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神よ、どうか私のお腹を救いたまへ

 ひと仕事終え、ティーブレイクがてらコーヒーを飲む。カランと氷が回り、コップはガラスの肌に汗をかいている。
 豆乳を注ぐと、焦茶色に白濁色が加わり、マーブル模様が浮かび上がった。そして、徐々に溶け合っていく。
 なんともいい時間だ。私にとっての心の安らぎとは、この瞬間なのだろう。カフェインが心身に沁み込み、脳からセロトニンが生成されるのを感じた。
 そんな幸せを噛み締めていると、陰からあいつがやってくるのを微かに感じ取った。奴め。また私を邪魔するつもりなのか。毎度毎度私にまとわりつき、幸せを無心する最低の存在が、またもや私の前に現れた。

 腹痛。それは敵対する脅威。私の腹は時と場合を全く無視し、その有り余る鋭さで私を攻撃する。一日一回は絶対に来るので、きっと私を倒すとログインボーナスが貰えるのだろう。たまには私に侘び正露丸を頂けないだろうか。偏頭痛持ちでもあるが、そちらはロキソニンという全てを解決するエリクサーが存在するため、明らかに腹痛の方が厄介だ。
 腹痛への対応方法としては、神に祈るしかない。それ以外の方法を持ち合わせていない。なんとも前時代的だとがっかりされるかもしれないが、舐めないでほしい。私の祈りはそんじょそこらの祈りとは違う。必死に脂汗をかきながら、そしてそれを悟られないように、優しく微笑み腹を擦りながら、神と腹のことだけを思い祈る。傍から見れば聖母マリアと見間違えることだろう。トイレが個室でなくスケルトンであれば、私はキリスト教の重鎮になっていたと言っても過言ではないのだ。私にはプロテスタントの代わりに、ストマックとしてカトリックと対立して激戦を繰り広げる自信がある。

 依然として腹は痛く、我慢ならずトイレへ駆け込んだ。ここが家であり、本当によかった。神に祈りながら、腹痛が収まるまでじっとこらえた。
「腹痛の時だけ神に祈る」という趣旨の話は、今では手垢に塗れ腐ったユーモアなのだろう。きっと誰もが聞き飽きて、口にするのも恥ずかしいことだと察する。しかし、だからこそ私は今話している。トイレにこもる私には人を笑わせてやろうなんて気持ちは微塵もなく、ただただ腹の痛みが治まることを神に祈っている。私は腹痛に関して本気だ。本気で祈っているのだ。私の訴えに苦笑いを浮かべる異教徒を想像すると、怒りさえ込み上げてきた。
 しかし怒りでは何も解決しない。ああ、早く楽になりたい。祈らねば。

 トイレにこもり始めてから十数分経った。私の祈りが届いたのか、痛みが治まってきたようだ。嬉しさのあまり声も出ない。
 やはり祈りさえすれば神は望みを叶えてくれる。神万歳。神は生きていた。
 ルンルン気分でトイレを出て、作業机に向かう。トイレに磔にされた私が再び息を吹き返した今日という日を、イースター(復活祭)にしたいくらいだ。私は神の恩恵を賜り、無敵になったのだから。

 机に置いてあった飲みかけのグラスを掴んだ時、どこからか「飲むのをおやめなさい」と聞こえた気がした。ええい、神の使者である私に指図とは、不敬であるぞ。
 私はその声を無視し、一気に飲み干した。コーヒーは食道から胃に落ちるのが分かるくらいキンキンに冷えていた。
 コーヒーの苦みを豆乳が抑え、いい塩梅にマイルドになっている。奥の方で微かに鼻につく酸味も良いアクセントだ。コーヒーの味の違いなんてよく分からんが、貰い物なのでいいコーヒーなのだろう。
 しかしまあ、なんて美味い飲み物を作ってくれたのだと感謝する。ワインよりコーヒーの方がずっといい。水をコーヒーに代える力が欲しい。あー!コーヒー美味い!だーいすき!

 人間はかくも愚かなのか。下らない。今、私はトイレにいる。神よ、どうか私のお腹を救いたまへ。 


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のろのろな野呂
こんなところで使うお金があるなら美味しいコーヒーでも飲んでくださいね