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呪わしい皺の色『紐爺や』セルフ書評

 初めまして、野呂岩志のろいわしです。先日BOOTHにて詩・小説・短歌・イラスト・漫画から成る作品集『紐爺や』の販売を開始したので、壁に頭を打ち付けて創作に関する記憶を飛ばしてから書評をしようと思います。以前にも何度かこの忘却法を試したことがあるのでわかるのですが、消したい記憶だけをピンポイントで消すことは難しいので、予め忘れたくないことをメモしておいた方がいいです。

<メモ>
野呂岩志:佐賀県佐賀市生まれ。これまでにクワガタ十二頭を飼育。一頭目に「ツーブラック」と名付け、それ以降二世、三世……と呼び続けたが、ツーブラック五世の脱走騒ぎでパニックに陥った姉が五世を踏みつけるという結末を迎えてからネーミングセンスがやや低下した(「ぺちゃんこ二号」「ごめんね四号」の項を参照)。生首と女性の足に関心があり、夏になるとオープンカフェに行き、アイスコーヒーを飲みながら通行人の涼しげな足元を観察している。うどん屋の座敷に上がる際、他の客の履物にふと視線をやったところサンダルの上で死んでいる蛾を見つけたが、空腹の姉から肩を叩かれたことによって正気に戻った。

ポテトサラダ:きゅうりと茹でたじゃがいもとマヨネーズを混ぜたような匂いがする料理。材料は不明。美味。

チョーク入りスープ事件:2011年9月29日に多弁塚第二小学校四年四組で起きた異物混入事件。40代の男性教諭に配膳されたわかめスープの中から緑色のチョークが見つかった。教諭が児童に呼びかけ、スープの中を確認させたが、教諭以外のものからは異物が発見されなかった。

本当の願い:結婚と長生きを諦めてなお心に残る願いだけ相手にすればよろしい。

ゆきのちゃん(仮名):野呂の手首を鉛筆で刺したことによって彼の記憶の中で永遠の生を得た女の子。ピラニアの捕食映像やオスのひよこが処分される動画を好んで見ている。

ぺちゃんこ二号:ツーブラック五世の脱走騒ぎから一年後、二度とクワガタを飼育しないと決めていた野呂に親戚のおじさんが押し付けるように贈った一頭。「五世の件は残念だが、ツライ思い出ばかりじゃないだろ」と励まされ、クワガタ達と過ごしたいくつもの夏が心に蘇り、「やっぱり飼いたいです!」と叫びそうになったところでチラッと姉を見やると、ばつの悪そうな顔で佇んでいた。一体何を思ったのか少年の口から出たのは「ぺちゃんこ二号って名前にします」という最低な文句だった。

氷嚢:患部を冷やすのに使う。

不老長寿キャンペーン:不老長寿協会による人魚の試食会を中心に展開される一連の宣伝活動。貴重な人魚の肉が無償で提供される試食会は人気がある。

ごめんね四号:野呂はある夏の日に友人と連れ立って人魚の解体ショーに出かけた。「カメラを向ければ何だってエンタメになる」という友人の言葉を真に受けた野呂はスマホを構え、乞食を、リョナラーを、千年後も働ける体を欲する労働者を、解体ショーを中止に追い込もうとする動物愛護団体を写して行った。プログラムはそのまま実行され、板前の華麗な包丁捌きで生きたまま切り刻まれる人魚の悲鳴がマイクに乗って会場に響いた。アイドルファンと違って訓練されていない観客が勝手な文句を叫び、場は混沌の相を呈していた。「まだまだこんなもんじゃないぞ」という友人の言葉の続きを聞く前にチリンチリンと鈴が鳴らされた。どうやら肉の配布が始まったらしい。野呂達は会場の隅から調理台に押し掛ける人の群れをカメラに収めた。「毎年これで何人も死ぬんだ」友人はスマホから目を離さずに言葉を継いだ。「モザイクいっぱい掛けなきゃな」 結局騒ぎが収まるのを待って列に並んだ二人が口にできたのは人魚の小指の皮か何かで、ろくに味もしなかった。

呪わしい皺の色:佐賀県佐賀市生まれ。好きな料理は海鮮丼。このたびBOOTHより作品集『紐爺や』の販売を開始した。



 準備が終わったのでそろそろ頭を打ち付けようと思います。こういう時に隣の住人の生活周期を把握しておくと便利ですね。今は留守のはずですので、遠慮なく壁に打ち付けられるわけです。それでは皆さん、また会いましょう。




               〇〇〇

 

 こんにちは、皆さん。頭がズキズキ痛みますのでメモにはあまり目を通せていませんが、どうやら私は書評を書かなければならないようですね。痛い。本当に痛い。次の段落に移る前には例の作品集を読もうと思います。それにしても、このメモの内容って本当のことなんでしょうか。ポテトサラダの材料くらい今の私でも知ってますし、人魚の解体ショーについて調べたところ、そのような催しは行われていないそうじゃありませんか。氷嚢はどこですか。ただ、右の手首に青黒い何かが埋まっているのを見るに、ゆきのちゃんとやらに鉛筆で刺されたことは本当かもしれません。

 長らくお待たせいたしました。『紐爺や』の構成に触れるところから始めようと思います。この作品集は詩五編、小説五編、短歌八十九首、会話劇の台本一本、イラスト二十五点、漫画五点から成ります。が、それらは表現形式ごとにまとめられているのではなく、作品集全体に散らされていることがわかります。あとがきを抜粋しましょう。

