えたいの知れない小説
雨の木とは不思議なものだ。
雨の木とは一体なんであろう。
わからない。
この小説『「雨の木」を聴く女たち』は1982年に新潮社より刊行された大江健三郎による連作短編小説である。
私は、この小説に打ちのめされた。だからささやかな感想を書く。
例によってまだ半分あたりまでしか読んでいないけれど。
最初に置かれた短編「頭のいい雨の木」に「雨の木」は出てくる。
「その暗闇の大半が、巨きい樹木ひとつで埋められている」ほどに感じるその木。ハワイでの講演の後誘われたパーティを抜け庭に立つその木を見ている。「昼間でもこの樹木は、人間で言えばおよそ脛のあたりまでしか眺めることはできぬであろう」その木を。
ここへ誘ったのはあるドイツ系アメリカ人であるアガーテである。
彼女はこの木の名前が「雨の木」であること、中でもこの木が頭のいい「雨の木」であることを教えた。
物語はここから、車椅子の建築家(主人公がいてパーティが行われているこの精神障害者施設を造ったのも彼だ)と(恐らく恋人であろう)少年三人を連れたビートニクの詩人の論戦に移り、ひと段落つくと建築家の理論がこの建物でいかに実践されているかを観るために廻ることになり、最後にはスリラーホラー的な落ちをもって終える。
注目すべきはこの作品の異常な散らばりと奇妙なまとまりである。
概説しただけでもわかるように、この話に特に一貫性はなく、またビートニクの詩人が自分で作ってみたから批判してくれと言い提出する英語の俳句、序盤で出てくるアガーテをモデルにしたらしい「馬上の少女」なる絵画、そしてラストでこの建物の真実がわかってから詩人が笑い続け、それが終幕まで止まらないことなど、……これらに物語的な結びつきは見えない。
第一、タイトルにも出てくる「雨の木」自体が、なんら物語を動かす力は持たず、ただ最初と最後に出てくるだけで、展開においては一切不必要なのである。
しかし、実際読むとここに描かれるすべては、どれも同じ波長を持ち、バラバラでいながらそれが不協和音にならずなぜか調和している。
それは恐らく、「雨の木」のせいである。
「雨の木」の正体を私は「えたいの知れなさ」に見た。
「その暗闇の大半が、巨きい樹木ひとつで埋められている」
「昼間でもこの樹木は、人間で言えばおよそ脛のあたりまでしか眺めることはできぬであろう」
「……暗闇の前方を埋めている、わずかにその発達した板根の裾のひろがりのみが見えている樹木」
「小型バスを降りる時も樹木の全容を見ることはできなかったし、現にいまも樹木がそこにあるはずの暗闇を見つめているのみ」
「その暗黒のへりに底なしの奥へ落ちこんでゆくような、吸引力のある暗黒があって、そこにはたとえ遅い月の光があらわれても、山襞や海をふくめ、いかなる人間世界の事物も見出されるだろうと信じられる、そのような暗黒」
と語られるこの木が、象徴として物語の中に生えているが故に、この作品に現れるあらゆるもを「えたいの知れなさ」で結びつけている。
そのように感じられるのだ。
アガーテの正体のえたいの知れなさから、
俳句に描かれ想像される景色
建築家の思惑と建物
詩人の連れる青白い少年
絵画が描かれた理由
そして、詩人の狂ったような笑いのえたいの知れなさ
これら物語的な不十分が我々の前に現れるとき、知らず知らずそこにうっすらと「雨の木」を重ねてみてしまい、それが奇妙な調和と全体力を感じているのだ。
筆者自身が暗喩であると見たこの「雨の木」なるえたいの知れない木の闇が、作品全体の背景として常にあらゆる細事のえたいの知れなさを作り出し担保している。
そこに打ちのめされたのである。
最後に、……この本のなかでも、この「頭のいい「雨の木」」だけは高校を出てすぐのころに読んだことがあって、それ以来、細部はもちろんストーリーまで忘れていたが、とある文章だけは明確に覚えていた。その部分を残して終わろうと思う。