本15 未来のサイズ 俵万智
本人とその生き方に共感出来ず、どちらかと云えば好きではないタイプなのに、彼女の歌や文章はとても好きだ。好きというよりひれ伏してしまう。巧すぎて。
どうしてこんなにうまいのだろうと本を閉じ、思わず真剣に考え込んでしまう。私にはその才能がまるでないので歌をつくることなんか夢のまた夢だが、俵万智の創り出す短歌はどこか次元の違うところから来たように思う。私も頭の中で「五七五七七…」とやってみるが字数が足りなかったり多すぎたり言葉が見当たらなかったりでとっても失望だ。
短歌のみならず、エッセイなんかも実に的確というか、思わず膝を打ちたくなったり目から鱗が落ちることを書いている。
昔読んだエッセイを今でも思い出す。「もう少し早く出会えていれば…」と人はよく出会いのタイミングを嘆くことがあるが、それよりも、およそ100年のうちにこれだけの数の人間が存在していながら、その中で、生きているうちにめぐり会えただけでも奇跡ではないか、というような意味合いの事を書いていて思わず「おぉーっ」と声を上げた記憶がある。
その感性がきっとこのような短歌を生み出しているに違いないと思う。
古典に裏打ちされた感性と、時代を切り取る感性のバランスの絶妙な味かげん。
長すぎる春休み子に訪れて竹原ピストル久々に聴く
短歌という文芸はほんとうに面白いなあと私は思う。
もちろん、いうまでもなく私はその道のど素人である。
しかし短歌はそんなど素人の私をも許容してくれる気がする。むしろど素人だからこそウエルカムと云ってくれそうな懐の深さというか。
そう感じるのは、なぜだろう。
個人的な感想だが、短歌はある種の「密室芸」なのではないだろうか。
人口に膾炙していそうで実は「わかるひとにはわかるけど、わからない人にはわからないよ」という突き放した様子。しかしながら決して敷居が高いとかそういうんではなく。
君がもう一歩踏み出してくれば、この歌の内容に少し届くよ、という含みを持っているような。
あるいは作者にしか絶対にわかりえない内容のはずなのに、何故か共感してしまうようなマジック。わからないのにわかる、頭の(心の)中のどこかに触れてくる手を感じる。
これは短歌特有の感触であるような気がする。俳句では短すぎるし、音楽の歌では長すぎるのだ。
そしてこれも俵万智が以前書いていたことだが、五七五七七という縛りがあるからこそ、短歌は自由なのだ、みたいな事。
短歌は自由である。たしかに彼女は述べていた。
そして好んでいろんな短歌を読んでいると、たしかに思う。
短歌って、何て自由なんだろう!と。
首斬られなおも激しく動く脚 命はどこにあるのか脚か