鳥とコウモリ』読みました
『白鳥とコウモリ』(写真はカラス)
東野圭吾作品は苦手だった。
いつぞやのnoteで書いていたような気がする。
理由は明白で、映像化された作品が私の好みに合わなかったから。
それでも電車内の中吊り広告で知った『容疑者Xの献身』はとても好きな作品だったが、なんとなく東野作品には手が伸びない日が長いこと続いた。
それを一気に打ち破った作品が、『クスノキの番人』だった。
かなり最近の作品なのだけど。人殺しの作品ではない。
(これもnoteに書いた気がするんだけど、見つけられなかった。)
『クスノキの番人』をきっかけに書店で見につけば手当たり次第に買い求め、読み漁った。とは言っても、おそらく全体の1/10も読んでいないとは思う。が、今はそんなことどうでもよく、私なりに東野圭吾氏の今回の
「白鳥とコウモリ」の感想、というか、思いを書いてみたい。
タイトルを見たとき、どういう意味なんだろうと単純に思った。
小説のタイトルというのは、話の筋に沿っているものもあれば、比喩的表現のものも多い。この作品は後者だ。
被疑者の供述内容は、被害者遺族にとっても加害者遺族にとっても「ありえない」内容だった。被害者遺族=娘は、「(殺された)父はそんなことは絶対に言わない。この人は嘘をついている」と訴え、加害者家族=息子は、「父(被疑者)はこんな考えをするような人間ではないです。父は嘘をついている」と訴えるのだった。そして決して交わることなどないはずの両者が、真実を知るために歩み寄る。
だから、なのだ。
「光と影、昼と夜、白鳥とコウモリ」
作中で若い所轄の刑事が呟くセリフ。
相棒で捜査一課の刑事が「うまいこというな」と返す。
そう、そのままそれがタイトルになっている。
この話に出てくる被害者のうちの一人はとても褒められた人物ではない。
だからと言って、殺していいはずがない。
そんなことは百も承知なのだ。しかし愚かな人間というものはいる。
そしてさらに愚かなる人間が現れたことによって途方もない悲劇が生まれる。この悲劇を止める手立てがまた愚かだと言わざるを得ない。
あのとき、どうすればよかったのだろうか。
考えても答えなど出るわけがない。万が一答えが出たとしても、
時を戻すことはできない。ただ後悔しかないのだ。
そうして新しい殺人が起きる。
そしてまた愚かな人間が現れる。
贖罪のつもりなのだろうが、今度の殺人は別の悲劇を生んでいたとも知らずに。
東野圭吾氏の作品は「愛」がテーマだと思う。これは以前noteでも書いた気がする。人殺しの話を読んでも、人間ドラマの話でも、奇跡の話でも。
そこのは「愛」がいつも描かれている。
しかし、その「愛」が歪んでいることがある。小説の中では、その歪んだ愛について冷静に見つめている登場人物がいる。読者目線と言ってもいいかもしれない。実際にはあり得ない、と読みながら思うこともしばしばある。
が、果たしてそうなのか。
愚かな人間でなくても
賢い人間であっても
理性的であっても
断言できることなど、何一つないのだ。
『白鳥とコウモリ』
現実と非現実。
上下巻の長編だが、あっという間に読めてしまう。
本当に「東野圭吾だな〜」と思わせる作品だと私は思う。
そして、なぜだかわからないが、ちょっと救われた気持ちになれる、
そんな一冊だった。
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