……私は詩・小説・短歌・イラスト・漫画の順に作品を作り始めたわけですが、ページを並べる際にはそれらを飛び石のように置くことを意識しました。言語の川と イメージの石です(小学校の朝読書の時間にパラパラパラとページをめくっていた速読の達人たちはクラスメイトから敬意を込めて「うさぎ」と呼ばれていました)。また後付けの意図にはなりますが、短歌の並びが季節順であることや表紙と本文最後のイラストが同じであることから 円環構造を見て取ることもできます。イメージの珠と言葉の糸です。繰り返し読んで楽しんでください。

呪わしい皺の色『紐爺や』

 ここで作者が小学校時代の思い出を捏造までして飛び石の比喩にこだわっている理由を考えてみます。「速読の達人」とは文字を読まず本の挿絵だけを見る子供のことを指しているわけですが、作者はこうした子供を揶揄しているわけではありません。なぜなら、言語が「川」でありイメージが「飛び石」に喩えられているからです。冷たい水に浸かったり流れに足を取られることなく川を渡るために石から石に跳ぶうさぎ=言語情報に煩わされない子供に対する作者の憧れの表明であると私は解釈します。

 しかし、皆さんこう思われるのではないでしょうか。言葉にうんざりしているという作者が詩や小説を書き、それらを発表するというのは奇妙な話ではないか、自分が嫌な物を読者に与えることに躊躇いはないのか、と。作品集において作者が自分の言葉で語る箇所があとがきにしかないので、加虐癖や社会性の有無を確かめることは難しいです。ただ、作者が言葉のどういう性質にうんざりしているのかが仄見える箇所があります。

愚痴るなら紹介するよ特別に。こちら壁君、天井ちゃん

 言葉は指差し可能な範囲の外にあるものに対して注意を促したい時に使われるものですが、上記の一首には言葉の負の側面、つまりその場にない不幸や不安を過去や未来、無意識、他者の心から引き寄せてしまうという性質が表現されています。

 言葉の手軽さについても触れておきましょう。「手首を鉛筆で刺された」と口で言うのには数秒しか掛かりませんが、この内容を絵で伝えるとすると一分以上掛かると思います(「自分で刺した」と絵を見る人に解釈されないように画面に二人の人間を描く必要があります。受動態を能動態に書き換えるわけです)。表現の質と表現に掛けた時間の関係について私から言えることはありませんが、人間の時間感覚からすると「手首を鉛筆で刺された」は短すぎますし、聞き手も聞き逃すかすぐ忘れることでしょう。話者自身も過去の出来事をあっけなく表現できてしまい物足りなさを覚え、話を盛り、修正を加え、新しい聞き手を求め、どこで満足すればいいのかわからなくなるのです。何よりもまずいのは、表現が手軽に行えるということは表現者がその表現物を公開する覚悟を決めるまでの時間も短くなりがちだということです。「人を傷付けるつもりはなかった」と「最初からボコボコに殴ってやろうと思っていた」の違いは表現に掛ける時間と関係があると私は考えます。

 ここまではあとがきに登場する飛び石の比喩が言語情報からの避難所としてのイメージ(絵)を表しているという解釈について言葉の負の側面から説明してきました。今度は第二の比喩を検討することで作者の表現観を深めましょう。あとがきの後半部分を抜粋します。

……また後付けの意図にはなりますが、短歌の並びが季節順であることや表紙と本文最後のイラストが同じであることから 円環構造を見て取ることもできます。イメージの珠と言葉の糸です。繰り返し読んで楽しんでください。

呪わしい皺の色『紐爺や』


 短歌の並びが四季の流れに沿っていること、最後のページから表紙へと読者の注意を促す仕掛けがあることを以て作品集が再読を促す環のような構成をしているのだと作者は「解釈」していますが、このとは何を指しているのでしょうか。まあ、「イメージの珠と言葉の糸」と来れば数珠を意味しているのでしょう。ただし、作者が作品集を数珠と見なすことで読者を何と向き合わせたいのかは不明です(作品集の外側にある無数の対象から「仏」と見なされるものの目星をつける困難さはわかっていただけると思います)。

 作品集の内側に目をやると、人の死を扱っている作品がいくつかあります。小説『骨上げ』では、語り手が幼少期の思い出として亡くなった祖父の骨上げの場面について語っているのですが、彼が注意を向けるのは大人達がしんみりと骨を拾う場面の背景にいる人の死の意味を理解できない子供達であり、鼻をほじる従妹なのです。小説『気の毒でもない話』では、大学生の語り手が母から電話で祖母の訃報を受けますが、ほとんど聞き流し、その日受けた講義の内容や最近の読書の傾向、趣味について、つまり自分の関心事について一方的に喋り、電話を切られるという場面があります。会話劇『アルガーリー・ヌアヌアは人でも蛙でもない』では、人と蛙の区別がつかず自分が人か蛙かも知らないキャラクター「男声の持ち主」がトラックに撥ねられ死にかけている隣で「女声の持ち主」がリルで終わる言葉(ドリル、グリル、フリル等)を思い出そうと唸っている場面があります。これらの作品に共通しているのは人の生死に対する関心の欠如であり、余所見です。

 自分や世界の終わりに対する無関心を表現した作品もあります。

「シロアリは蟻の仲間じゃないんだよ」空が罅割れ落ちて来る日に
立ち尽くすスーツ姿の悲しみと無実のつむじ 罅割れた空

 上記は作品集に載っている最初の一首と最後の一首です。世界の崩壊に際してそちらに目をやることなく雑学を披露している前者と、終焉を目の当たりにして慎ましく悲しみを背中で語る後者は対比的です。

 余所見というテーマを得て数珠の比喩に戻ってくると、作者は読者を向き合わせる「仏」を設定していないか、読者がそれを拝む可能性を否定しているか、拝むべきではないと勧めているか、とあれこれ悩むことができます。この疑問に対する答え合わせが次回作でされることを期待しましょう。


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