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ソクラテス「親愛なるクリトンよ、私たちが大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ。」

ソクラテス「親愛なるクリトンよ、私たちが大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ。」
(「クリトン(プラトン)」より)

ここではまず、「ただ生きる」と「善く生きる」の違いを明確にしなければなりません。

ソクラテスの言う「善く生きる」とは、己の魂を善きものとしていくことです。

ここで何よりも大事なのは、己の魂が善きものであるかどうかは、己がまず判断すべきものであるということです。

私たちは往々にして、己の魂が善きものであるかどうかを、他者の判断に委ねがちです。

つまり「他者にどう見られているか(どう見られたいのか)」が己の行動の判断基準となっているのです。

しかしソクラテスはこう言います。

「善く生きる」賢者にどう見られているかは重要であるが、「ただ生きる」だけの大衆にどう見られているかは全く気にするべきものではない、と。

「ただ生きる」大衆とは、己の魂を善きものとすることを何よりも優先することは全くなく、己が周囲にどう見られているかを常に気にしており、かつ魂を磨くことよりも金銭や名誉、快楽の享受などを優先して生きるものです。

つまり私を含む世の大多数の人たちのことです。

ソクラテスのような生き方を実際に実践している人は、私たちから見れば、ただの非常識な変人なのです。

だからソクラテスは嫌われて、疎まれて、最後は処刑されてしまうのです。

正直に告白しますが、私はソクラテスのような生き方をする自信はとてもありません。

どうしても人目を気にしてしまいますし、お金や快楽を好みます。

快楽を嗜むことによって、己の魂が汚れていく自覚はあるのですが、

「まあ、ちょっとぐらい仕方ないよね」

と目をつぶってしまいます。

こんな私の生き様をソクラテスに見られたならば

「この馬鹿もんが!!!」

と即座に一喝されることでしょう。

そんなしょうもない私が、一体なぜソクラテスの言行を語るのか。

それは、「善く生きる」ことを完璧に実践することは不可能であっても、せめてそれがどういうものであるか、ぐらいは知りたいからです。

そして、今の己の生き方が、それと比べてどれほどかけ離れているかを自覚して、ちょっとぐらいは反省したいからです。

自己の内的探求を通じて、その成果を少しずつ発信することにより世界の調和に貢献したいと思っております。応援よろしくお願いいたします。